余計なことでも言おう
気を取り直して、なんて、とてもじゃないが言えそうにない。
一体全体どの様にして気分を直して、取り繕えばこの暗澹とした落胆に終止符を結い上げられるというのだ。
ルーフは方法を何とかして考えようとしている。
そうでもしていないと、何かしらのとてつもなく暗くジメジメとした暗黒面が喉の奥から、声帯を振動させて舌の肉に言葉として発言を、してしまいそうな。
「それで、………俺はまずこのエレベーターから脱出をしなきゃならんのやったな………」
衝撃的な真実もそこそこに、ルーフは額と右目に包み込むような痛みを覚えながら、しかしそれをどこか他所事のように受け流しつつ。
少年がどうにかして心身の微弱なる変化を、折り合いという名の誤魔化でゴテゴテに着飾り、着ぶくれをさせようとしている。
その様子を視線の下に認めながら。
「どうにかするって言っても、果たして君にやり方がわかるとも思えなんだけどな」
エミルの方でも特に違和感を持たせることのないまま、少年の意向に合わせたコメントを滑らかに言葉へと変換していた。
もちろんそこには監視対象である彼に向けた気遣いもあり。
しかし、それ以上に疑問はエミルが抱いている疑問点に強く起因をしていた。
「かなり情けない話なんだが、正直なトコロここで働いとるオレがよくワケ分からんことになる位は、この城のエレベーター機能は厄介なんだぜ?」
「………そんな危険なもんを移動手段として使うべきなのか、まずそこを検討するべきじゃないか?」
ルーフは改めて自らが収容をされている施設、機関に違和感を抱きそうになり。
それら含めてこの渦巻く主張を抑え込むわけにはいかない、これ以上感情を不必要に溜め込めば、いずれは決定的な破裂と決裂が起こるであろうと。
そんな嫌な予感を胸に、さして肉の厚みがある訳でもない胸部に胸やけのような痛みを覚え。
それを堪えながら、ルーフは口内に膨れ上がる唾液の容積をゴクリと飲み下している。
「えっと、あーっと? つまりはこれは普通の機械的な、電力と信号に頼った入力パネルっていう訳じゃないんだよな」
かき上げた前髪はさながら形状記憶合金よろしくと、うねりは外界に降りしきる雨の水分を大量に吸い込んで、その場所に重力に逆らう格好で形を保持している。
しかし何時までも同じ状態が続くものなどこの世には存在していない。
当たり前の事実をさもありがたい事のように、ルーフの無意識が論を垂れている。
懇切丁寧な解説が右から左へ、小川の水のように流れ去っていく。
余計な事を感が手いる場合ではないと、ルーフの無意識は限りない自然さの中で情報の取捨選択を迷いなく実行している。
「………、……………?」
どうしてなのだろうか、先ほどまではあれほど心情に荒波が泡を吹いて膨張を繰り返していたというのに。
ルーフは疑問を抱いていた。あまりにも自身が冷静になっていること。
頭の中で幾つかの筋道がイメージとして浮かび上がり、かと思えば粉砂糖のように跡形も無く融解を繰り返している。
自分自身が呟いた否定文が事実に則していること。
ルーフは目の前にあるボタンの数々が魔術によるものであることを、なぜか根拠も確認もすることなく確信めいたものを早くも抱いていた。
「………」
理屈は把握できた。
ルーフの頭の中で幾つかの記憶が情報として展開されていく。
あれはいつの事だっただろうか、思い出してみようかと少年は考える。
思い出は脳内にイメージを反映させている。
ぼやけた点の数々が夜空の星々のように輝き、煌めきはやがてそれぞれを流星の線として結び合わせていく。
線による領域が幾つも増えていく、その内側に色彩が滲む。
枠は無数に増え続ける。
細胞の分裂によく似た増殖はやがて一人の人物の姿を少年の創造へ、本物の肉と血液の温かさに限りなく類似した虚構をもたらしていた。
「………、………」
ルーフは、その名を与えられた少年は呼吸を繰り返している。
空気が期間を通り抜けて、肺胞の丸みに纏わりつく毛細血管に生命的かつ基本的で、どこまでも本能でしかないなやり取りが執り行われている。
空気の流れが一定のリズムによって繰り返される、それはどこかASMRのように脳へ直接影響をもたらすかのような。
本来ならば何ものにも晒されることなく、一生の内で一切空気に触れることなく秘され続けるであろう。
柔らかい粘膜をカサついた指が直接触れてしまう、累積する緊張から急激に開放感だけが残される。
空虚な快感だけがぬるま湯のように、意識をじっとりと染めて湿らせている。
やがて温かさが全て通り抜ける、温度が世界の冷たさと同じくらいになった頃。
「………、………────………」
ルーフが一人の女性の名前を言葉にしている。
果たしてそれが言語としての意味合いを有していたであろうか、それはルーフ自身には到底判断のつかないこと。
単語そのものには言語としての役割をほとんど有していない。
もしも彼が発したそれに、それらしい理由を持たせるとすれば、それが出来るのはその名前を有している女が彼の前に現れること。
女が彼の前に、あの白くて細い。
濃霧の中にたたずむ白樺のような、細腕が少年の頬を、首をそっと包み込む。
彼女はきっと、自分を抱きしめることに恥じらいを覚えるのだろう。
そんなことをしては、はしたないと。彼女は粉雪のようにふわふわとした羽毛を羞恥に膨らませながら、それでも自分の望みを必ず叶えてくれる。
ルーフにはその確信があった。
それはルーフにとって、彼が自分自身を確立するために証明をし続けている事柄のうちの一つ、主体となる要素であった。
ルーフは目を閉じて、指先には冷たさが触れている。
その冷たさの正体がいったい何であったのか。
考えるまでもない、知っているはずの事を、しかしルーフはこの瞬間においてのみ完全に忘却しきっていた。
指先が動いている、それが何を意味しているかも解らない。
ルーフにはもう何を理解する欲求すらも、手のひらから零れ落ちる水か、あるいはそれ以下の意味しか為していなかった。
「………、?」
はて? 自分は何を考えていたのであろうか。
指は動きを止めていない。
何かを入力していること、その程度の現実だけがかすかな音色の中で耳に届けられている。
しかし、どうして、ルーフは現時点で起きているはずの全てが、どうしようもない程に倉田無いものとして考えずにはいられないでいる。
それ以上に、ルーフの眼球の奥底。
左は当然のことながら、すっかり異形のそれと成り果ててしまった右目ですら、この時はほぼ完全に甘い肉と骨と羽毛の触感を強く恋い焦がれている。
右の指は入力を止めていない。
何かしら、指の先端からヒソヒソと駆動の音色が発せられたように思われる。
それはとても重要な意味を持っていた様な気がする。
だがルーフにとっては、甘く温かい空想がほかほかと湯気を立てる大鍋に身を浸そうとしている、少年はすでに現実から完全に目を逸らそうとしていた。
目線を逸らす。
左目、右目は今も真っ青で、瑠璃色の表面には金の輪がさも当たり前の面を下げて、怪物のようにキラキラとしくさっているのだろうか。
別に、それでも構わいのかもしれない。この甘い空想の前には、そんな外見上の問題が一体なんだというのだろう?
些末だ、矮小だ、なんて下らない!
ルーフはイメージの世界で女の、妹と信じていた彼女の手を引く。
そして足を動かす、爪先が向かっている先。
その先には………、嗚呼、そこには彼が、あの人が。
「………」
あの人が手を伸ばしている。
温かそうで、その手は大人らしく大きく、表面は巨大樹のようにカサカサとしていそうで。
その手は、命が終る瞬間まで考えることを止めようとしなかった。
答えを求め続けた、その果てにどれ程の喪失があろうとも、あの人は答えを求め続けていた。
その手が、どうして………? 動きを止めることになったのか。
「誰が」
ルーフは考える。
ルーフと言う、この名前を与えてくれた彼が、もうすでにこの世界にいない理由について考えようとする。
「誰が?」
指はいよいよ永遠に動き続けるのではないか。
だがルーフがそうしている、それが出来ている。理由もすべて、記憶の中にいる彼の模倣をしているにすぎないと、ルーフはついに答えを導き出していた。
だがそんなものは、せいぜい真理の一端にも満たせていない。
自分にはもっと別の、考えなくてはならない事がある。
それは要望でも何でもない。
ルーフは疑問を求めようとする、意識はエタノールが燃えるよりも早くに強迫観念へと姿を変えていた。
どうして彼は殺されたのか、殺される原因は?
彼は何を実現しようとしていたのだろう、その人生の果てに何を求めていたのだろう。
ルーフと言う名前を与えられた少年は考える。
思考の回転はいよいよ歯止めが効かなくなる、制限のないイメージが熱を帯びて、やがては大きな炎へと。
「──……少年、少年!」
熱が膨らむ。
あと少しでも、火花の一粒でも刺激を加えさえすれば、後に待っているのは絶大で強大で、分別も見分けも何もない、見境のない大爆発だけ。
「──……少年、おい!」
ここまで来てしまえば、もう何も難しい事など無い。
イコールが手招きをしている、後はそこに唇を寄せて息を一つ吹きかければ全部が終わりを迎える。
何の終わりが来るのか?
それに関してはルーフにもなにも分からない。
分かりたいとも思わなかった。
だって、そんな理由になんの意味があるというのだろう?
何かが激しく動いている音がする、
それは限界を意味している。
しかしルーフにはそのようなものは、雑念とした下らないものでしかない。
答えを求める、その先に広がる快感の蜜の煌めきの前には、全てが三文芝居のそれでしかない。
「………、………!」
ルーフはついにその手を掴もうとしする。
彼が選択の果てに結果を得ようとした。
「………? うっ………」
だがその手前で、ルーフは自らの右腕を強く握りしめている、指の感触によって虚構から現実へと落下していた。
何者かがルーフの腕を強く握りしめている。
それはおよそ良心的なものとは大きくかけ離れている。
もしもルーフがこれ以上行動を起こせば、その力は彼の右腕を骨まで粉々に潰さんとしている。
それの程の勢い。
ルーフはそれに対して強く苛立ちを覚えた。
あともう少しで結果が得られる。
そこへよりにもよって、クライマックスの寸前に邪魔をしやがる無粋な異物。
「………っ!」
苛立ちが怒りへと色を変える。
変化の勢いに任せてルーフは強く腕を振り回した。
抵抗を期待してた、その力が生き物によるものであるのならば、反発があって然るべきだとルーフは信じきっていた。
だが少年の期待は大きく外れることになる。
振り回した腕は、しかして何の反発力も与えられないままに虚空を鋭く撫でる。
それだけで終われば、ルーフは自分の反抗が何の意味も為さなかったと片付けることが出来た。
そうであったのならば、まだ次の一手を考えられるほどの余裕を作ることが出来たはずであった。
だが、やはりそうはならない。
「? っ! 痛!?」
振り回した腕を顔の近くに動かしていた、もちろん顔面の位置はちゃんと把握していた。
確かにそうであった。
なのにルーフは顔面、右の眉の上あたり、ちょうど怪物に成り果てた際の呪いの残滓、鉱物のように固い物質を形成している部分。
その辺りに、謎の異物が他でもないルーフ自身の腕の力を伴って強烈なる衝突を起こしている。
「何、何が……?」
硬い物と硬い物が互いに激しく衝突をする。
ビリビリとした衝撃波がルーフの脳を揺らしている。
震えはやがて痛みへと姿を変える。
それはつい先程までルーフを突き動かしていた欲望とは、また別のベクトルを有した影響力の大きさであった。
「ハア……やっと正気に戻ったようやな」
生理的か心理的なのかもわからい、塩辛い涙に眼球を濡らしている。
少年の様子を見下ろしているのはエミルの青い瞳であった。
「まったく、まさかこんな所で変身でも起こすんじゃないかと、オレはもう年甲斐も無くびっくりヒヤヒヤとさせられたよ」
エミルは深く溜め息を吐きだしながら。
右の腕を頭の方に、指でくすんだ金色をした毛髪を撫でようと。
してみたところで、指は男の毛髪を掴むことをしなかった。
何故なら彼の右手は腕にはなく、それはルーフの右腕、少年の手首をがっちりと掴んでいたからであった。
「あー……っと」
エミルは先端が空になってしまった右腕を気まずそうに軽く振り、代わりに左手の方をルーフの方へと差し出している。
「いきなり強く掴んで悪かった。とりあえず、右手を返してくれないかな?」




