認識でも改めておこう
声の主が誰であるのか、エミルの方は気付くことが出来なかった。
それはあまりにも人間の、人間によるそれとは大きく異なりすぎている。
とても人間の音声とは思えない、どちらかと言えば言葉としての音階よりも不安定で、不規則で。
今まで一度も聴覚に受け止めたことのない、それは異国の言葉、異文化の音楽的行為によって発生したものの様に思えてくる。
つまり、どういうことかと言えば。
「あー……と? 今、謎の電子音声がどこかから聞こえてきたような?」
今しがたエミル自身の手によって消毒作業を終えたばかりの。
「傷」と呼ばれる、限りなく自然的とされる現象からは相変わらず、ブシュ……ブシュ……と熱がくすぶっているかのような音が途切れることなく連続をしている。
それを右側に、エミルはその場からほとんど足を動かさないまま、視線と上半身だけを左側の方へと軽く移動させている。
日光の下の海原のような色をした、エミルの瞳はしかしながらすでに対象と思わしきものを、自身が口にした疑問に対する回答に該当をするであろう。
物体を、人物を、エミルはその時点ですでに視界に把握することをしていた。
だが、その上でエミルはどうにも瞳に映るそれが音の正体であると、上手く認識することが出来ないでいた。
「提案します、それは強く推奨できる金額だ」
城からやって来た、くすんだ金髪の男性が聴覚と視覚の合間で認識の不具合を起こしている。
男性が内層の中でバグに苛まれている。
そんな事はお構いなしと、エミルの眼球の左側で一人の青年は平然とした様子で、引き続き音声による提案を繰り返す。
「推奨します、わたしにはそれを実行できる面積が一時間に記憶される」
「ああ? なんだって、トイ坊よ」
エミルが混乱をきたしている。
男性が沈黙をしている。
それに構うことなく青年は、トゥーイという名前の青年は提案の動作を止めようとしない。
そんなトゥーイに、見かねたオーギが務めて平常なる声色で青年の伝えんとしている内容を把握しようとしている。
ブスブス……と燻る「傷」。
その辺りで困惑をしている男性二人がいる方角目指して。トゥーイという名前の男性は白い尻尾をピン、と上向きに固定させたまま足を滑らかに前へ動かしている。
「確定しています、これは誕生日のような贈答品を気のみの丸みと共に弥次郎兵衛」
浪音という、肉体にイヌ科の特徴を宿した人間独特の、相手をじっと見据えるかのように堅苦しい視線がエミルとオーギに向けられている。
「なの……nano,なの、で。わたしは。わたしは」
トゥーイは三角の握り飯のような聴覚器官を真っ直ぐ前に向けている。
どうにかして意思を伝えんとしている。
その意図は何となく通じてしまえるのが、必要最低限自分と同じ格好をしている生物故の呪いじみた昨日とでも形容すべきなのだろうか。
しかし、今は青年の怪文法をじっくりコトコトと厚底鍋で煮込んでいる場合ではないと。
「おーいキー坊、通訳頼むわ」
オーギがかなり早い段階で一つのことを諦めて。
「あ、はい、はい? 分かりました」
先輩魔法使いである彼に指令を出されて、返事をしたキンシが小走りでこしょこしょと彼らの方へと近付いていく。
「えっと、何でしょうかトゥーさん?」
キンシはトゥーイの方に体を、耳を寄せて彼の言葉をフムフムと聞き入れている。
青年の言葉。
およそこの世界に、この鉄国(彼らが暮らしている文化圏のこと)で通用するであろう言語のそれとは思えそうにない。
少女はしかし青年の体から発せられる音を、一つとしてこぼすことなく認識の内にとらえる。
やがて、キンシはトゥーイの意思を現代語訳しようとする。
「つまりですね、傷口の保護に自分の体を差し出したいとの事です」
「ええ?!」
魔法少女の口から発せられた現代語訳は単刀直入で、シンプルで。
言葉の単純さのあまりに、エミルがつい反射的に拒否感を抱きかけている。
「………」
くすんだ金髪の男性が、まるで信じられない者を見るかのような視線を向けている。
トゥーイはその視線に何を思うまでもなく。
そんな事よりも少女の誤訳っぷりに関して、彼女へじっと鈍く光る刃のような否定の視線を降下させている。
「………、先生」
「あ、えっと、すみません間違えました」
誤訳の訂正。
キンシはもう一度頭の中で言語を回転させて、目に見えない排出口から言語を熱を帯びさせながら印刷をする。
「………。…………………」
伝え終った。
トゥーイによる提案はこう言うことであった。
「あらかじめ魔力を織り込ませた布で、現象を塞げば再発の可能性を少しでも削ることが出来る……」
ここに丁度、程良く、余分なく不足なく、都合よく物品が用意できると。
エミルの手に渡されたのは、トゥーイが今しがた身に着けていたばかりの上着が一着。
「確かに、魔力によってできた傷を、魔力たっぷりの布かなんかで詰めて塞ぐって理屈は解らなくもないけどな」
「そう……そう、なの?」
果たしてどのような理屈なのだろうか?
メイがいまいち理解を掴みきれないで、ただ現実だけが坂と重力に従って流れ落ちる川のように過ぎ去ろうとしている。
だがメイはその椿の花弁と同じ色をした瞳から好奇心を、それこそ布の一片ですらこぼさないように、まぶたを開き続けることを止めようとしていない。
「感覚としては……なんとなく、こんな事を考えてもらえばいいかな」
エミルは青い瞳による目測で傷の具合を再確認し。
大きさを高めることによって、トゥーイの上着の面積がどれだけ必要なのかを推し量ろうとしている。
そんな感じの作業のさ中で、男性は椿の魔女からの質問にも丁寧そうな受け答えを実行していた。
「ものすごく酷い怪我の上に、例えば火傷とか……、今すぐにでも中身と外を遮断し合わないといけないときに、同じ人間の体から皮膚を拝借して縫い合わせる。そんな治療法を、イメージしてくれればいいんじゃないかな?」
メイの頭の中、脳味噌のシワとシワの間に満たされた髄液の揺らめきにイメージが浮かび上がる。
酷い火傷、今すぐにでも塞がないといけない。
ので、股間にある柔らかくて伸縮性のある皮膚をユリウス・リヒャルト・ペトリのガラス皿でぶよぶよと乾燥ワカメのように、増やしに増やしていく。
「考えかたはそうだとしても。それと、これが同じようにうまくいくのかしら」
メイは考えて、そうすると彼女の体毛を覆っている春日(体に鳥類の特徴を宿した人間の事を指す)特有の、柔らかくて白色の羽毛がフンワリとパン生地のように膨らんでいる。
それは感情の高鳴りに起因する身体の動作で、この場合においては魔女は不理解に置き去りにされることに関して拒否感を抱いていた。
「理屈は何であれ、当館としては一刻も早い事態の収束を、ただそれだけを望んでいるにすぎないわ」
幼い体をしたメイが不満げにしている。
その様子に視線を向けながら、エンヒという名の博物館員はそれ以上に次の展開を望む声を発していた。
「それで? このブリーチがかったやもめさんの、脱ぎたてな上着をどのようにして使えば、「これ」を塞ぐことが出来るというのかしら?」
別にトゥーイの毛髪は漂白剤によるそれではないし、まだ彼は寡を名乗れるほどの人生経験を積んでいる訳ではない。
と言うような意見をトゥーイ本人が、すぐ近くにいるキンシを通じて女性に訴えかけようとしている。
だが、エミルの方は彼らの尤もたる否定的意見をいちいち聞き入れようとはしなかった。
「なんにしても都合よく物があるなら、それを使わない手は無いってことやな」
エミルは右手の中にトゥーイの上着を。
裾と袖の長い、英国紳士が着用するコートのようなシルエットのそれを右の指の中に。
「とはいうものの……、流石にこれをそのまんま「それ」に乗っける訳にもいかへんよな……」
決して軽くは無い、コンパクトさからは遠く離れている布の塊を手持ち無沙汰にしている。
「誰か、ハサミを持っている人はおらへんかいな?」
傷の上に青年の暗い色をした上着がポスンと乗っかっている。
ナスの浅漬けが冷えた白飯の上に搭載されている。
そんな感じのイメージを浮かべている。
「メイさん」
メイは、瞬間的に名前を呼ばれたことに気付くことが出来ないでいた。
「メイさん」
魔女から返事が来ない事を訝しんだキンシが、声のボリュームを若干上げて彼女の名前を再度発音している。
「メイさん、そういえば貴女がはさみを持っていませんでしたっけ?」
「はさみ」
問いかけの意味に関しては特に考えることもなく。
メイはすぐに理解を、指の先は身に着けていたポシェットの中身を探っている。
「はさみ、はさみね……。うん、ちょっとまって」
まず最初に別の道具が指先に触れる。
細く鋭く、ある程度の長さがある物を別のところに押しやり。メイの指はすぐに目的のものを掴みとっていた。
「これで大丈夫かしら」
メイがポシェットから出したのは一振りの鋏。
ずっしりと重さのある銀色の刃に、黒色の持ち手は重量感がある。
布を断つのにとても具合がよさそうな。
その鋏はメイの細く白く、小さな指の中でどこか人の肉に戦慄を覚えさせるほどの存在感をキラキラと放っていた。
「ちょっと、お借りするな」
メイが右手の中で差し出している。
エミルはそれを同じ方向の腕で受け取り、早速持ち手を繰りながら布へ刃を走らせている。
ザクザク、ザクザク、と柔らかいものが硬く鋭いものに圧迫され、削られ、バラバラに切断される音が静かに連続する。
「先輩が、後輩の服をためらいなくズタズタにしている……」
エミルがじっと作業に没頭している。
その様子を横から眺め、エンヒはなんとも言えない風景へ少しでも具体的なコメントをしようとしている。
そうでもしていないと、この謎の空間にこれ以上圧迫感を覚えたくない。
と言うのが、この博物館で働く女性の本音で。それはただ単に、心理的傾向におけるささいな逃避行為でしかなかった。
女性が日常の中に違和感を溶かし込もうとしている。
佐藤がぬるま湯に融解する。
「不思議ですね、とても不思議です」
それこそまさに自然現象じみた事柄を、しかして魔法少女は人の心の変化を見逃そうとしない。
「それで、少し気になっていたことがあるんですが」
空間の合間に埃が溜まるように。
キンシと言う名前の魔法少女は事項への解明のための言葉を、質問文を滑らかな舌の上に音声へと変換しようとした。




