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魔物が出るから気をつけよう

 微妙な空気が確かに、どこかに存在をしていたはずであった。


 言葉として表現することに困難さをきたすかのような。

 その様な空間が存在をしていた、それはルーフが生命を継続している空間と同じ場所のはず。


「………」


 どこかで何かしらの、奇妙で不気味な少女が困惑をしているであろう。


 灰笛(はいふえ)と言う名前の都市の中で、少年は昨日と同じ呼吸だけを繰り返している。


「………」


 唇は数字の「一」のように閉じられている。


 呼吸行為は鼻腔だけに限定されている。

 左右両方に光られた穴は、狭苦しい暗闇の奥で腹部を微かに上下させている。


「………」


 灰笛(はいふえ)がその名を与えられているのとほぼ変わりない意味において、ルーフと言う名前を持ち続けている少年。


 彼はいま、都市の中心にある収容施設の中、その建造物の一室に設置されたベッドの上に身を預けている。


 なんというか、どう言ったものか。

 もうすでに、すっかりベッドの上に体を預けているという状況が、もうそろそろルーフにとって日常の一部として組みこまれつつある。


「これはいけない………」


 それこそ、上手い具合に形容が出来そうな言葉を見つけられないでいる。


 だが明確な理由を持たせた言葉を見つけ出そうとするよりも先に、それ以上にルーフは真理を苛む不安感に、本日だけでも何度目かも判らぬ危機感を抱いていた。


「これはいけない、とてもいけない気がする………!」


 ルーフは、これ以上はこうし続けてはいられないと、あからさまに慌てた様子でベッドから身を起こそうとしている。


 そうすることによって、当然のことながら彼の手の中に握られていた物品も、ポジションを変化させられることは当然の事でしかない。


「あ、危ないな」


 ベッドの外側で、男の声がいかにも他人事じみた口調で指摘をする。


 それとほぼ同時のタイミングにおいて。

 ルーフの手の中から一冊の雑誌が指の間を滑り落ちたのが、特に考察も必要も無い程に単純な結果として少年の鼻頭に激烈な刺激を落とし込んでいた。


「ごうっ? うぐっ………ふ」


 痛みに驚愕をきたそうとする。

 だが肉体の然るべき反射速度以上に、ルーフの心の中では別の感情が心理状態を埋め尽くさんとしていた。


「あーあー……、本もったままいきなり起き上ったらあかんやろ」


 感情の名前は分かりきっている。

 恥ずかしさ。ルーフが、彼自身にしてみても意外に思えるほどの傍観っぷりで、己の心情を把握できてしまえている。


 そんな少年の状態を、男の青い視線が窺い知るように見下ろしている。


 感情の量にまかせる形で、激痛をパン(くず)のように流し込んでいる。

 ルーフは生理的な涙に視界が滲むのにも構わず、損傷部分を右手で抑えながら声のする方に視線を向けている。


「………とんだイージーミスをしちまった。嗚呼、しまった」


 とりあえず口先で後悔の念を匂わせながら、しかしルーフの視線の中にはしっかりと別の種類の色合いが見て取れる。


「これも、エミルの旦那が寄越した………ワケの分からん、つまらん雑誌のせいでぼんやりしたせいなんだろうな」


 ルーフは名前を呼んだ男の方に視線を固定させたまま、すぐさま改めて体を起こそうとしている。


「ああ、やっぱり十代男子に女性週刊誌はゴミレベルの有用性しかなかったか。そりゃそうだよな」


 エミルと呼ばれた男は、起き上がる少年へ手を差し伸べようとしている。


 だが男が伸ばした手は相手に受け入れられることは無く、ルーフは一人だけの動作で勝手にその身をベッドの縁へと、軽々と移動させていた。


「ホントっすよ、意味が分かんねえよ」


 エミルが虚空を漂いかけた右手を、そのままうら寂しそうに自らのくすんだ色合いの金髪へと落ち着かせている。


 その動作をチラリと横目に、ルーフは胸中に抱いていた疑問点をこのタイミングで、唇の上に発散させようとした。


「昨日あたりでいきなりスマホ片手にどっか行ったと思ったら、その日はそのままオサラバで。それで、今日も何の連絡もなしに部屋に来たと思えば、両腕に大量の紙袋で………」


 ルーフは溜め息を一つ吐き出しながら、瞬きの裏側で今朝起きたばかりの事柄、情景を脳内で再上映させている。


「いや、ほら? 長い入院生活で暇を持て余しておらんかなって」


 時刻はまだ午前を終えてすらいない。

 窓の外では灰色の雨雲を通過した日の光が、ルーフが収容されている病室の空間に乳白色の自然光を満たしている。


 ルーフは眩しさに少し目を細めながら。

 視線を上に、そこにはエミルのくすんだ金髪が、後ろからの光源に照らされて色を透過させているのが確認できた。


「暇つぶしにはやっぱり、雑誌を読み耽るのが一般的なセオリーってもんやんか」


「そう………、そうかあ?」


 エミルが自信満々に持論を展開させている。


 内容自体はそこまで異常性があるという訳ではなく、むしろ理にかなった思考のあり方、ただそれだけの事でしかないように思われる。


 であるからして、何ゆえにルーフはこのくすんだ金髪の男性に疑念を抱いているのだろうか。


 理由として考えらることはあまりにも明確で。

 男と少年の視線は互いに示し合せる必要性もないまでに、限りなく自然現象に近しい流れとして、病室の一角に置かれた紙袋の山に注目を集めている。


「だからって、いくらなんでもあんなに大量の………、よくもまああんだけのモンを此処まで運んで来れましたね」


 ルーフは皮肉をぶちかまそうとして。

 しかしそれ以上に、胸の内にはエミルに対してのどこかしら、畏れじみた振動を口にせずにはいられないでいる。


 少年の、琥珀とよく似た色の虹彩が部屋の片隅に積まれたそれ。紙袋の山、ざっと数えて八つほど用意されているそれをまじまじと眺めている。


「いやあ、大変だったよ。重いし、外じゃ雨が降っているからどうにかして濡れないよう工夫する必要があったしな」


 エミルが謎に感慨深そうにしている。


 なんとも満足そうな溜め息を吐きだしながら、男は持参してきたコレクションの方へと歩み寄り、袋の内部へ腕をガサゴソと突っ込んでいる。


「さっきは俺の愛読書を紹介したからな。もっと別の、ちゃんと男向けの雑誌も用意してあるから」


 だったら先にそっちを渡せばよいものを。

 ルーフはそう考えて、思わず思考そのままの内容が声帯の辺りまで迫り上がった言葉を寸前のところで押し留める。


 音を緊急停止させたところで、しかし一度生まれた動作の流れまで完全に支配することはできないまま。


 ルーフはどうしたものかと。


「愛読書って、さっきの雑誌っすか?」


 困惑がベイブレードのように素早く回転している。動きをある程度のところで緩めた、その後に続いてきたのはなんとも取りとめがなさそうな質問文だけであった。


「ああ、そうだな。この雑誌もかれこれ……十年以上は読み続けているかな」


 エミルは聞かれたことに、それだけには律儀さをもって答えるかのように。


 紙袋の茶色い小山へと屈めていた姿勢を元の位置に、左わきに抱えていた一冊を胸の前あたりへと持ち直している。


「はあ………、女向けのゴシップ誌なんかをそんなにも」


 真夏のかび臭い階段のような差別的意識やら、あるいは腐敗にくるぶしの辺りまでブチュリと突っ込ませている偏見思想か。


 いずれにせよ言葉は特に躊躇いを見せることもなく、いたって自然じみた素振りでルーフの唇の肉を変形させている。


 聞き流す事などいくらでも出来た。少なくとも不可能という訳ではない、なにせ少年にしてみればそれはただの感想で、だからこそそこには特筆すべき悪意など微塵も含まれてはいない。


 そのはずで、後は適当に川の水のように流せば場面はここで終わる。


 だがルーフはそうすることをしなかった。

 

「どうして、そんなにも同じものを読み続けられているのか。なにか、理由でもあるんか」


 気がつけば口内に質問文の残響が反響をしている。


 他人の読書遍歴ほどどうでもいい情報は無いと、そう思っているはずのルーフがこう言ったトイのための文章を作成している。


 理由はいくつか考えられる、だがその殆どはその場しのぎの、少年の自意識を常識的に確保する程度の意味合いしか見受けられそうにない。


 その中で唯一とされる、それほどの価値を得るに相応しい理由を一つでも上げるとすれば。


 それは、ルーフの事を見下ろしているエミルの視線に合った、ように思われる。と、ルーフと言う名前の少年は赤みの強い癖毛に包まれた、頭蓋の下の脳味噌に思考を巡らせている。


 エミルは必要以上に何かを言葉に変換することをしていない。


 かと言って沈黙を徹底している訳でも無く、男はあくまでも通常の呼吸の中において、少年の方から次の意見が発せられるか、そうでないか。


 タイミングを把握するための観察としての意味、それだけがこの静けさに与えられるべき理由で、それ以上の思惑など用意していないだろう。


「………」


 それを充分に理解した上で。

 少年が男に対して怯えを抱く、その理由は彼の炎天下に輝く海原のような色合いの虹彩、細やかな溝のいくつかに照射される暗闇こそが理由の重さに釣り合いを見せつけていた。


 一瞬のことだった。

 流れ星の尾びれよりも早い。瞬きをする、ほんの一瞬のうちに見えたはずの色調は、指先に触れる冬の結晶のように痕跡を一欠けらも残そうとしない。


 だが触れた冷たさは、誤魔化しも許さない程に意識によって構成された、実体のない皮膚に温度の痕跡を残している。


 一瞬、瞬きほどの短さ、男の眼球に涙の湿り気と、塩気の生臭さと、キラキラとした輝きがよぎった。


 ような気がした、気のせいだったようにも思われる。


「なんか………それに特別の思い入れでもあるんかいな?」


 曖昧さは本人にすら着地点を予想させようとしない。


 気がつけばルーフは、エミルに向けて追及の一手を差し向けるという行動に出ていた。


「思い入れ、ね」


 エミルの方は、さして表情を変える素振りもないまま。


 しかして、その青色の瞳は少年の問いを切っ掛けに此処ではないどこか、現在の世界とは別の場所へと記憶を探ろうとする。


 眼球が動きを止める、男が右手に雑誌を握りしめて左手を降ろしている。


 短い時間の中。

 エミルの方はまるで過去に選択の後悔でもしたかのような、そんな素振りで少年に自分の事を話す決意をしていた。

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