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ひみつ

 ツバクラ・エンヒという名の女性が、その後れ毛のほとんどをしまい込ませながらエミルの方を眺めている。


「エッちゃん、あなたが風邪をひくのは……わたしとしては割とどうでもよくて。そんな事よりも」


 エンヒはジャケットに包まれた腕、胸の少し下の辺りで組んでいたそれをゆっくりと、音も無く開放させている。


「ここは博物館、資料を保存するための施設で。しかも、ここの区画は企画展示用スペース。ここまで、わたしの主張したいことが理解できたかしら?」


 限定的で、決して大した強制力を有していたわけではない。

 しかし本来あるべき形を取り戻したはずの、エンヒの腕には依然としてそこはかとない、表皮に氷水を吹きかけるかのような緊張が固定されたままとなっている。


「いえ、ね。仕事現場から直で、ここまで走ってきたことはすごく嬉しいと思うし、まずはそこに深い感謝を送りたいと思っているのよ。お疲れ様、はるばる走ってきて疲れたでしょう」


 ごくごく自然な挙動。

 その時点ではまだ何ものにも染まっていない、いかなる感情も含まれていなさそうに見える。


 全くの無表情という訳では、決してない。

 エンヒの顔にはきちんとした、なんとも常識的としか形容の仕様がない表情が浮遊したままとなっている。


「せめてタオルなり、絹のハンカチーフなりなんなり、その体をドライさせる方法が用意出来たらよかったのだけれど。ごめんなさいね、あいにく、たまたま、このタイミングに限って持ちあわせがなかったのよ」


 エンヒは腕をもう一度動かして、両の掌を天井に。お手上げ、降参のようなジェスチャーを作っている。


 体の動き、眼球で確認することのできる行動の範囲としてはただそれだけ。


 それだけであるはずなのに、どうしてこうも、今のエンヒからはそこのしれない不安感がそこかしこに立ち込め、彼女の体を満たしているのだろうか。


 姿の見えない、匂いも実体も何もない。

 せめて髪の一本だけでも指の腹に受け止めようと、見えざる指を伸ばそうとする。


 だが掴もうとしたその端から、目的があったはずの場所には冷たい間隔しか残っていない。


 給水機の水を紙コップではなく、意味もなく手の平に受け止めさせ続けているかのような。

 冷水のような視線、空気感は当然のことながら人間の心理へと、確実なる圧迫感をもたらそうとしている。


 エンヒに話しかけられている、エミルはしかして次の言葉を見つけらずに、今は黙ることしか出来ないでいた。


「とは言え、せめて何かしらの拭くものを。この際ハンカチでも、ポケットティッシュの一枚でも構わないから。そう言った感じの道具を恵んでもらうといいんだけどな」


 この場面において、そもそもの状況を鑑みるとしたら、エミルの方こそ相手に圧迫感をもたらすに値する立ち位置にいるはず。


 はずなのに、どうしてこうもこの男性はわざわざ腰を低くする姿勢を作っているのだろうか。


 男性と女性、男と女、訪れるものと受け入れるもの。


 彼と彼女のやり取りを見上げ、眺めながら。メイは自身の、あまり大きさが足りていない胸の中で、他人同士が交わしている感情の正体を読み取ろうと試みている。


「まあまあ、そんないけずなことを言わないでくれよな」


 エミルは博物館にいる女性に笑いかけながら。

 その間にも体は濡れ続けている。

 命令に忠実な空調機能が意図を組み込むこともしないまま、彼の衣服の下の肉から在るべき体温を少しずつ、タンポポの綿毛を飛ばすかのような感覚で続々と奪い去っている。


「いけずだなんて、いやね。いつの間にそんな、はんなりとした言葉遣いをするようになったのかしら」


 そこまで急を要するほどのことでもない。エミルがそんな挙動を作っている、限定的な創作物を目にしながら。


 エンヒはそれでも、彼の求めるところの物品を用意しようとしなかった。


「これも、お嫁さんの影響かしらね?」


 ここまで来るとメイにも、そして椿色の瞳を持った魔女以外にも理解が他人事の面を下げて来訪してきていた。


「ねえキンシちゃん……」


 もうそろそろこの幕間、茶番を継続させられる空白も使い果たしかけている。


 エミルとエンヒがささやかな「思い出話」に、棘ばかりがチクチクと多いバラの花のように花を咲かせている。


 その様子をまさしく他人行儀に、むしろそれ以外の挙動が作れるはず無い程度に。

 メイは男女に紅色の瞳の方向を固定させたまま。そっと体を左側の方、すぐ近くに突っ立っているキンシの方へとわずかに体を寄せている。


「聞いているだけでいろいろと、かってにイメージをするのもアレだけれど……。でも、あたらしい情報っていがいと、待ちかまえていれば向こうからやってくることもあるものね」


 シンプルな感想を口にしながら、メイは新品の情報を一つずつ脳内の見えざる棚の上へと陳列させている。


 とはいうものの、得られた情報は当人同士の人間関係の等々な様子について。


 エミルという名の男性は既婚者で、そしてエンヒという名の女性は彼と、かつては何かしらの関係性を結び合っていた。


「もつれあいね。……いえ、すでにからまった糸はほどき終わって、かわいてパスタのようにパサパサって感じね」


 こう言った想像を巡らせるのは、決して好ましい事とは言えそうにない。


 そんなありきたりな自覚をしていながら、しかしメイはそこに嫌悪感を抱くことをしようともしない。


 むしろ楽しんでいる。

 他人の関係性を横から眺めまわすことに、ジットリとした愉悦(ゆえつ)さえも抱いていた。


「ああ、だめね。こうやって他人のことをあれやこれやと探るのって、ほんとうにダメなことだと。わかっている、わかっているはずなのにね」


 メイがパン生地のように膨れ上がる欲求を、自己嫌悪という名を刻まれた鉄の蓋で押し潰そうとしている。


「恥じ入る必要性などありませんよ、メイさん」


 いつの間にやらすぐ横に、左側にメイが立っている。


 キンシは左の方にある瞼を少し下の方に動かし、そしてすぐに視線を元の位置へと戻している。


「それは単なる好奇心の付属品でしかないのですから。そもそも、抱いた感情は本人だけの持ち物なんです、どうして他人をおもんばかる必要があるのでしょうか」


 問いかけるような口ぶりをしている。


 キンシという名の魔法少女が唇を開いて、喉の奥、舌の上に言葉を振動させている。


 それをメイは聴覚器官、見た目はまるで植物のようで、それは椿の花の形を得ている。

 感覚の中で少女の言葉を認識し、その上でメイの方でも一つぐらいは意見を言おうと。


「キィ……」


 少女の名前とされる単語を発そうとした、その手前辺りでメイの方でも続きを思いとどまっている。


 魔女が見上げた先、キンシの顔面があるところ。


 そこまで距離が離れている訳ではない。

 少なくともエミルよりかは、未だにそのくすんだ金髪を雨に濡らしたままの彼と比べれば、少女と魔女の距離感はいくらか密接なものと言えたであろう。


 だが、そこまで身近にお互いそれぞれを存在させていながら。

 しかしそれは決して調和が為されているとは、とてもじゃないがそんな評価で花丸を、一方的に下せられるようなものでもなかった。


 キンシは、自らをそう言った名前で自称をする魔法少女は、様子だけを見てとればその眼球はきちんと世界を認知しているように見えている。


 瞼はきちんと開かれていて、右の目玉はいかにも健康的に潤いを保ち、虹彩はメイドの変化に敏感と変化を継続させている。


 だが、それはあくまでも「見ている」、視覚情報を脳へと転送させているだけ。


 なんの策略性もプログラミングされていない。

 ただ単に海原よりも広大なインターネット上からランダム、無作為で無造作に、何の規則性も持たせないまま「収集」と「拾得」だけを繰り返しているだけにすぎない。


 キンシの右目は、生まれたその瞬間から少女と共に肉体の一部として在り続け、共に育ち、成長を繰り返してきていた。


 片方の眼球はそれでも、少女の内層に広がる空虚にほんの一欠けら。

 固い拳で粉々に砕かれたビスケットの、粉末の一粒だけでも理由を求めようとしている。


 だが右目の懸命な働きも、もう片方の空洞の大きさにくらべれば空虚以外の何者にもなれやしなかった。


 キンシがそれ以上言葉を続かせることもしないまま、視線は空気に定められたまま、その大きくない体に静寂がはびころうとしている。


 メイが足を動かしている。

 一歩二歩、三歩のところで魔女は魔法使い的要素を含む少女と向き合う格好となっている。


 メイはキンシと向き合っている、だか少女の方は魔女がポジションを変更したことなど、まるでガン痛に無いようである。


 眼中。文章では二言で、音声にしてみれば五文字程度。


 ごくごく短い、この世界、現在において彼女らが意識を存在させ続けている文化圏。

 この場所において、そこに限定したとしても数はあまりにも多く、一個の人間程度ではとてもじゃないが把握しきれないであろう。


 言葉のうちの一つを、メイは頭の中に思い浮かべている。


 そうしている、それをわざわざ事細かに意識してしまっている。

 こう言った思考の状態に陥っていることを、彼女は自意識の中でしっかりと自覚していた。


 どうしてそんな、どうでもいい事をわざわざ考えずにはいられないのか。

 理由はすでに魔女の中で明確さを主張している。


 メイはキンシに対して違和感を抱いている。


 異物感。

 眼球の表面、結膜の奥底の隙間に睫毛の短い一本が混入してしまったかのような。


 どこか痛覚を想起させる。

 感情の原因はメイの視界の中。つまりは向かいあって立っているキンシの顔、その左側に因子そのものが端から端まで丸ごと、百パーセントの全てに含まれている。


 メイはキンシの顔を見る。

 鼻を縦の中心として、メイのいる立ち位置からは右側の、いつも箸を握っている方向にある。


 そこにはキンシの左半分の顔があって、そしてそこは片方とはまるで様子も、形相も何もかもが異なっている。


 確かにそこは同じ人間、一個の生命がもつ細胞の延長戦ではある。

 

 あるのだが、しかし。

 メイは、もうそろそろこの魔法少女についての色々、あれやこれやについてそこはかとなく理解を至らせんとし始めている。

 そのような魔女であったとしても、依然としてその少女の左側はまだ見慣れぬ異形としか呼べそうにない。

 

 あるいは肉と骨と皮を構成する、細胞の一粒の連なりですら異なっているのではいかと。

 魔女は魔法少女に対して、決して口には出せないような判断基準を保有したままとなっている。

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