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「まず最初にオレの初恋……。つまりは、人生において生まれて初めての恋路についての話になるんだが」
「死ぬほど………。いえ、心底つまらなさそうですね」
「オイオイオイ、言い間違いにしても「シ」しか合ってないし、しかも訂正した所で失礼の度合いを余計増やしているぜ少年?」
ルーフが話題を逸らそうとしている。方向性を変えてみたところで、後の始末をどうつけるかどうかすらも目安を見つけられないでいる。
にもかかわらず、大して明確な理由も無いままに、ルーフは直感めいた層の内で男の、エミルの話を拒否しなくてはならない。と言う強迫観念に駆られていた。
だがエミルの方は、よもや少年一人の制止などお構いなしと言った風に。
「ちょっとぐらい付き合ってくれよ。オッサンの昔語りを無視するのは、原稿を雨ざらしに放置する程にはノーグッドだ」
謎の持論を展開させている。
男はすでに右の指に一冊の雑誌、女性週刊誌と思わしきタイトルが印刷されている束を、さながら天下の宝刀のようにルーフへ向けて構えている。
「どうしても話したい、ということは俺は聞き手に回らないといけないってかんじっすね」
ルーフはとてつもない程に解りやすい嫌悪感を、眉間のしわの間に滲ませている。
「そういうこった少年。ここは一つ、諦めを奥歯に噛み潰してくれや」
だがエミルは少年の意向など最初から考慮していなさそうな、そう一考しそうな勢いで話を無理やり進めようとしていた。
窓の外では雨が降っている。
ソーダ石灰の透明な表面が外界の光を吸い込み、室内へと影響を通過させている。
雨音は止まらない、相変わらず止まってくれそうにない。
ガラス材の四角い面積の広さに、雨粒が付着して細やかな水玉を生まれさせる。
玉は音色と共に生まれる。
生まれては、実体をこの世界に一欠けらとして残すことはない。
玉たちは重力に命ぜられるがままにガラスの上を滑り、丸みを失ってはただの水溜りへと落ちていく。
それを繰り返している。
上から下、雨雲は延々と水を吐きだし、ガラスの縁にはすでに極最少でとてつもなく小規模な小川が、せせらぎの無い流れを無意味に壁の上へと走らせている。
水の流れが増えたのか、それとも減ったのか。
どちらにせよ、音と水分の存在が途切れることは無かった。
「それじゃあ、その………エミルさんの初恋の人が愛読していた雑誌を」
雨が建造物にぶつかる音。
コトコトと細やかで微かな足音のような、そんな効果音をバッググラウンドミュージックに、エミルのシンプルな過去語りが終った。
それは果たしてどのタイミングだったのだろうか
ルーフはいまいち把握をすることが出来ないままに、舌の肉はただ聴覚に収集した情報を音声へと機械的に変更させている。
「そう、そういうことだ」
少年が言葉に繰り返している、内容をエミルは耳で確認しながら。
首を軽く上下させる、頷きの中で彼は自ら発信した情報を再確認しているようだった。
「我ながらかなり女々しい……、いや、この場合は簡単にキモい、と言った方が事実めいているかな?」
海のように青い瞳には、やはり他人行儀な笑みがしっかりと固定されている。
そのままの表情で、視線だけを窺うように少年の方へと向けていた。
だがルーフにしてみれば、エミルがどうして自身へ問いの目線を差し向けてくるのか。正直な所、現在における行為そのものの方が気になって仕方がなかった。
「いやあ、年を取ると体の線と一緒に嫌悪感の境界線も上手く掴めなくなってくるからな。ホント、困ったもんだ」
会話文への明快な道を見出せずに、ルーフは無味無臭な混迷へと鼻先を導かれつつある。
明るい茶色の視線を虚空に向けたまま何も言わないでいる。
エミルは少年の沈黙を視界に確認しながら、あえて相手の反応を考慮しないという素振りを引き続き作るという選択をしている。
「でもなあ、オッサンの過去語りに付き合うのも若者の一つの大事な役目で」
「その主張、さっきも───」
ルーフは溜め息の中でなけなしの反論を。
と、思ったところでふと一つの違和感に気付く。
「って、さっきからやたらと年の差をおしてくるけど、アンタ………言うほど年を重ねている訳でもないやん? 俺とせいぜい十か幾つかも間が空いとらん………はず」
以前にどこか。
それは具体的に言えばこの建造物の中にある、リハビリテーション用の一室において、とある女医とささやかなる世間話をした。
その際に彼女の年齢を知った。
それは何もルーフから自発的に質問をしたという訳ではなく、あくまでも、徹底して彼女の方から情報を自発的、能動的に情報を提供してきた。
などと、情報の出所に関しての詳細に注目をしている場合ではなく。
とはいうものの、わざわざ余分な事柄に考察を巡らせられる程度には、ルーフの頭の中ではエミルと自身の年齢差に関する違和感の正体を把握しきれてしまえていた。
ということも起因する、ルーフは思考の方向性を修正させながら、その上で相手の動作に関して理由を見出せないままになっている。
「うん? あー……そう言えば、言われてみれば……オレはそこまで年を取っている訳ではなかったかな」
ルーフが首を捻っている。
それを視界の下側に認めながら、エミルの方は以外にもあっさりとした様子で自身の見解へ訂正を加えている。
「でもまあ、数に関係なく年上の言うことはそれなりに聞いておいた方が良いと思うけどな」
追及をされたことでだいぶ興味の膨張を削ぎ落されたのか。
それとも最初からこの会話にそこまで強い執着心が無かったか。
どちらかと言えば後者の雰囲気を強く匂わせながら、エミルは手の中に持っていた雑誌を紙袋の山中へと沈み込ませている。
「何にしても、どうせ読むなら自分の関心があるものが一番やしな。どうよ? とりあえずこっちの一袋には君が関心を抱きそうな物を集めてみたんやけど」
「ああ、いや、だから………そういうのはもう………」
紙袋を一つ、エミルが笑みを浮かべたままでルーフの方へと右腕を伸ばしている。
最初の本心としては言葉の通り、ルーフは出来る事ならこのまま独りで横になって、後は時間が過ぎるまで天井のシミの数でも数えていたかった。
と言うのが本音、だがそれは眼球に情報が与えられていなかった状態に限定されたものでしかなく。
中身を知ってしまった、紙袋の内側に秘められていた数々の書物。
それは確かに最初に提示した一冊とは大きくジャンルを離れさせている。
ゲーム誌やら、バイク専門誌やら、数学の専門書、なんとも魅力的な雰囲気をかもしだしている漫画も数冊ほど用意されている。
後はもう、結果は分かりきっていること。
「二時間ぐらい、ずっとそのままだね」
エミルが室内の椅子に腰を落ち着かせながら、ベッドの上のルーフに向けてそう指摘をしてきている。
「あ、あえ………? もうそんなに経ったんかいな」
男が口にした数字の基準を、ベッドの上で匍匐前進のような格好を作っていたルーフは瞬間こそ事実として受け入れることが出来ず。
「うわ、うわあ………マジだ………」
だが姿勢をそのままに、上半身を捻らせて目線を時計がある方向に動かせば、ルーフは嫌でも時間の経過についての、ありのままの事実を受け入れるより他はなかった。
「すんません、ガッツリ読み耽っちまって………」
ルーフはまず時の流れに驚愕を覚えながら。
次に訪れたのは意図をしなかった集中力に対しての、明確な正体の無い羞恥心に頬の内側を紅く占領されつつあった。
「ああ、ええよええよ、そのまんまで構わへんって」
急に体を動かそうとして、ルーフは今日に至るまで培ってきたはずの動作も忘却してしまっている。
マットの柔らかさの上に体を小さく短く落下させている、エミルは少年の動きを右手で静止しようと。
したところで、彼の指は中途半端に虚空を漂っているだけになる。
「あれ、その漫画……」
動きを止めたのにはそれなりの理由が、エミルは右の指先を中途半端な場所に漂流させたまま、目線は少年の手の中にある一冊へと注目されている。
「ああ、これっすか」
エミルがジッと、言葉もおぼろげに凝視をしている。
ルーフは様子に怪訝さを覚えていながら。
それ以上に相手がマークを固定させている物、つまりは今しがた自身が呼んでいた漫画作品についての思考を優先させている。
「これ………その、面白いっすね」
エミルがすっかり黙りこくって、まるで口を中心にしてカラダ全体にメデューサの呪いでもぶちかまされた様になってしまっている。
沈黙の正体も解らないままに、エミルと言う名前の男は凝視ばかりをしている。
状況としてはかなり不快感で、言葉だけを羅列すれば思わず咥内に粉末状の風邪薬の風味が滲みだしてきそうな。
その程度には不快感をきたすであろう、そんな状況。
そうでありながら、しかしてルーフは何故か不思議と胸の内に不快感を覚えることをしていなかった。
特に何かしらを思うこともしない。
ただ、ルーフは自身でも静かな驚きをきたすほどの冷静さの内において、男の視線が向けられている物品に関する認識を獲得していた。
「なんだか、袋の中にものすごくたくさん巻数が用意されていたから、一巻から全部読んでみよっかなって」
どこか、なんとも言えない程に言い訳じみている声色で、ルーフは漫画を右手に体をシーツの上で起こしている。
「こういうの? あからさまに女向けって感じで最初はどうかなって思っとって。ぶっちゃけストーリーもよお分からんかったけど………」
だが別段言い訳を止める理由も見つけられそうになく。
「でもまあ、なんか絵が綺麗で見てて楽しい。って思えたかな」
なんとも、結局は読書感想文程度の感情だけしか言葉に表せられなかった。
「そうか」
ルーフが、右手の中にある漫画に関しての感想を全て言い終わった。
そのタイミングで、エミルはその青い瞳でタイミングをしっかりと見計らった上で、ようやく口の動きを再開させていた。
「いや、な。実はそれは知り合いの……、じゃなくて、友達の描いたもんでな。ツテみたいなもので、家に沢山送られてくるんやけど」
エミルは「友達」の部分を妙に丁寧に、どこか恥ずかしそうに言葉にしている。
「あいつに、君の感想を言ってあげたら喜ぶと思うな」
「そう………そうか?」
ルーフにしてみれば軽い気持ちで発した感想にすぎない。
「間違いないって、あいつが狂喜乱舞している様子が今にも見えてきそうだ」
だがエミルの方は、どこか深く感慨に耽るように肯定をしていた。




