えらいくらいに偉くなろう
赤色は糸のように細くて頼りないものでしかなかった。
その脆弱性は、しかして相変わらず継続されたままと言えるのだろう。
しかしそれは、今この瞬間の世界ににおいて存在を主張しているのは、どんなに雅量なる推量を有していたところで糸とは呼べそうにない。
それは赤色であることには変わりない、赤色の。
「りんご?」
キンシがぽつりと呟いている。
意識に則って、張りつめた意図から奏でられた言葉ではない。
ほとんど無意識に近しい、キンシという名の少女は視界に映り込んでいるそれを、それと思わしき単語に当てはめようとしている。
そうすることでエミルの、そう言った名前でよばれているくすんだ金髪の男性の腕の先、手の中で収束を図ろうとしている色の集合体。
それに関しての認識を、より現実に近しいものとして獲得しようとしている。
キンシの、緑柱石の瞳をした魔法使いの少女は試みの中で理解を、それに値し得る理由を求めようとしている。
だが少女は、魔法少女は無意識の海底において試飲をしかけている行為が、実際において眼球に影響を及ぼしている現実に何ら意味を為さない。
少女はそのことを他の誰に確認をするまでもなく、他でもない自分自身によって自覚し、し切ってしまっている。
だからこそキンシは何を言うでもなく、ただ口をつぐんでエミルの魔力的行為の終焉を視認し続ける。
ただそれだけをしていた。
少女が、そしてその他の、どちらかと言えば魔法の側に属しているであろう。
人々が見守る中で、「傷」と呼ばれる自然現象らしきものに入り込んだ赤色の糸は膨張をしていく。
キンシが林檎と例えたように、それは最初こそ人の手に包みこめる程度の大きさしかなった。
だがそれはさして秒を跨ぐこともしないままに、あっという間に大玉のスイカほどに膨れ上がっている。
サイズ的な問題もさることながら、それはもはやバラ科の赤く甘く瑞々しい果実とはとても呼べそうにない。
曲線は限りなく丸に近しい完全性を描いている。
完成度の高い形状は、自然界に存在すべき不完全性から極力の乖離を計らんとしているようであって。
その膨らみ、ツヤツヤとした表面。
はて、それをどのように例えて話せば良いものか。
魔法少女が迷っている。
と、そこで。
「まあ、あれじゃあまるで風船のようじゃない」
キンシよりも先にメイが、椿色の瞳をした小さな魔女が新たなる言葉を唇の上で結びあげている。
それは言葉に詰まっていた魔法少女の代打として、メイがより的確な表現によって手助けをしようだとか。
決してそのようなことは無い、椿の魔女にしてみてもその言葉は目で見たものをそのまま口に出した。
ただそれだけの事でしかなかった。
「……」
少女と魔女がそれぞれに色は異なれども、しかし驚きと言うなの共通項をもって視線を、注目を捧げている。
方角の中心点において、エミルという名前の男性は引き続き集中力を振り絞っている状態であった。
呼吸は浅く、しかしいつまでも同様という訳ではない。
生きている限りに状態が変化をし続けるのと同様に、エミルの体も、そして手の中に広がる魔力もやがては終わりへと進もうとしている。
似たような赤色を構成しているなかで、先に終着を迎えたのは赤い風船の方であった。
「……」
エミルが見守るなか。
彼がその深い青色の瞳で見ている、眼球は赤色の丸みを捉え。張りつめていながらも、心理状態としては至って穏やかな色がその表面、虹彩の縮小に把握をしている。
赤い球体は大きさをそれ以上増幅することをせずに、持ち主である男性に見守られながら。
やがて、男性のそれと同じくらいに張りつめていたであろう、トマトの皮のように艶やかな表面に割れ目が炸裂する。
「あ」
キンシが、あるいはメイの方か。
もしかしたら彼女らのどちらでもなく、他の誰かが発した声音だったのかもしれない。
いずれにせよ、一瞬の内に空気中を振動させた破裂音は鉛を発する銃声と同等の存在感を放ち、その後に訪れているのは形の無い崩壊だけ。
つまりは、エミルの手によって作られた赤色の丸は、音の後に見てみればペシャンコに潰れてしまっていた。
ついさっきまで堆積と膨らみを感じさせていたはずの、エミルによって作られた赤は最終的に不良品の煎餅のような形へと行き着いていた。
「ちょっとばかし不恰好……やけど、まあ、これで良しとするかな」
ここでようやく一息と。
エミルが右の指で額を、あまり色が綺麗とは言えない頭髪を無造作にかき上げている。
もとよりそこまで長さがある訳ではない前髪の、下側に隠されていた額の皮膚には汗がしっとりと滲んで、博物館の柔らかな照明が水分をあくまでも穏やかそうに反射させている。
「これで、これが乾くまで放置しとけば、多分しばらくは大丈夫やと思うな」
あまり確定的な事を言いたがらないのは単に事実を隠ぺいしたいだけか、それとも自らの技量に関して純粋な不安を抱いているにすぎないのか。
どちらとも言える、エミルはそんな雰囲気の笑みを浮かべながら。
「傷」を、その表面をさながら哺乳類生物の体表に作られる瘡蓋のようにしている。
自らの作成した魔法を視線の下に、エミルは作業の終了を周辺の人々へ、自分以外の人間へと報告している。
「ははは、はは、は」
事象の終了を迎えた、そのすぐ後に声を発したのはキンシであった。
言語の形としては、ものすごく下手くそな笑い声のようにも聞こえなくはない。
だがキンシの顔には笑顔と思わしき肉の動きは確認されず、それ以上に少女がソロリソロリとした足取りでエミルの方へ近付いている。
その挙動だけで、少なくともこの魔法少女の事を認知している人間に限れば、彼女が笑顔を作る予定がない事ぐらいは安易に想像できてしまう。
「見事な、見事のは、はは、早業でしたね」
キンシは無駄にひそやかな足取りで、まるで空き巣でも狙うかのように息を潜めた様子を作りながら。
長袖に包まれた両腕を謎に虚空に漂わせ、眼鏡の奥の視線は真っ直ぐエミルの方、彼が作成した魔力的行為の結果を見続けている。
「今のは、その……えっと、マニュアルに聞くところの方法とかなり雰囲気がことなるそれ、で、ありましたけれども」
キンシは声の静かさとおぼつか無さとはあべこべに、その眼球の奥はキラキラと興奮が今にも、それこそ先ほどのエミルの作った魔法と同じ位にはち切れんばかりとなっている。
「そうだな、確かに今やったのはかなり自己流が強いものだったな」
エミルは魔法少女の興奮具合に若干引き気味の雰囲気を匂わせながら。
だが特に困惑をする体を見せることなく、いたって平静とした様子で質問されたであろう内容についての返事だけを用意している。
「その昔……若い時分にこう言った感じのアルバイトに身を費やしていたもんでな。いやあ、ちょっと懐かしい気分になったよ」
エミルは口元に笑顔を浮かべ、しばし青い瞳を此処ではない遠くの方へと差し向けている。
肯定的に受け取れば、そのまま彼の過去話に関する追及をしてみても、会話の都合としてはさして問題は無いように思われる。
だが、キンシはどうしても言葉を選択できないでいる。
好奇心が無かったわけではない、むしろ興味は沸騰した水道水のように膨らみをいくつも意識の水面上に浮上させている。
自覚は確かに胸の内で存在感を放っている。
その上で、キンシはエミルに質問をすることをしないでいた。
「何にしても、いずれにせよもう過ぎ去ったことだよ。大したことじゃないな」
魔法少女が様子を窺っている、エミルと言う名前の男性はすでに視線を現実世界の時間へと戻している。
相変わらずそこには笑顔しかなく、それ以上の感情は表面上には確認できそうにない。
だとしても、キンシがどうしてそれ以上言葉を作ることが出来なかった。
理由はいくつか考えられるとして、求めるところはやはりエミルの眼球、虹彩に香り立つ底知れぬ暗さに起因をしていた。
「あー……、えっと、もしもし?」
気がつけば魔法少女は、それなりに秒針が多く針を進めた刻の上に立っていたらしい。
エミルがそろそろ元の笑顔を崩して、怪訝そうな表情で少女の事を一定の距離感の先で眺めている。
「い、いいえ、いいえ。何でもないんです」
警戒心を向けられたという事実が、まず最初の一撃と言わんばかりにキンシの心理状態をぐらりぐらりと揺らしている。
動揺を覚られてはいけないなどと、そんな強迫観念に囚われかけた。
その所で、何もそんな事をする必要性がないと。
気づいているのがほぼ同時、二秒ほどのあいだに彼女の体の中をそれぞれに別の色合いを持った思考の電流が駆け抜けていく。
「何も用が無いなら……」
そのままの格好、つまり腕を体の前に漂わせて、さながら柳の下の幽霊のようなポーズを作ったままになっている。
いつまで待っても少女が続きを発しない事にそろそろ区切りをつけようと。
エミルがそろそろ体をその場所から離そうとしている。
「教えてほしいことがあるんです」
その所で、まるでエミルが次の行動を起こそうとしたタイミングを見計らったかのように、キンシがようやく唇の形を変えていた。
「あなたはこのまま此処から立ち去るのでしょうけれど。せめてもう少しだけ、自己紹介をしませんか?」
何のことを言っているのか。
文章の意味を考えるよりも先に、エミルの方も下の上に音を乗せるのを優先している。
「それはつまり、オレが魔法を……この世界に魔法を使うようになった。その理由について求めたいということかな?」
要するに自分の過去について、過ぎ去った時間の中で、人間としてどのような関係性と記憶を蓄積し、今に至るのか。
そう言うことであると、エミルは仮定をそのままに。
やはりその口元には笑顔を湛えたまま、彼はくすんだ金髪を右手で軽く撫でつけながら、魔法少女の瞳に視線を向けている。
「それは……、あー……人にそう言うことを求めるなら、な。まずは自分のことから話すべきだと、オレは思うな」
エミルは右の指を髪の毛から離す。
毛先の温かさが指紋のおうとつから消滅していく。
冷たさが皮膚を染める。
エミルは感覚を味わいながら、魔法少女の口元に浮かんでいる表情を見下ろしている。
「秘密を知りたいなら、まず最初に己の秘密を掛け金として差し出すべし。っていうのは、その昔オレの師匠筋に当たる人が教えてくれたことでな」
魔法少女は、一見して無表情に見える唇の形で黙りこくっている。
しかし平坦な色は決して無味無臭とは言えそうにない。
そこにはあからさまに人間臭く、どうしようもない程に人間らしい動揺の色彩が油彩画のように強烈な明暗を描いている。
その事をエミルは青い虹彩の中で確認し。
そして、キンシの方もまた緑柱石の右目の内層で感情の発生を、嫌気が差すほどに認識していた。




