重苦しい雰囲気が広がる
話の種としては何の変哲もないように思われる。
興味が無い、好奇心が湧かない、それらしい理由ならば幾つか考えることが出来たはずだった。
だがルーフはそれらの選択肢のどれもを選ぶことをしない。
少年の心情のほとんどを占めていたはずの無関心は、しかしこの瞬間においてあまりにもぞの実体と影響力を矮小なものへと変化させていた。
「漫画家の………友達がいるのか?」
ルーフは足の間、と言っても右半分は欠落して久しく、左側の太腿にだけそれを。現在における話題の中心たる、漫画の一冊を指の内に携えている。
「まあ、ある一定の友好関係を築いているといえば、そう言うことになるんやろうな」
ルーフが関心を抱いている方向性にしてみれば、エミルと言う名前の男性が返答をした旨はすこし趣向が異なっているように思われる。
エミルは自身でその事を自覚している風に、その上で話題を明らかに方向転換しようとする意図を見せてきている。
「でも、オレの人間関係については、今はそんなに重要な問題でもないだろう?」
「そう………───」
ルーフはつい反射的に相手の意見に同調をしようと、しかけた所でしかし、それ以上にこの場に出没した違和感を無視できないままになっている。
「って、いやいや、どう考えても無視できるような無いようでもないやろ」
ルーフが思わず体の前で手刀を一つ作り、流されかけた空気を物理的に遮断するような格好を演出している。
「え? ってことはその友達が、この漫画を描いたってことで。つまりはそう言うことなんだよな?」
思わず上ずりそうになる声色を、努めて平静の領域内に保とうとしている。
そうしていないと、どうなるのだろうか?
興奮のあまり鼻息が荒く、獲物を前にした猛犬のようになるか。
あるいは縄張りを侵害する野良猫よろしく、唸り声と毛を逆立てて、鋭い爪と牙を何かしらに向けて突き立てんとするか。
ルーフの頭の中で幾つかの予想と題されたイメージが駆け巡り、通り抜けていく。
だが彼は己で考えられるうちの全てを選択することはせず、あくまでも自身にとって良識と組みこまれるであろう質問行為の範疇に則って言葉を続行させていた。
「えっと、色々と驚くことがありすぎて、俺はもうなにが何だか分からんくなってきたんやけども………」
ルーフはベッドの上で体を少し前に、左足の欠落を静かにフォローしつつ、その目線はエミルの方へとしっかり固定されている。
「まあまあ、そんなに興奮しなさんな」
テンションとしてはロー、安定の値で体を丸めているだけ。
しかしエミルは少年がその外見に浮上する分のアクション以上に、胸の内では今この瞬間にも驚愕が膨張を繰り返している。
今にも、今すぐにでも破裂を起こさんとしている、エミルは明確な理由が結果として訪れるよりも先に行動を選択していた。
「あー……っと! そうだ、そうだな。ルーフ少年よ、お前さんは腹が空いていないかな?」
まさにルーフがその体を静から動へ、つまりは腕の先が入院ベッドの縁に備え付けられていた車椅子へと伸ばされんとしている。
だがエミルの方は少年が現実に影響を与えるよりも先に、一種の逃避行じみた素早さの中で先に車椅子の端を掴んでいた。
「そうだ、思えばもうそろそろ昼休憩、ランチタイムの時間じゃありませんか。これはいけない、とてもいけない」
若干どころでは済まされないほどの違和感。
だがエミルはそれを隠そうともしないままで、指の先は車椅子の稼働チェックを速やかに行っている。
「移動をしよう、いくら今日が何の予定が無い日と言ったって、何もしないで味のない時間をガムのように噛み続けるだとか。そんなこと、若い人間が一番やっちゃいけない事なんだぜ?」
妙に一方的な勢いばかりが強い。
エミルは主張をしているなかで、その青い瞳はいまいち要領を得ない不安定さを漂わせていた。
ルーフはその事に関して飽くなき探求心、人間の臭い立ち込める無責任な興味を働かせようと。
したところで、心理上における別方向から新たなる思案が顔を覗かせてきているのを自覚していた。
「そういうことなら………。そうしたいなら、とりあえずこの場面では俺はあんたの言う通りにするよ」
従順と言えばそれまで、ルーフの中に生じているのは怠惰に顔がよく似ている願望であった。
相手が聞いてほしくない事を察して、慮る。なんて、いかにも大人じみた優しさと思いやりを働かせたたどか。その様に高度なコミュニケーション能力を発揮しただとか、その様な事では決してない。
ルーフはただただ面倒くさい、とそう思っていた。
考えている、他人が隠そうとしていることを無造作に暴こうとするだとか。
そんな、どこかしらの魔法使いじみた女がやるような無作法を実行できる程には、ルーフの心理的状況は知識への渇望を抱けないままでいた。
「そう………、そう言えば確かに、そろそろ腹が減ってきたかもな」
口先ではそれらしい嘘をついている。
だがこれは本当の嘘ではない。
他人だとか自分自身だとか、境界線における色合いの不具合的な問題はまた別の話題にするとして。
少なくとも少年自身、ルーフと言う名前を与えられた彼にしてみれば、その嘘は純度的には不純物たっぷりの虚構でしかない。
もちろん本音を現時点で認知できるだけの果てまで追求しようとすれば、そう思うならば彼は何としてでもベッドの上から体を動かすわけにはいかなかった。
体を、意識を山道の上に落下してきた岩石よろしく。不動を貫いて疑問点を解決したい。
それが今のルーフにとっての、最も下層で沈没船のように息を潜めている願望であった。
だが、それほどに強く関心を抱いていながらも、ルーフはどうしてもエミルについての情報を得ようとするという、行為そのものにどこかしら恐怖めいた震えを覚えてしまっている。
「ちょうど俺も、腹が空いてきたんだ」
ルーフは嘘をつきながら、エミルの手によって近くまで寄せられてきた車椅子の端を指で掴んでいる。
「ランチタイムに耽るとして。ああ、でも………」
少しばかりエミルの手を借りながら、ルーフはふと思考の流れの途中で一つの気掛かりを思いついていた。
「そう言えば………、俺はもう給食が終ったんだったか。そうだったんだよな?」
ルーフが椅子の上で尻と、腰と足のポジションを正しいとされる在り方へと整えている。
少年は、もうすでに慣れきってしまった作業の合間に目線を上に向け、すでに伝達されていた事柄について他人への確認を求めている。
「給食ね……、確かに部屋にご飯を運んでもらえるのは、先日から終わりの予定とされていたな」
少年の入院着と車椅子の硬さが奏でる衣擦れの、幼子のささやき声のような音色を背景に。
エミルは視線をチラリと左斜めへ、彼自身にも気づかぬうちに眼球をずらし、そしてすぐに瞳孔の方向を元の位置へと戻している。
「でも、大丈夫なのか? まだそれも上手く動かせられていないのに、いきなりレベルを上げ過ぎだと思うんだが……」
手出し不要と言った雰囲気をかもしだしている少年を、エミルは四歩ほど離れた位置で立ったまま見守っている。
男がくすんだ金髪の下、海と同じ青色の瞳の中にどの様な意向の感情をこめているのか。
車椅子の上のルーフはその、眼球のあり方を直接確認することを必要としないまま。
見えざる目線と声による空気の振動。その他幾つかの要素。
それら全てが大体において、実態が肉眼において確認することのできない幾つか。
目に見えない具合の数々。
それだけで相手の伝えんとしてる内容の一端を把握することが出来ていた。
「ご心配には及ばねえよ」
それが本当の意味において正しく、理由と思わしき真実っぽさに近しい答えを有しているのだろうか。
ルーフは答えを見つけられないまま、それ以上に探究心を働かそうともせずに、単純なる行動と目的に甘んじる形をつくっている。
「むしろ、俺としては今すぐにでもこの場所………この建物の外に放り出されたとしても、なんら問題は無いぐらい、っすよ」
唇の上には笑みを作っている。
だが本当に上手く笑顔を作れているのか、ルーフは不安で仕方がない。
唐突に生まれた強迫観念に、心臓を直接氷水に浸されたような冷たさに襲われかけていた。
「それは、あー……オレのお仕事が無くなっちゃうから、ちょっと勘弁願いたいところだな」
少年がその熟れたミカンのような色合いをした、まだ健康さの残っている左目を上に。
エミルは彼が言葉とは違う事を考えている事を、確認の外側でそれとなく察しながら。
だが今はもうそれ以上の追及は必要なしと、くすんだ金髪の男はサッと車椅子の取っ手を両手で握りしめていた。
「やっぱりな、同じ所でいつまでもいつまでもウジウジと脳ミソばっかしグルグル回しとったらロクな事にならんのやって」
「それ、大量の印刷物を持ってきたヒトが言いますかね?」
カラリカラリと車椅子の車輪が病室の床を、引き戸の金属でできたレールの上、やがては部屋に面している廊下の表面を、ゴム製の円形の下にクルクルと噛みしめている。
ルーフは輪っかの音を耳に聞き流しながら、行動と理念が矛盾している男に向けての反論もそぞろに。
「………ん?」
自身の体が受動的に動かされている。
流れに関係した違和感以上に、ルーフは自身の指の間に残っていた異物にその時点でようやく気付きを至らせていた。
「あ、やべ………持ってきちまった」
見れば右手の中、指を形成する肉と骨と皮膚。
その柔らかな合間に、はて、どうして今まで気付くことが出来なかったのだろう。
部屋の中で、ベッドの上で読んでいたばかりの本が一冊。
それは漫画で、聞くところによればエミルの友人が作ったものらしい。
絵柄的にはティーンエイジャーの女を対象として、しかしながら内容的にはジャンルとしての組み分けを意識させない程に自由度が高い。
ルーフはそこで初めて、と言うよりようやく、自分がずっと漫画を一冊握りしめていたことに気付いていた。
「あれ、どうかしたかい?」
少年が小さく驚きの声をあげている。
それにエミルが、青い虹彩で彼の癖毛まみれな頭頂部を後ろから見下ろしている。
「いや、何でもねえよ………」
理由を求めようともせずに、ルーフは反射的に指に握りしめらていた漫画を懐へ。
一巻と表記されている、小さなイラストレーションを入院着の内側へと隠していた。




