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アイスを買ってきて食べよう

 実感が水滴の一粒すらも湧かないという状態が、こんなにも心情において強い圧迫感を与えるものだったとは。


 ルーフは建物の廊下を、車いすの車輪を動かしながら移動しつつ。

 頭蓋骨の中身ではまた一つ、人生に新しく認識することの出来た変化の在り方を、しみじみと独り静かに喉の奥で味わっていた。


「納得がいかないって感じやな」


 黙って先を進もうとしているルーフへ、エミルが割と近くの背後から一般的な音量によって話しかけている。


「納得もなにも………、疑問に思うことなんて何もあらへん、ですよ」


 まさか考えていたこと、あるいは考えようとしていた細々が丸ごと表情に出ていたとは、流石に信じたくはない。

 そんな風に、拒否感がまず最初に顔を覗かせる程度に、背後の男から指摘された内容はおおよそにおいてルーフの心情的内容に即しているものだった。


「またまた、下手な嘘は余計に不恰好になるだけやって」


 そもそもエミルの立ち位置を考慮すれば、前方にいる少年の表情まで確認できるはずもない。


 だから、ルーフという名の少年は傾けられた杯の酒が床に零れ落ちるのと同じ速さ、滑らかさの中でイメージを拡散する。


「それじゃあ、正直に心からの意見を言わせてもらうとして………───」


 ルーフは車椅子を動かす手を、車輪に触れる指の動きを一旦止めて。

 静態の中で、二秒程度の短さの中で言葉を考え。


 そういった準備期間の果てに。


「なあ、俺は………俺は本当に………?」

 

 結局は二秒以上の時間をかけて、少年はようやく他人に質問文を言葉に変えていた。


「本当に、俺はまだ人間なんだよな」


 絶対に聞き逃されないように、声が小さくならないように。


 ルーフは懐疑を、現在における少年の不安に多大なる意味合いを占めている。

 そして同時に、この世界で何よりも信じなくてはならないはずの、大事な要素についての答えを求めていた。


「もしかして、俺はもうすでに何か………何か別の………?」


 ルーフは自分のことを見ている、他人の男の視線、海の色に似た眼球の色合いをジッと。

 睨むように、窺うかのようにして凝視している。


「不安を抱くのはまだ早いよ、少年」


 もうここまで来ておいて、誤魔化しや言い訳じみた格好のつけ方などゴミ屑以下の価値しかない。


 だとしても、どうやらルーフは相当に酷い顔色になってしまったのだろう。


 エミルがそんな少年の形相をしっかりと見やり。

 その上であくまでも大人らしい笑顔を崩すことなく、監視対象の平常心を取り戻そうと試みている。


「何も不安に思うようなことなんて無い、とオレは思う。そもそも、どういった基準において「普通」の人間として名前を呼んでもらえるか。その疑問はあまりにも哲学的すぎて……」


 男はルーフをなだめて、落ちつかせようとしているのだろう。


 そのくすんだ金髪の下、脳味噌による認識には少年が今にも不安に心を苛まれようとしている、そんな風に見えているのだろうか。


 それとも単に励ましを送りたいだけかもしれない。

 何にしても、エミルと言う名前の男はどうにか上手い具合の形容を考えようとして。


「あー……ダメだな、難しい言葉で誤魔化すのも何か違う気がする……」


 結局は何も成果を得られることなく、エミルは右の義手でコショコショとくすんだ金髪を雑に撫でつけている。


「そういう難しい話は、もっと専門の人に任せといたらエエんやって、な?」


 諦めの速さに関しては、どうやらこの男と少年は共通項としての条件をそれとなく満たしているようである。


 ルーフがそんな事を考えながら。

 しかし依然として疑問に関する答えへの欲望を諦めきれず、次の一手を舌の上に用意しようとしている。


 ちょうどそのタイミングにて、ルーフは自らの腹部に収蔵されている消化器官が伸縮の音をグウグウと振動させているのを耳にしていた。


「ああほら、腹の虫もそろそろ拡声器を使い始めるとるで」


 生理的な音色を丁度良い区切りとして、エミルはかなり強引に話題を逸らそうとしている。


「早く飯でも食いに行こう。ここの食堂はなかなかに上手いランチを作ってくれるからな」


 エミルはそう言いながら、速やかな手つきでルーフの座る車椅子の取っ手へと手を伸ばしている。


「確かに腹は減ってるけど………」


 流石にこれはあまりにもわざとらしいと。

 ルーフは体の操縦権を取り戻すよりも、それ以上に男の動揺っぷりの方が気掛かりで仕方がなかった。


「………まあ、でも」


 しかし何時までも、どこまでも探究心を発揮できるほどのバイタリティを保持してはおらず。

 それはひとえに空腹も原因の一端ではあったが、実を言えば別のアクセス方法を思いついていたというのが主たる要因でった。


「確かに今ならなんでも食えるような気がしますよ。例えば………リンゴなんかは、あの赤色とベタベタとした汁にかぶりつきたくて仕方がない」


 幾ばかりか説明口調めいたものになってしまった様な気がする。


 だが実行の意味は充分に成就を果たしていたと、ルーフは椅子に座るような格好でひたすらに祈るより他はなかった。


「ふむ、リンゴの話に移行しようという気か」


 意図を含ませたことに関しては、割かし早めにエミルに悟られてしまっていた。

 だが目的の把握などはこの場合には肝要(かんよう)ではない。


「あの時、まだリハビリもろくに出来ていなかった。あの時にリンゴを食べさせられたのは、何か理由があったんじゃ………ないですか?」


 建物の廊下はまだ続く。

 そろそろ何処か、そんなに離れていないところから人々の喧騒の気配が聴覚器官に微かな吐息を吹きつけている。


「勘の良さは、養父譲りということになるんかな」


 あともう少しで他人が沢山いる所にたどり着ける。

 そこはきっと食堂と言う名前を与えられた空間で、そこでは大勢の人間が食事を行うために様々なやり取りを繰り広げられている。


 ルーフが音の中で予想を、ほとんど無意識のそれに近しい速さでイメージと作り上げている。


 実態も質量も、重さも何もない空想のイラストレーションへ、エミルが静かに呟いた感想文がそっと添えられてきた。


「え?」


 ルーフが聞き逃した言葉をもう一度確認しようとしていた。


 だが少年の行動よりも早くに、エミルの方が諦めを一つ作り上げたのが先の出来事であった。


「とはいうものの、もうすでに君自身でもそれなりに諦めがついているんだろう?」


 はて、ルーフは質問をしていたはずの自分がどうして問いただされているのだろうか。

 理解を追いつかせるよりも先に、会話を続行しなくてはならない、言葉を途切れさせてはならないという人間じみた本能を先に働かせていた。


「気付いているかいないか、そうじゃないかっていう話なら、あんたの言うところでおおよそ正解だと、思い、ます」


 つまりは自分が人間であるか否か。

 疑問はすでに明確で、後はそれに言葉による衣装を被せれば一つの幕は終わりを降ろす。


「そうか、それなら話が早いな」


 ルーフの返事を聞きながら、エミルはすでに足の動きを再開させていた。


「リンゴを食べさせるってのは、いわば検査の一つみたいなもんなんだわ」


 食堂までの距離はまだ少しあるらしい。


 ルーフがついに一つの結果を、余りにも明確が過ぎる事実の一つを受け入れるための準備動作を、ドライアイスよりも攻撃的な冷たさの中で実行しようとしている。


 少年の拳が車椅子の上で、赤さが圧迫感と共に密集される。


 一個の人間の肉体にそれぞれ、まるで毛色の異なる温度が同居している。


「検査………リンゴで?」


 少年のそんな複雑さを知ってか知らずか。

 認知の有無は議題の範囲外であると、エミルは相手が理解を追いつかせるよりも先に事実だけを述べている。


「彼方……。この世界とは違う種類の世界、いわゆる所の異世界から線を越え、「傷」の膨らみと共に我々の暮らす土地を侵略せしめんとする。異形のもの、異常なるもの。畏れ、恐怖し、(おぞ)ましいとされるもの」


 エミルが突然、まるで何かしらの宗教の教義を唱えるようにしている。


 それは大人の人間らしく、低く周囲の空気を音の波として振動させている。


 だがルーフは意外にも男の台詞を違和感なく受け入れている。

 それは話の内容に共感を抱いただとか、深く感銘を受けたという訳では決してない。


「それ、………じいさんがよく読んでくれた本と同じ内容だ」


 ルーフは後述の内容を知っていた。

 それはいつかの過去。まだ彼が緑の木々と草花、静謐(せいひつ)と土の匂いに包まれた故郷で暮らしていた。


 その時にルーフと、妹であるメイの保護者として互いに何の関連性もない兄妹を、一つの家族として保護していた。


 ルーフの頭の中に一人の人間の声が、大人の男、祖父と慕っていた人物の声が鮮明に蘇ってくる。


「彼らはかつての世界を捨てたもの。思いでも記憶も、何もかも捨て去っておきながら、愚かにもその魂は完全に消滅しなかった。消すことを選択しなかった、彼らはその尽きる事のない欲望のままに我々の世界を、一切の良心もない暴力的な力の差で押さえつける、それはさながら鉛玉で人心を掌握せしめる独裁者のよう。燃え盛る真鍮の牛の尻で笑う皇帝のよう」


 いつの間にか記憶は現実へと強く介入をしていた。


 ルーフがふと、自身の意識を取り戻している頃には車椅子の動きは再び止まっていた。


「ふむ、実に結構」


 廊下はそろそろ終わりを迎えようとしている。

 喧騒の音色はだいぶ近付いてきていて、もしかしたらあの角を曲がれば最終目的地は目の前かもしれない。


 あと一歩の手前、しかしエミルは止まったままで少年の論についての感想をじっくりと、悠長そうに考えている。


「素晴らしい記憶力だな。まるで論文そのものを丸ごと暗記しているようだ」


 エミルはまず最初に少年へ賞賛の言葉を、やはりそこには何の皮肉も読み取れそうになかった。


「それだけの事を知っているのならば、彼方と呼ばれる怪物についての説明は不必要かな」


 まるで話が早くすむことを喜ぶかのように。

 エミルはおそらく口元に笑顔を作っているに違いない。


 そして彼は、青い瞳の下で決定的な要素を最後の仕上げとして舌の上に登場させる。


「今の君は、先の特殊な転生者による暴走事件、それに巻き込まれた後遺症として……肉体が幾ばかりか彼らに近しいものとなっているんだ」

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