貴方には勝てるだろうか
ルーフはまず最初に羞恥心を抱こうとしていた。
真っ昼間からまさしく白昼夢に、それもかなり恥ずかしいタイプのそれに、なかば無意識の状態へと没入するレベルで嵌まり込んでしまった。
その事に関して、ルーフと言う名前の少年は熟れた林檎も遠慮をする勢いで赤面を炸裂。
そして直後に何か、何かしら、何でもいいので言い訳を一つや二つ。
自身の矮小で貧弱なる言語の鉄柵が描く領域内において、出来うる限りの誤魔化しをねじり捻り出そうと。
最初、ほんの僅かの瞬きの内においては、確かにそう考えていた様な気がする。
間違いなくルーフ自身が考えたはずの。
しかし彼はどうして己の思考に自信を持つことが出来なかったのは、過ぎ去った刻の先に得た理由が全く別の方角を向いていたからであって。
「うわ………っ」
自らの失態に恥じ入りを加えようとする以上に、ルーフは己の内から爆発的な勢いで膨れ上がろうとする音量を抑え込もうとしている。
音声は確かにルーフの脳、意識下において心理と生命における情報と関連した命令文が発せられた、その結果による副産物でしかないはず。
つまりは、ルーフの右手首にエミルと言う名前の成人男性の右手がくっ付いていること。
それは男が少年の手首を抑制と言う目的のために握りしめている、つまりはそういった状況となっている。
言葉の上ではそう表現できるであろう、だがそれではあまりにも言葉が少なすぎる。
少なすぎて、こんな描写ではあまりにも「普通」が度を過ぎている。
「て、手首が………」
ルーフはエミルの右手に掴まれている。
だがその右手に腕が、本来あるべき肉体の塊が一切付属していない。
そこに在るのは右手首だけで、それ以外の要素は何一つとして含まれていない。
嗚呼これは、そうだ、そうかもしれない。
ルーフは考える。
例えば人の居なくなった廃デパート、衣装売り場のマネキンに邪悪な魂が宿って、そいつに手を掴まれたのを必死に振り払った。
ちょうどそのような感じ、人形のそれとしか思えない手首が、手首だけがルーフの腕を強く圧迫している。
まさか腕が取れるとは、いったい誰がそんな事を予想できたというのだろうか?
………いや、よりにもよってこの灰笛で。
この、泥中に開く蓮華の花弁よりも突飛で、奇妙なこの地方都市において、果たしてどれだけの常識が通用するというのだろうか。
悲鳴を押し殺し、噛み潰した。
溢れんばかりとなっている音を強引に圧縮した。行き場の無くなった空気の質量は、そのままルーフの心理的負荷の度合いを示しているようで。
元々がハプニングに全く慣れていないこの身。
易々と許容範囲内をこえた感情の波が、みみっちい井堰をぶっちぎって見事なる反乱の渦を起こさんとしている。
「あー……っと?」
嗚呼、ああもう、もう駄目だ。
ついに堪えきれなくなってきた。ちょうどそのタイミングで、エミルがまるで見計らったかのように口元へ苦笑を浮かべている。
「悲鳴をあげるのならば、早いところ済ませた方が良いと思うぜ?」
当人の内層においてどれだけのやり取りが、ラインのギリギリを攻める凌ぎが繰り広げられていたというのか。
しかしそんなものはルーフ本人に限定された、狭苦しい問題の範疇から外れることは決してありえない。
傍から見れば、他人の目線にしてみれば、せいぜい数秒のあいだ目ン玉をおっぴらいた形相のままで体を硬直させていた。
ただそれだけの事にすぎない。
「ああそうか、君にはまだコレの事を教えていなかったんだっけな」
他人から指摘をされた少年がどうにかして体の硬直を解くための実行を、そのための回路をホットケーキミックスのように掻き廻している。
エミルはその様子を静かに見守りながら。
やがて監視対象がようやく通常の呼吸音を発し始める、それを確かめた後に男は改めて左手を。
なにも損傷をきたしていない、いたって健康的かつ若々しい骨と肉と皮膚で形成されている。
健康で「普通」そうな、左腕の方を差し出そうとした。
だがその寸前で、エミルの瞳の奥で一つの下らないひらめきがキラリと輝きを発する。
「そうだ、ちょうどええから、ほら……」
伸ばしかけた左側を容易く元の位置に戻した、そう思った時にはルーフの目の前には右の腕が。
エミルの、男の本当は本物ではなかった右側の上肢をこれでもかと差し向けていた。
「ここに、それを、戻しておいてくれへんか」
エミルが意地の悪さを隠そうともせずに。
まるで悪戯をしかけるくそ餓鬼のようなニヤニヤ笑いを口元に、空の右手首をずいずいとルーフへ迫らせている。
「え、ええ………?」
これは相手側のおふざけで、いわゆる所の余興でなのだろうと、ルーフは苦さの染み渡る思考でそれとなく理解を至らせている。
たまったものではない、こんな条件を引き受けられるものかと。ルーフはやはり最初だけ反発心を抱きかけて、しかしすぐさまその考えを自己の内で否定した。
「まあ、まあ………ですよ? 確かに俺が暴れなきゃ、この右手もすっぽ抜けることはなかったんやろうけども………」
もうすでにルーフの中には、呆れと諦観によって組み立てられた平常心だけしか残されていない。
それはつい先程まで激情を猛り狂わせ、暴力的に発散させようと欲望の唾液をこぼしていた輩とは全くの別人、赤の他人のようであった。
「そうそう、手前の失態は早めに片しておく。これが人間社会の鉄則だな」
相手の様子の変化を言葉で、表情で把握をしたエミルは、笑い方を大人らしいそれに変化させながら少年の調子へ合いの手を加えている。
「なんとも優しくないルールだよな………、だから人間って嫌いなんだよ」
男の笑顔をうなじの情報に認めながら、ルーフは自身に運命づけられた生命の呪いを嘆いている。
エミルは少年の溜め息へ穏やかな笑顔だけを送り、修復作業は手早くと右腕を差し向けたままで彼に指示を与えている。
「ほれほれ、ここですよ、この暗闇に外れたものをカポッとはめ込んでくれや」
「うえぇー………」
決定はもう覆らないであろう、ルーフは速やかに現実へ諦めを一つ結びあげる。
そして左の指で右手首へ、そこに食らいついているエミルの義手の一部を剥がした。
こうなるまで偽物の右手はずっとルーフに付着をし続けていた。
さながらバッタが無粋なる人間の指に食らいつくかのように、ぎりぎり痛覚を起こすかそうでないかのライン上で、義手の一部はルーフに密着している。
もしもそれが広く一般的な、良識的な義手であったのならば、重力の名のもとに常識的な落下を起こしていたはず。
だがやはりと言うべきか、ルーフの眼前にあるそれはそのような良識を発揮するはずもなかった。
「よい、しょ。う、んん? 取れない………。………っ、………せいっ!」
割かし強めの腕力、発破をかけてルーフはようやくエミルの右手首から解放されていた。
「何なんだこれ、勝手に動いているように見えるけど?」
ルーフがその琥珀色の瞳にかなり深く濃い訝りを浮かべている。
少年の表情を見てエミルがなんとも愉快そうにしていた。
「そりゃあ、それは特注した特別の製品だからな」
何故か得意げにしている男をチラリと見上げ、ルーフは息を吐き出すよりも先にさっさと作業を終わらせることにしていた。
「そいじゃあ、これを………ここにはめる? ………。っと、よし………出来たか?」
ガチリガチリと硬い物同士が触れ合う音が少し空気を震わせて、ルーフは指の間に成功へ向けた確かな感触を味わっている。
「よし、どうもありがとうな」
ルーフが未知なる体験にあからさまな嫌悪感を眉間に浮かばせている。
だがエミルは少年の動揺など些末な問題でしかないと、その青い瞳はすでに別の展開を望んでいた。
「と、これまた丁度の良いところで事が次々と上手くいったようだぜ」
「? 何の話───」
ルーフが疑問を口にすると同時、あるいはそれよりも早かったかもしれない。
どちらにしても、彼らの耳元に「ポーン」と電子的な鐘の音が届いてきた現実は、変更の効かぬ事実でしかなかった。
「ほら、着いたぞ」
エミルが短く説明をしている。
だがたったそれだけの言葉すら蛇足を感じさせるほどに、ルーフはエレベーターの扉がいつの間にやら開かれていることが信じられなかった。
「本当だ、いつの間に………」
どうやら図らずして余計な事に意識を割いてしまっていたらしい。
ルーフは驚きと疑いを胸に抱いたままで、しかし感情よりも先にこの閉鎖空間から脱することを強く望む。
それこそ本当の意味において、無意識の水底による欲求と呼ぶに値する。
静かな願いの中、ルーフは自発的に車椅子を使用しながら、あまりにもアッサリとエレベータの外側に体を移動させていた。
「何時もなにも、君がさっき魔術式に命令文を入力してくれたんだろう?」
くるくると車輪の触れ合いと音が建物の床を噛みしめる。
ルーフが光景の変化に瞬きをしながら眼球を馴染ませようとしている。
その背後から、エミルが質問文のようなメロディーで少年に確認をしてきていた。
「いやあ、ビックリしたよ。城の移動用魔術式は本職の人でも解り辛いって、いっつも苦情の草書が大盛りスパゲティーよろしく相談口に届けられるってのに」
ルーフが車椅子を軽く繰り後方へ、エレベーターの入り口がある方へと視線を動かせば、そこにはエミルがなんとも調子の良さそうな笑顔を作っているのが見えた。
「それを、いとも簡単にスラッスラッと不具合を解いて、しっかり目的の場所に向かうためのコードを入力……。流石──」
これは、どう否定的かつ悲観的な思考を持ち合せた所で、男が自分に賞賛の言葉を贈っていることを認めなくてはならない。
ルーフは男の言葉を耳に受け止めながら、しかしそれ以上の言語を情報として受け止めることをしなかった。
出来なかった、と言った方がこの場合には正しいか。
ルーフは他人の話を聞いている素振りを作りつつ。
目線をふと、己の右手へと降ろしている。
「………」
そうなのだろうか?
確かに右手には何か、方法を解決するために動いた感覚の形跡が、肉や骨、関節を満たす液体の隅々にまでキッチリと残っている。
甘噛みをされるかのような痛み、そんな疲労感が確かに痕跡を描いている。
だが、ルーフはどうしても自身に確信を持たせることが出来ないでいた。




