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綺麗に呼びかけよう

 流石に動揺が過ぎたらしい。


 ルーフが車椅子の上でそそくさ、カサコソと埃のあいだ潜む昆虫の足音のような。

 そんな挙動をしている。


「あれ、どうかしたか?」


 少年の様子を視界の下にそれとなく認めながら。

 エミルは車椅子の取っ手を握りしめ、重さを特に苦にするでもなく、ルーフと言う名前の少年の不安定な挙動に関しての疑問を軽快な口ぶりで発している。


「いきなり伝説のカンフー武道家俳優、及び映画監督のような動きをして」


「いや………俺ごときがそんな属性たっぷりなアクションを………」


 嫌にピンポイントな比喩表現をしてくる。

 ルーフはそこに反応を起こすよりも、しかしそれ以上に危惧すべき事柄を懐の内側へ重さと共に自覚していた。


「別に、別に? 俺は何も隠しておりませんよ、決して」


 これはあまりにも下手で、完成度としてはどうしようもない程にお粗末な嘘であると。

 ルーフは言葉の背後から秒を待たずとして後悔を、しかしすでに音声は唇の隙間から空気漏れのように排出がされてしまっている。


「ほう……?」


 明らかに怪しい、最低限の平常心すらも形成できていない。

 エミルはそんな少年の動揺っぷりをチラリと見おろして、だが安全のための前方確認を怠ることをしていない。


「あー……、これはオレが常々個人的に主張をしている意見なんだけどな」


 エミルは廊下の角を曲がろうとして、下方に回る車輪の稼働領域を腕の中にしっかりと意識している。


「無駄に倒置法を使って、かと思えば体の動きで場の空気を流そうとする……。そういう奴の言うことは、大体がウソかでまかせだって」


 エミルは廊下におけるカーブを滑らかに実行しながら、視界の下側で少年がビクリと喉を震わせる音を聞き流している。


「まあ、これは親戚の叔父さんが言っていた事なんで、信憑性は欠片も存在していないも同然なんだけどな」


 なんとも形容しがたい、気まずさばかりの沈黙が男と少年の間にしんしんと、粉雪のように降り積もろうとしている。


「ああほら! ほらほら! そんな下らない嘘はどうでもよくてさ、もっと別の楽しい事をしゃべくりまくろうぜ?」


 そろそろルーフが入院着の中で解決策を。

 殆ど不慮の事故の中で持ちだしてきてしまった漫画の一冊を、それとなく丁度の良いポジションへと押し込んでいる。


 図らずして集中力を発揮してしまう。

 それ故の静寂を、エミルは独断で少年が機嫌の具合を降下させていると勘違いしていた。


「え? なんだって?」


 ルーフにしてみれば、気が付いたときには男が自らの背後で狼狽じみた息遣いを起こしている。

 男の感情の変化に怪訝さを抱きながら、だがあえてそこに疑問点を抱くことをせず。


 ここは何となく、とりあえず相手の話題に足を乗せることを試みている。


「えっと、楽しい話? そんなもん………」


 やがて明るさの満ち足りている廊下が終わりを迎え、彼らは建物の中に設置されたエレベーターの中へと入りこんでいる。


 車輪が段差に震え、震動がルーフの全身をガタリと波打たせている。


 動きが自然の内に止まる、元の状態が静けさの中で姿を取り戻す頃。


「そんなの、………俺とあんたの関係性で捻り出せると思うんか?」


 ルーフが一つの答えを、閉じられた機械的な空間の内側で導き出している。


「それもそうか、これはちいと無理難題が過ぎたな」


 エミルは少年の答えに簡単な同意をしながら。

 しかしそこで動作を止めるわけにはいかないと、彼は独自に次の提案を手早く用意しようとしていた。


「じゃあやっぱりここは無難に、体調と具合とコンディションとフィーリングについての話でもするか」


「つまり………、何か異常はないってことか?」


「ザッツライト、そういうこった」


 医療機能を有した施設に収容をされている、入院患者と同等に意味合いを有している人物を対象とした質問内容としては、それはまさに及第点を満たしきっているものと言える。


 だがルーフはここで正直に、例えば腹の具合やら頭痛の有無について答えるべきではないと、見えざる思考回路で一つの巡りを終わらせている。


「別に何もない………。俺は今でも林檎を食べられるし、人間の心臓と喰い散らかしたいだなんて思ってねえよ」


 つまりは自分が怪物に成り果てていないか。

 一度はそう呼ばれる、確か名称を彼方(かなた)と言ったか、どうだったかはいまいち思い出せそうにない。


 しかし名前以上に、ルーフはここで自らが人間であることを、男に向けて証明しなくてはならない事を理解していた。


 エミルが背後で何かの動作を、おそらくはエレベーターの入力ボタンに設定を打ちこんでいるのだろう。


 右腕が動いている、長袖が擦れる微かな音。


 ルーフは前を、扉の方へと視線を固定させたままで、背後に確実なる他人の目線を肌の上に実感をしている。


 他人の視線。そこにどの様な色合いの感情が含まれていたのだろうか。


 目で見て情報を得ない限りには何も分からない。

 仮にルーフ自身に他人の心を読み取る能力があったとしても、彼の矮小なる想像力では真理の一端すらも掴めないであろう。


「確かにここで、この場所でもしも君が……肉食(にくじき)としての本能と、狡猾さと獰猛さを一ミリ、ミクロンのピコでも表に立たせたら、オレは君に優しくない事をしなくてはならなくなるな」


 少年が、今のエミルにとって保護観察、監視の対象たる少年が自主的に主張をしてきている。


 エミルは彼の言葉を受け取り、反応を言語の上で表現しながら、しかし声色には殆ど緊張感は含まれていないように聞き取れる。


「ずいぶんと悠長な感じだな」


 事を安静に収めたいのならば、このまま相手の行為を甘んじて受け入れるべきだった。

 のだが、しかし、ルーフは彼自身にも理解の及ばない、いかんともしがたい欲求の中で挑発めいた感情の膨張を抑えきれないでいる。


 もしかしたら自分は破滅を、この期に及んで他人任せの崩壊を望んでいるのではないか。

 ルーフの脳内、脳味噌の水分の隙間、髄液に満たされた豆腐の強度の裏側で非難めいた主張が芽を出している。


 ルーフが眼球、とりわけ右側の丸みに強い圧迫感を覚えている。


「そんな油断をしておいて、もしも俺がまた怪物に変身でもしたら。その時は………───」


 それは今日、もしかしたら昨日以前から続いていたものだったのかもしれない。

 それが日を追うごとに増加をしている。


 もう少しだけ具体的に、詳細な情報を供述するとすれば、ルーフの体が回復に向かうほどに痛みは存在感を確かなものへと変化させていた。


 皮膚の表面に走っていた赤い切れ込みが、中身のピンク色の粒たちが粘り気の中で結合をする。

 血液がカサカサと瘡蓋(かさぶた)に変化する、死んだ白血球たちが黄色の膿をポロポロと零している。


 それらの合成物が、自然現象と乾燥の中でやがて皮膚の上から剥がれ落ちていく。


 後に残ったのは紅梅色(こうばいいろ)小さな、スベスベとした膨らみの幾つかだけ。

 そしてそれもやがては、少年の持って生まれた肌の色素の合間に薄く溶けて消えるのだろう。


「その時は、オレの仕事が一つ増えるだけ、それだけだな」


 ルーフが言いかけて、しかし言葉としての完全なる肉体を与えるよりも先に、未熟な音としての意味しか与えずに噛み殺した。


 音声を代わりに引き継ぐかのように、エミルは自陣に後悔できる分だけの意見を対象の物体へと伝えていた。


「何も問題は無い。もしもあるとすれば、それは君が無事に健康に、安全にこの無駄にデカくてだだっ広い城から脱出をする、そのための期間が余分に長くなることだけだ」


 エミルはため息交じりに、なんとも当たり前の事実だけを必要なだけ言葉にしている。


「オレが言いたいのはそういうことじゃなくてだな。言葉がちょっと直球過ぎたかもしれへんな……、難しい、難しいぞこれは」


 エミルが唸り声のように喉を低く鳴らしている。


 ルーフはそこでようやく、このやり取りに音だけの情報では不十分であることに気づきだしている。


「あの………、このエレベーター全然動かないんすけど?」


 どうして右の眼球が痛みを訴えかけて来ていたのか。

 それは違和感に起因している、本来ならばもうそろそろ目的の階に着くか、そうでなくとも稼働の雰囲気の一つぐらいは醸し出すべきではないのか。


 ルーフは無意識の中で期待をして、それが待てども待てども実行されない事に、限りない無意識(エス)の世界線にて不快感を抱いていた。


「もしもし、もしも───っ」


 ルーフは車椅子の上で体を後方へ、エミルの腕が伸ばされているであろう、その先へと視線を移動させる。


 そして、そこでルーフは信じられない物を見た、見てしまった人間ならではのリアクションをせずにはいられないでいた。


「な、なんすかその………っ、デタラメにボタンばかりクソ多いパネルは!?」


 思わず差し向けようとした右の指先がピックリピックリと、渇きかけのミミズのように蠢かしている。


 だがルーフは、この時ばかりは自身の驚愕を否定しようとは微塵も思っていなかった。


「やっぱりなあ、ちいと分かりにくすぎるよな、これな」


 少年の動揺っぷりとは裏腹に、エミルの方は同調の相手が得られたことに関してのみの反応だけを起こす。

 それこそ異様にノンビリとしくさった様子、それ以上のものを顔面に作ろうとしていない。


 男は左指でくすんだ金髪を撫で付けながら、右の指はエレベーターのコントロールパネルを。


 それは果たして、手動に適しているとはおよそ表することが出来そうにない。


 それらは入力ボタンが配置されているというよりは、どちらかと言えば魚の鱗の羅列と密集。

 あるいは、かつて少年が故郷の夜空で見上げた、宇宙の暗黒にひしめく星々のキラキラとした煌めき。


 に、見えなくもないし、あるいはまた別の……。

 いずれにせよ、ルーフはそのパネルがエレベーターの回数を意味しているとは、とてもじゃないがイメージを繋げられないでいた。


「オレさー、いっつも此処で入力番号の順番を忘れちまうんだわ。まったく、いやだねー、オッサンの記憶力ってものは悲劇以外の何ものでもないな」


 エミルは誤魔化すように笑顔を浮かべている。

 その口元には必要最低限の皺と陰影しか刻まれていない。


 ルーフは内層に膨れ上がる怪しみと、訝りを喉の中間で押し留めながら。

 男の魚の腹のようにピッチリと張りがある頬を、それこそ何か異形のものでも眺めるかのようにしている自分をどこか俯瞰的に自覚しようとしていた。

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