いらっしゃいませ異なる世界のお人
言っている事の意味が分からなかった。
「何を………? 何を言っているんだ」
なので、ルーフは車椅子の上から思ったままの、心の底から真正直なる疑問点を言葉として。
後ろで車椅子を押している、ルーフという少年の肉体を運ぶエミルと言う名前の男へ、一切の誤魔化しも遠慮も混ぜていない、ただの質問文だけを投げかけている。
「分からない、言っている意味が?」
呼吸がその形を本来あるべきリズムから遠く離れ、乖離の果てには酸素の供給すらもおぼつかなくなる。
流れが止まった気管支が、肺の奥から膨れ上がる二酸化炭素の群れに圧迫され、膨張の量はついにルーフの喉を破裂させようと。
する前に、彼はどうにか唇の隙間に必要最低限の逃げ道を、生命活動だけを目的とした行為に強く意識の方向を捧げようとしている。
そうでもしていなければ。
「俺が、俺が………?」
余計な事を考えたい、ルーフはその事を強く望んでいた。
欲していた、何故ならそうでもしてなければいずれ自分は、そう大して時間を要する事もしない内に、メンタリティーにおいて何かしら取り返しのつかぬ崩壊を来すであろうと。
予感は火花のようにひらめき、熱の気配はそのまま不安を意味して、やがては強迫観念の炎が火種を。つまりはルーフのかさかさに乾き切った意識へ、赤く燃え盛る火柱を天高く立ち昇らせんとしている。
「少年?」
とても耐え難い苦痛、思考の上にせめぎ合ういくつもの境界線。
線と線のあいだ、無力なるインクの染みの一点として、ただ現実に呼吸と心臓の鼓動だけを連続体として継続させている。
そこへエミルの声が、車椅子の取っ手を後ろから押すことでルーフの移動を補助している、男の声が少年の後頭部に震動を伝えていた。
「黙っちゃったか。オレなんかはてっきり、もっと慌てふためくもんだと思っとったんやけどな」
エミルは当然のことながら他人事として、それでも監視対象が自身の予想に反した反応をしたことに、単純で小規模な驚愕をこぼしている。
「何てったって、自分の体がいつの間にか別の世界、異世界の奴らと一緒になっちまっただなんて。そんなもん、「普通」はもっと泣いたり叫んだり、だとか、そういうのが子供ってもんやないかいな?」
疑問の体を作っていながらも、どうやらこの男は相手を励まそうとしているのだと。
ルーフは男の声音、言葉の音程の高さと明るさで根拠の無い仮説を作っている。
そして頭の中で、もうそろそろ呼吸のリズムを通常の状態へと戻すことに成功しつつある。
異常なまでに平常だけを保っている、体の内層で男への返事を、出来るだけ社会的で社交に適したものを準備しようと。
「そんなんじゃない………」
してみたところで、しかしながらルーフは願望と欲求が全くの別方向を指し示している、その事をやはり平坦な水面のような意識の下で自覚してしまっていた。
「あんたが何を思って、どれを「普通」と思えるのか。は、どうでもいい………」
ルーフが歯を食い縛りながら呟く。
それは一重に、体の震えを抑えるために自然と発生したものであったのだが。
しかし上に乗る人間がどれほど体を振動させたところで、車輪の動きは今は他人へ、つまりは後ろにいるエミルに主導権のほとんどを許してしまっている。
「だが、俺がその範疇に入ると思うか?」
だが、このまま全てを、己を構成せしめる多くの要素を他人に把握させてたまるものかと。
冷たさの感触は雪が触れるのとさして変わらず、代わりにルーフの内層に残されていたのは反発心、磁石の同極に発生する力によく似た熱の数々であった。
「俺がこうなったのも、この体が異世界転生者とか言った………ゴミクソにふざけたバカヤロー共と一緒になった、その理由は他の誰にも原因がある訳じゃない」
ルーフは吐き捨てるかのように、実際それは彼の感情に溜まりこんでいた数々の主張を吐露することと、さしたる違いなどは無かった。
言葉の後で余った吐息が残響として、唇のカサリとした肉の丸みを生ぬるく撫でる。
湿った熱が通り過ぎる。
温度を失うことを恐れるかのように、ルーフは焦燥感に突き動かされるがままで腕を両側の車輪へと伸ばした。
「うわっ」
少年の動作そのものは視界に確認できてはいた、とは言うもののエミルはまさか彼が車椅子の動作を己が手で無理矢理止めるとは思いもよらず。
引力と反発に指が引っ張られる、男は身の安全が第一と反射的に指を車椅子から離している。
「おいおい、危ないじゃないか」
行動に関しての簡単な叱責を。
だが叱るほどの長さを確保しようとはせずに、エミルは足を動かして体の位置を少年の前方へと移動させている。
「何回も言うところ悪いが、自分だけで変に無理をするもんやないって、マジで」
軽い口調の上、しかしエミルのその海原のような色彩の瞳には、それなりの純粋さで相手を慮ろうとする要望がにじみ出ている。
「聞いとんのか? おーい、少年」
だがエミルの声は、音そのものの要素としてでしか相手に意味を為していなかったらしい。
「もし?」
反応の余りの少なさに、エミルは一瞬対象が意識を、あるいはそれ以上に重要な要素を消失してしまったものかと。
「もしもし? 息は……しとるようやな」
一抹の不安のもとに確認を、終えた所で相手は依然として沈黙の状態から帰ってこようとしていなかった。
「完全にデイドリームビリーバー……、じゃなくて、この場合はフラッシュバックかな?」
エミルは丁寧かつ適切に処理がなされた顎の表面をスルスルと撫でつつ。
さて、この白昼夢坊やをどうしたものかと頭を悩ませた。
と、その所で男の内層に一つの悪魔的純真さを秘めた閃きが光りを放った。
「こういう時はあれや、あれやな」
エミルは右腕をそっと、無表情の少年へと音も無くかざした。
それとほぼ同時に、力の発生は決定的に現実へ影響をもたらした。
「っ? ぐえ!」
さてルーフの方は最初の瞬間にその声が、さながらカエルが巨大な鳥類に捕食される断末魔のそれによく似た、潰れた悲鳴が誰のものかと考え。
さして時間のかからぬ内に、喉の辺りを中心として上半身に多量の筋が絡みつき、肉を圧迫していることを察知していた。
「何が!?」
疑問はさして意味を為さず、ルーフは自らの体を苛んでいる赤い筋が目の前の男。
「ああ、やっとこさ返事をしたよ」
エミルという名の、くすんだ金髪に青い瞳を持つ輩によるものであることを、ルーフはすでに理解していた。
「あんまりにもだんまりを決めているから、オレはてっきり寝ちまったのかと思ったぜ?」
エミルが、とても軽い素材で作られた義手をそっと下に。
そうすることによって、胸ぐらを掴まれた状態であったルーフの体は、何事も無かったかのように元の場所へと戻されている。
「この状況で寝れる奴がいるってんなら、そいつはまさに王様級の肝があるんだろうよ」
ルーフは男に文句の一つでも吐きかけたくなって。
しかし、それ以上に自身が陥りかけていた状態への厭忌に吐き気を覚えそうになる。
「顔色が最悪だな、右目とデコの色をそのままツラ全体に攪拌したみたいになっとるよ」
エミルは口元にニヤニヤとした笑みを作り、茶化す素振りで少年に状態の様子を言葉で伝えている。
「そんなもん、これで紅ほっぺの笑顔でいられる訳がねえだろうが………」
後悔も恥も今となっては手遅れで。
ルーフはそれでも、この状況と自らに与えられた運命についての納得を求め続けている。
「えっと? 俺の体が半分くらい異世界人になったってことで。だが、それがいったいどんな風に、オレに影響が出るっていうんだよ」
体を持ち上げられたというのにダメージが思ったより少なかったのは、そのための魔法………あるいは魔術なり何なりを使用した人間が手加減をしたのだと。
ルーフは思いついた予想を深くは考察することをしないまま、どこか逃げるように別の質問を口の上に引っ張り出していた。
「まさかリンゴが食べられるかそうでないかで、自分が転生者やら転移者だとかを判別するだとか?」
挑発するような口ぶりになっている、それはルーフ自身にしてみてもこの仮説があまりにも馬鹿げていると言った自覚の上に成り立っているものだった。
しかしルーフの願いも虚しく、エミルの方は至って真面目くさった様子でしばらくの沈黙だけを相手に与えている。
「いや? いやいや………そんな事で?」
それはすなわち同意を示している事で、ルーフは足元が瓦解するような気分を。
実際には彼の足は地面に触れてはいないので、彼は椅子の上にある右足だけに山頂のような冷え切った失望を覚えている。
「とは言ものの、流石にアレが正規の検査方法という訳じゃないけどな」
少年がそこまで落胆を露わにするとは思ってもみなかったのだろう。
エミルが相手の起爆スイッチがどこにあるかも把握できないままで、とりあえずは目下の不安を解消するための弁明を歩きながら並べ立てている。
「アレで何もかもが全部わかったら、それこそもっと楽に事が済むんやけどな」
はたして「アレ」が何を指すのか。
林檎のことなのか、異世界(あるいは転生者)の事なのか、それとも別の何かしらについてなのか。
「その言い方だと、まるで異世界から来たやつが他に………この世界にいるみたいじゃないか」
ルーフがそう呟く。
声はとても小さい。
だから相手には聞こえていなかったのだろうか。いつの間にかエミルの姿は、ルーフがいる所よりも前方へと向かおうとしていた。
ルーフは特に慌てることもせずに、男の後を追いかける格好で車いすの車輪を自分だけの力で回した。
男がどれだけの速度で歩いていたのか、ルーフは計算をするよりも先に車輪と足の距離がすぐに狭まったのを視界で確認している。
「みたい、や、かもしれない、の話じゃあないんだ」
ああそういえば、食堂はまだ着かないのだろうか。
どこかしらから、食べ物の匂いがしているというのに、進めども進めども場所は壁に阻まれて見えやしない。
ルーフがそう考えていた、その中でエミルの声は存在感をとても希薄にしていた。
「実際、この世界にはすでに沢山、大量、馬鹿みたいに多くの異世界人間が今も、この時も息をし続けている」
それが先ほどの自分の問いに関する答えであることに、ルーフは幾つかの感覚の隙間で根拠を作り上げていた。




