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何があったのだろう

 それは右目のはずだった。


 右側、right(らいと)


 彼から見て向かい側、彼の真正面の位置に立っていたキンシ。

 キンシからは左の方に見えていて。彼、エミルと言う名前の男性にしてみれば紛うことなく、間違いなく右側にあった。


 あって然るべきだった、無くてはならないはずだった。

 その眼球は、右側の眼窩(がんか)に埋めこまれていたはずのそれは。しかし、他でもないエミル自身の指によっていとも簡単に、あまりにも容易く、いかにも異物然としたままで取り外されてしまっていた。


「う、わ……っ」


 キンシは男性の行動に対してリアクションを、おそらくは悲鳴めいたものを起こそうとして。


 しかし寸前で、生まれるはずだった音声は形を得ることをせず、口蓋垂(こうがいすい)のがま口のような丸みを少し撫でるだけであった。


 キンシは出しかけたものを中途半端にこらえている。

 その様子は若干派手目なしゃっくりのようで、炭酸飲料をがぶ飲みしてしまったかのようにも見える。


 キンシと言う名前を名乗る魔法少女が、喉の奥から空気と微かな呻き声を混ざり合わせながら、体を前方へ少しだけ屈折させている。


 嘔吐をきたす一歩手前のような格好を作っている。


 エミルはそんな少女の様子を眺めながら、その右指の中では今しがた自らのまぶたの中身を満たしていた器物をくるくると弄くりまわしている。


「悲鳴をあげたいんなら、我慢せずに出し切った方がエエと思うぜ」


 右の指の中では、トローチを分厚くして歪んだ楕円形にさせたかのような形状が、白目と虹彩と瞳孔を模した色合いを皮膚の隙間から覗かせている。


 エミルはほんの数秒ほど指の中で物品を実感しながら、少女が次に指の中へと注目した時点では、すでに指の動きをほとんど止めていた。


「変に我慢をされるのも、それはそれでいい気分がしないしな」


 キンシが何かを言おうとして。

 考えようとする、だが言葉は確かな実体を得ようとする端から、次々とほどけて消えてしまっている。


 少女が唇をもごもごと、サナギになる寸前のでっぷりと太った芋虫のように蠢かせている。


 エミルはそれを見ながら、やはり簡単な意思の表示意外に何を言う訳でも無く。

 唇にはいかにも含みを持たせた感じの笑みを湛えつつ、彼は右の指で義眼を元の場所へと戻していた。


「その、……全くのぜんぜん驚かなかった、と言うのは。そう言ってしまうのは、虚偽になってしまうものでして」


 エミルが右の眼窩の内側、ピンク色が瑞々しい膜が重なり合う隙間へ、鋭角を限りなく少なくさせた丸みを。

 ツヤツヤとした合成樹脂の小さな欠片を、滑り込ませながら適正とされる位置に整えている。


 くすんだ金髪の、蒼い義眼を持った男性がささやかな作業を手早く終わらせている。


 男性が集中力の残り香として溜め息を吐いている。


 空気の音、そこに含まれている湿り気とにおい。

 虚空の前にはあまりにも頼りない、だが男性のほぼ真正面の位置に立っているキンシにしてみれば、その音色は充分が過ぎるほどに強い存在感を有していた。


「もしも僕が抱くべき感情があるとすれ、ば……。ばば、ば、場違い、場違いもはなはだしいということです」


 エミルはまぶたをパチクリと、右側の場所に埋めこんだ「それ」に特筆すべき不具合が存在していないことを確認しながら。


 彼は自分の目の前、五歩ほど離れた左の辺りで少女が頬に血の気配を巡らせているのを見ていた。


「そうでした、自分のことを話す時はまず、相手の状況がどの様なものであるかどうかを確認しなくてはならない。情報を集めなくてはならない、そんな基本的なことを忘れていたなんて」


「いや……あー……? 別に、そんな真剣のマジに考えなくてもいいんじゃないか?」


 よくよく考えて見なくとも。この状況のそもそもたる要因は、エミル自身が少女の左目について追及をしたことに起因してくる。


「その、な? オレとしてはだな、ちょっと君を励まそうとしただけっていうか、な?」


 エミルは、あえてここでは自身の側に含まれている導引については触れない事にするとして。


 相手が予想以上のリアクションをしたことに、エミルはまるで年端もいかぬ青少年のような狼狽えっぷりを見せようとしている。


「なんつうか、見た目以上に落ち込んでいそうな感じがしていたからさ。オッサンなりに若いコを励まそうとしたんだよな」


 誰かに言い訳をするように、他でもない自分自身へ誤魔化しをするかのように。


 エミルは右手を今度はふらふらと体の前で軽く揺らしながら、そうすることでこの場面の形容しがたい空気を直接払拭するかのようにしている。


「オレもさ、昔の……いつかの天変地異にはあんまりいい思い出がある訳じゃなくて。正直、思い出したくない事ばかりだからな、適当に忘れながら過ごすしかないんやって」


 自分の経験に基づいて、どうにか相手に同調をすることを図ろうとしている。


 だが、エミルの思惑はキンシにとっては大して意味を為そうともしていなかった。


「天変地異って? エミルさん、何の話をしているんですか?」


 キンシがエミルに質問をしている。


 エミルは少女の問いかけを聞いて、一瞬彼女がおふざけのつもりでそんな事を口にしたものだと。


 もしそうだとしたら、その仮定が成立した場合には、エミルにとってそれはあまり喜ばしくないこと。

 この魔法少女に対する価値基準を、ハードカバーの実用書三冊分ほどにはランクダウンさせそうであった。


 だった、のだが、しかしどうやらその必要性がない事に、彼が気付くのにそう大した情報は必要ではなかった。


「あー……っと? キンシ君、つかぬ事をお聞きするが」


 エミルがぱちぱちと瞬きの回数を早くしている。


「あと、女性にこんなことを聞くのアレ……アレなんだけどな」


「はい、何でしょう」


 キンシがその問いかけに返事をしている。


 エミルの質問事項は至極単純なもの。


 彼は少女に生年月日を、この世界に生まれてから、生命活動を継続させた時間の量についての質問をしていた。


 キンシは予想外に数字に関する質問をされ、若干戸惑いながらも、大した時間を要するまでもなく解答を声に発していた。


「なるほど、あー……なるほどな」


 キンシが口にした数字を耳に受け止め、エミルはようやく合点がいった風に何度も頷きを繰り返している。


「えっと、僕の年齢がどうか、何に関係をしているのでしょうか」


 くすんだ金髪の男性が一人納得を深めている。

 キンシはどこか置いてけぼりを食らわせられているような気分で、それでもどうにか彼の真意を推し量ろうとしている。


 だが、エミルの方はどうにも少女の追及に対して明確な正体を見せようとしていない。


「いや、いやいや? なんでもないんだ、オレの方で勝手に思い込みが過ぎていただけなんだよな」


 エミルは相変わらず瞬きの回数を多めに。ひとりで勝手に自らの失敗に恥じ入り、悔い改めるだけであった。


 いよいよ訳が分からなくなっている。

 キンシが人差し指で下唇に触れている、その視界の中でエミルの方に近付いて話しかけてきている姿が映り込んできていた。


「エッちゃんはいつも詰めが甘いのよ」


 エンヒが男性の方に寄ろうとして。

 やはり五歩ほど離れた、いかにもパーソナルスペースを尊重した距離感を保ちながらエミルに話しかけている。


「自分でも気づかないうちに、勝手に独りで、自分だけの基準で他人を計ろうとするところ。まだまだ、昔と変わっていないようで」


 エンヒは一つに結んだ髪の毛の、ミッチリと整えられた結び目の辺りに指を這わせながら。

 くすんだ金髪の男性へ、うっすらとなじるような視線を向けている。


「そういうとこ、わたしは昔からエッちゃんのそう言うところが好きじゃなかったわ」


 言葉の上ではネガティブのそれでしかない。


 だがキンシは、博物館で働く女性が文章のそのままの意味を男性に伝えようとしている訳ではない。

 ということを女性の表情から、詳細はともかくざっくばらんな意向程度なら察せられてしまっていた。


「あー……だってなあ、最近の子供って成長の具合がよお分からへんから……」


 エミルは咄嗟に言い訳をしようとして、しかしすぐにその行動を無意味さに気付いている。


「って、俺がどう思うかも、そいでもってキンシ君が何年前に生まれたことも。この場面においては、大した意味がある訳やないよな」


 彼は自分の頭部へ右の指を伸ばし、短く切りそろえられた毛髪の波を指の腹でサワサワと優しげに撫でつけている。


「失敬! こんな事よりも、早いとこ用事を済まさんといけんな」


 エミルは使用する言語に若干の訛りを、この灰笛(はいふえ)と言う名前の地方都市が存在をしている地方に古来より伝わってきている。

 標準語とは異なる、独特のイントネーションと言葉遣いをエミルは使用している。


「そいでや、オレがここに呼ばれた原因と言うのが……アレってことになるんだけれども」


 エミルは女性と少女のいる空間の、間から足を動かして移動をしている。


「どうかな? オレが見た感じだと、どうやらそんなに深刻そうには見えへんな」


 エミルの吐いている革靴の底、分厚いゴム素材に刻まれた滑り止めが博物館の床に鈍い靴音を生じさせている。


「今の状態、現在の様子としては概ねそれで合っとります」


 エミルの目測に対し、返答をしたのはオーギという名の若い魔法使いの声だった。


「減少の程度、損傷の深度としては、もともとそんな大したもんでもなかったんやけど」


 エミルが、城から呼び出されてきた魔術師の男性が、ジッと自分の報告に耳を傾けている。

 オーギはその事実を眼球、及びその他の感覚器官でしっかりと確認しながら。

 その内に芽吹く感情の動きを押し潰すように、今はとにかく状況の報告に徹しようとしていた。


「問題としてはそこに敵性生物が、それも人間に害意を為すレベルのそれが潜んでいたって事の方が、あんたらにとっては気にするべきこと。って、ことなんだろ?」


 それでもオーギは。

 キンシやトゥーイ、メイにとって仕事上の先輩にあたる、とても頼りがいのある若き魔法使いは。


 彼自身にも気づくことのできない領域において。

 それはもう、とてつもなく、ほとんど眠る時の夢物語に等しい無重力、無規則の中で魔術師に警戒心を抱いている。


 オーギという名の若い魔法使いが、それに気づこうとする。


「まあ、まずは触って確かめる。それに尽きるよな」


 それよりも先に、やはりエミルは魔法使いたちの都合を待つことはせずに、自身に与えられた要望を手早く解決へと結び付けようとしていた。

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