結果でも変えてみせよう
是非の有り無し、白黒の合間、丁か半かの不透明な籠から漏れる光の筋。
ルーフは少しでも救いを求めて手を伸ばし、しかし掴もうとした希望はあまねく暗闇の水底へと沈みついえていった。
「予感も何も関係なく、君にはすでにおおよその察しがついていたんだろう。なあ、少年?」
ルーフは車椅子の車輪を回して、ただそれだけの移動作業に肉体の存在意義を全て注いでいる。
そんな少年に向けて、エミルと言う名前の成人した男が横目でチラリと彼の方を見やり、すぐに視線を前方に戻しながら会話の体を続行している。
「何てったって、君が今その状態に落ち着いた原因たる……「彼女」と最も強い友好関係を築いていたのは少年、他でもない君自身なんだろう?」
エミルは質問の形状を作りながら、声音には僅かに情報を得るための緊張感が微かに香り立っている。
「確か、あー……っと? 名前は何だったかな」
エミルが右の義手で頭を、くすんだ金髪が切り揃えられている頭部をモシャモシャと無造作に撫でつけている。
男が目線を左斜め上に添えつつ、その深い青色の瞳の奥に情報の数々を思い出そうとしている。
その様子を、今度はルーフの方が横目で視界に認め。
やはりその方向はすぐに前方へと戻され、そのかわりにルーフもまた眼球の奥底にかつての思い出を、記憶に含まれた情報の数々を再確認しようとした。
「あいつのことは………、………なんだかもう、随分と昔の事のように思えてきそうだ」
ルーフは車椅子を操作しながら、思いもよらぬ拍子に蘇ろうとしている想像に息が詰まりそうになっている。
「そうか………そうだよな、あの子も思えば怪物の仲間だったんだよな」
記憶の検索はいつしかフラッシュバックと同じ質量を持ち始め、ルーフは現実とイメージの境目への認識を喪失しかけている。
思い出の中にいる、それは女の姿をしていた。
いつか世界の全てに絶望をして、それでも生命への執着心を捨て去ることすら出来なかった。
ありとあらゆる意味、精神、肉体、意識と無意識。
ルーフと言う名前の人間を構成する要素の数々が、全ての色彩を丸ごと塗り替えられた。
そして少年の今後の人生に、おそらくは永遠に消え去ることのない傷跡をいくつも刻み込んだ。
あの夜。
「そう言えば、あの日も雨が降っていたんだろうか?」
ルーフは現在の肉体で視線を左に、そこには建造物の壁に設計された窓がいくつも連なり、内部へ外界の光を取り込もうとしている。
ガラス材の壁が透き通る、向こう側には今日も灰色の曇り空が延々と広がりを見せていた。
窓の外に目を向けているように見える、エミルが少年の様子を見やって軽く首をひねる。
「あー……? どうだったかな。ここに居ると大体の日は、いっつも雨が降っているもんだから、よお分からへんわ」
どれくらいが本音なのかは判らない。
もしかしたらエミルは、監視対象に先刻の「事件」に関するいろいろの事情を、安易に伝えるべきかどうか。
まだ判断をつけることが出来ないのだろう。
それならばと、ルーフはたまたま用意していた現実逃避を相手の感情に転嫁することに甘えた。
「俺としても、あの日の事はあまり思い出したくないな………」
冷たくも無ければ、液体の中にハートを温められるような熱がある訳でもない。
雨が窓の外で降り続けている。
ルーフはそこから一旦目を離して、視線の先端に誰を捉えることもないままに、唇だけが空虚な言い訳を紡ごうとする。
「早く忘れ………───っ」
一刻も早く他人に向けて、この場面においてはエミルがそれに該当するのだろう。
ルーフと言う名前の少年は他の存在へ証明する、しなくてはならないという強迫観念に気管支を強く締め付けられている。
何を? どの様な旨に根拠を与えればよいのか。
答えは少年にとってあまりにも明確で。
自分は、かつての日々に人間として決定的な事柄を失った、あの日から今に至るこの瞬間全てに己が人間であることを証明し続けなくてはならない。
そうしなければ、この世界ではとりわけそれを選択し続けなくてはならない。
その事を少年は知っている、これは仮説でも何でもなく、強い根拠に基づく自信に満ち満ちた主張の一つでしかない。
「だから、俺はあの日の事を一刻も早く………早く」
だからこそ自分はあの日々の事、短い時間の内に起きた数々の出来事を忘却する。
それこそがこの世界において自らの安全性を証明できる、何よりもてっとり早くお手軽な方法に違いない。
ルーフはそう確信していて。
「………っ。………」
しているはずなのに、しかしながら言葉の続きに音を与えることが出来なかった。
声が出なかった。
もしかしたらと。
ルーフはどうにかして楽観的思考を脳味噌の端から搾り、納得のいく要素を使い古した歯磨き粉チューブのように捻り出そうとしている。
顔に熱が膨れ上がるほどに力を込めて、口の代わりに鼻腔で空気の循環を実行する。
試すこと全てに望みを賭ける。
それでもルーフは、少年の喉からはそれ以上の言い訳を言葉にすることを拒否していた。
「何を急いでいるのか、オレにはさっぱり分からんけども」
ギリギリと奥歯を食い縛り、ルーフが喉を圧迫する虚無の一塊に苦心をしている。
その様子を観察しながら、エミルが若い人間に伝えるべき要項を静かに声に発していた。
「いずれにせよ、腹が空いている時に変にネガティブシンキングな事を考えるもんじゃないと思うぜ?」
車椅子の車輪は緩やかに速度を落としている。
だがエミルはタイヤの進みを無視するような格好で、足の先を速やかに別の場所へと動かしている。
「ああ、ほら。そこの角を右に曲がれば、もう食堂の入り口が見えてくるはずやから」
少しだけ前の方を歩いて、エミルが右側の腕で建物内の一角、壁に遮られている向こう側を指し示している。
ルーフは後方でそれを認め、そこで思考の制御に関する課題の数々を一旦は諦めることにしていた。
「嗚呼………やれやれ、ようやっと着いたんかいな」
諦めた、判断が意識の下に理由を伴って重さを得た途端に、ルーフは己を苛んでいた圧力が存在を希薄にしていることを認める。
我ながらなんとも現金なものであると、ルーフが自分自身に溜め息を吐きつけたくなっている。
「これは……年寄りのお節介、しがない婆心と思ってくれればいいんだが」
自己嫌悪に苛まれ、ルーフは前方に待つエミルに追いつくために車輪を回す腕に力を込めている。
少年が、おそらくは心理的要素が大部分を占める息切れを小規模に起こしている。
呼吸の震えが意味するところを、予想するよりも先にエミルは思考を埋め尽くすように実例だけを並べようとしていた。
「忘れようと思うことも、忘れたと思っていることも本当はこの世界には一つもないと思うんだよな」
ルーフが数秒の遅れでエミルに追いついている。
しかしエミルの方は少年に何かの手助けをすることは無く、それよりも提案を全て言い終えることをこの場合に優先させていた。
「とりわけ人間がその眼球に、耳に、口に、舌に味わったことってのはずっと覚えているもんなんだよ」
そう選択した根拠と呼べるものの一つに、ルーフの方が何よりも他人の言葉を求めていたこと。
「………」
彼らは再び平行線の内で歩みを目的地へと捧げている。
それぞれの視線は、歩行における基本的な安全の条件として前を向き続ける。
しかし彼らは言語、身振り手振りを必要としないままに、意識へ僅かな共通の色を繋ぎ合わせていた。
エミルは少年の右側に立って、そこから自分よりいくらか若い人間に向けて言葉を与えている。
「忘れたい気持ちに嘘は無くても、人間ってのは厄介なもんで、一度見たことは死ぬまで覚え続けるぐらいには脳味噌ってのは底が深いんだよ」
文章としての内容はいまいち要領を得ない。
人間の忘却と記憶力についてのいずれかを意味しているのだろうと。
ルーフは頭の中で理由らしきものをイコールの隣に導きながら。
しかし思考は答えの先へ、後ろに息を潜ませている違和感の数々を細やかに、砂地で貝殻を拾い集めるかのようにしている。
「嫌なことはずっと忘れない、忘れる事なんてできないって言いたいのか?」
よもや求めていた形の言葉が、そっくりそのまま用意されるとも思ってはいなかった。
そうであったとしても、ルーフはほぼ反射的に男へ反論をしようとしている。
だが少年の動きを察し、エミルと言う名前の男は目線の色だけで彼の動向を静かに制止させていた。
「何もそんな悲観的な話をしたいってワケじゃねえって」
人の話は、内容は何であれとりあえずは最後まで耳を預けておくべきであると。
エミルは軽めのシニックを口元に滲ませつつ、あくまでも年寄りのお節介としての姿勢を崩そうとしていない。
「記憶ってのはなんだか大層な物のように思えるけど、結局は全部自分の持ちのでしかないから。あー……、だからそんなに気負う必要もないんやって」
エミルが右の手を少し上に、義手の硬い指先が建物の白を基調とした壁の表面を微かに撫でている。
彼の右側の一部を代替わりしている、義手の硬い素材が壁から離れ、そのまま指先は体の前で握り拳をつくっている。
「忘れられない事なら、せめて責任が持てるように。それだけの強さを用意しなくちゃ、過去を祝うことすらも出来なくなるからな」
「はあ………はああ?」
返事をしかけた所で、ルーフは喉の奥から溜めこんでいた空気が今になって漏れ出している。
「おいおい、いま溜め息を吐いたかね?」
対象にようやく人間らしい反応が見えてきたと、エミルが希望的観測に満ち溢れた仮説を再建する。
「溜め息の一つぐらい、吐きたくなるだろうよ」
男が、大人がとても優しそうな笑顔を、ただそれだけを信じている。
ルーフはまだ反論の炎を胸に燻らせながら、しかしてすでに火種を別の感情に流して溶かし込むほどの余裕程度ならば、取り戻すことに成功していた。
相手の言葉に納得をした、と言うほどには真正直になれない。
「何てったって、俺は人間で。この世界の全員がそうしているように、腹が減るとなにも出来ない、弱い、弱い負け組なんだよ」
自虐は、今この時だけは少年に人間らしい苦さをもたらし。
そして、彼らはついに目的の場所へと辿り着いていたのであった。




