相槌だけでもうっておこう
メイは思い出しかけている。
それは男性の形をしていて、年は若く、まだ十代の中頃すらも経ていないように見える。
少年の姿をしている。
それはメイにとって絶望のように深く、それと同時にどうしようもないほど希望じみた光を、心臓の鼓動のリズムで独り勝手に繰り返している。
メイはまぶたの裏、瞬間的に繰り返される暗闇の中で彼の事を。彼女にとってただ一人、この世界にたった一つの重要な意味を持つ人間の事を思い返している。
「だから、……アゲハさんがしんぱいするようなことは、なに一つとしてございませんのよ」
光景はあまりにも魅力的で、甘く柔らかく、触れただけでラムネ水のように懐かしく爽やかな香りがメイの。椿色の瞳を持つ魔女の皮膚を、体表を覆う白い羽毛を看過する。
やがては、薄紅色の真皮を走る血管と痛覚神経の赤と白へと至らんと。
しようとした、しかけた所でメイはまぶたを意図的に上へと固定させようとしていた。
「それよりも、アゲハさん。あなたの方こそ、いきなりお呼びだてしてしまって、ほかのご予定とかは大丈夫だったのかしら?」
少し、あるいは基準をいくらかは逸脱していたかもしれない。
しかしメイは多少眼球が渇くこともいとわずに、多少のドライアイも覚悟の上で、空気に触れる端から白めの丸みがヒリヒリと痛む。
痛覚はやがて許容範囲内をこえる、だがメイと言う名前の魔女は絶対勝つ絶妙な塩梅で、涙の液を一粒もこぼすことはしない。
わずかに潤んだ輝きを宿している。
魔女の紅色の視線がじっとこちらを見上げている。
「あー……それは、それは良かった。本当に良かったな」
体の小さな魔女に、ごくごくシンプルな近況報告を伝えられている。
彼女の視線が向けられている先で。
話題を吹っ掛けた方の男性はこれまた簡単な感想を、如何にも社交辞令的な丁寧さで口にしようとしている。
だが、正しく伝えるべき文章の一節を全て言い終えるよりも先に。
彼は、
「あー……でも」
と、いかんともしがたい要求を先に思いつき、考える段階を踏むこともせずにそれをメイに要求していた。
「その、な。出来る事なら、オレのことは普通に名前で……エミルの方で呼んでもらいたい所なんだがな」
男性は、エミルという名前で呼ばれることを望んでいる彼は。
しかし要求を言語に、音声に変換させた先から自らの言葉に自分自身で、どうにも受け入れ難いものとして認識してしまうような。
そんな、自己否定的な素振りを作り始めている。
メイは彼の挙動、スーツのジャケットの長い袖に包まれた腕。
いかにも成人男性的な太さと強さが、暗い色調の布素材のシワの重なり合いの奥に秘められている。
右腕はエミルの頭の上、彼の頭皮と頭蓋骨、その奥のプルプルと瑞々しい中枢神経の集合体。
それらの集まりと重なり合いの数々を守る、そんな感じの役割を与えられた。
エミルは右の指、規範的な長さに切り取られている爪の先端でガリガリ、ガリガリと。自分自身の毛髪、秋天の涼やかな温度に干し尽くされた麦わらのような。
明るいとは言えそうにない、かと言って日陰のような安心感を得られる暗さがある訳でも無い。
なんというか、なんとも中途半端な色彩。
そうだとしか形容できそうにない、少なくともメイにとってはそう言った印象以上のものは見受けられそうにない。
エミルはそんな感じのカラーの、おそらくは生まれたその瞬間からその色彩で、今日に至るまではそれを継続してきていた。
エミルにしてみればただの、何の変哲もない体毛の数々でしかない。
そんな感じの頭を少しだけ、二回三回ほど撫でつけた後に。
「いや、何でもないな。名前なんて、君の好きな風に呼べばいいよな」
彼は少しだけ恥ずかしそうな素振りで。
ほんの数秒前までに、他でもない自分自身で提案したはずの言葉を否定している。
晴天の下、昼間の光に照らされた海原とよく似た虹彩が、水面の深さのようにその正体を曖昧に隠している。
メイはその青色から目を逸らさないまま。
特に大して視線を外したいと思う理由もなく、結果としては凝視のような形で彼の要求を、左右に備わった聴覚器官で一つ残らず聞き取っていた。
「そう、そういうことなら、私はさいしょのとおりにさせてもらうわ」
段階を踏まえた所、メイはその上であえて自分の好きな勝手を通させることにしている。
別にここで我儘を貫き通す理由など、メイには何もないはずだと。
彼女はそう考えようとして、しかし自身の内層にそれだけでは済まされない、複雑な色合いが含まれている事をワンテンポの遅れで自覚している。
「でもよかった。私、なんだかあなたのことを名前でよびたくないなって、そんな感じがして、しかたがなかったの」
メイは出来るだけ平常心を意識し、とにかく心の内に生じた感覚を絶対に外側に滲出させないよう。
意識をピッチリと、新品のペットボトルキャップのように密着させている。
「ほら、下の名前でよびあうのって、ちょっとなれなれしい感じがしない?」
メイは半分くらいは本心で、もう片方の半分、若干境界線に滲出気味なウソを同時に展開させている。
ネーム呼称の仕方等々は暮らしている国、文化圏。あるいはもっと範囲を狭めさせて、それこそ家庭の門の内ですらそれぞれに個別の特徴がある。
だから気にするほどのことでもない、ましてやわざわざ爽やかさを演出した笑顔で主張することではない。
であればメイは、この魔女はどうして思ってもいないような事柄を口走っていたのか。
それはやはり、と言うべきか、当然の事実として目の前の男性。
エミルと自らを名乗った、くすんだ金髪の男性の立ち振る舞いに主たる要因が存在をしていた。
「ああ、あー……そうか。君はこの国とはまた別の土地、文化圏の知識を保有していたんだっけな」
椿の魔女が嘘をついている。
その事実に気付いているかいないか。
白か黒か、あるいは赤か。
どちらにせよ嘘をつかれていた方、エミルにしてみれば彼女の言葉の真偽は、この場合においては大した問題でもない。
「うん、うん……。色々と記憶が多いことも、それはそれで困ることがあるんだな」
確認の欲求以上に、エミルは好奇心よりもはるかに質量の多い感情を優先させている。
その瞳に浮かんでいるのは、ある種の同情心のようなものだったのかもしれない。
目の前、自分の鼻先の遥か下に存在している一人の女性、他人の女を取り巻く環境。
珍しくて、奇怪で、不思議で観測予測不可能な。人生の形へ、やはり礼儀的な心配をしているに過ぎない。
「うん、うんん? でも、これはこれで楽しいことはいろいろと、たくさんあるのよ」
きっと、おそらくは、運さえ良ければしばらく間は継続されるであろう。
メイは先に果てしなく広がり続ける人生において、その道に転がる砂利ほどに数々を繋ぐ他人の感情。
それを、しかして内心はさして重要とも思わないままに。
メイと言う名前の魔女は、水道の水を排水溝へと流すような動作で許容している。
そこで、魔術師の集まる城からやって来た彼と、魔法使い共と一緒に博物館で待っていた魔女のやり取りは、とりあえずの段落を結び付けていた。
と、その所でまさにタイミングを見計らったかのように。
「大変さで考えるとしたら、エッちゃん。あなたの方こそ、他人の心配をしている場合じゃないって塩梅よ」
男性へ新たなる女の声が柔らかな質感をのばしてきた。
「あなた、いったいここまでどうやって来たの? まさか足で、走ってきたんじゃないでしょうね?」
それまで、会話とも呼べそうにないほどに簡単で味気ないやり取りをしていた。
魔女と男性は声のする方へ。
スーツのジャケット、ビジネス用のそれとはデザイン性が少しだけ異なる。
体のラインとフィットするように、布の形がかすかに砂時計の形状を描くようにデザインされている。
レディースのスーツで、それを身に着けているエンヒという名の博物館員が、どうやらエミルの事を指すらしい名称を口にしていた。
「頭から、服の裾まで、あっちこっち雨に濡れてビショビショじゃない。もう……」
エンヒは胸の辺り。衣服の上からでもそれなりにふっくらと膨らみを感じる程度の、そこから幾ばかりか下の辺り。
みぞおちがひそむ辺りの位置で、エミルと同じく長い袖に包まれている腕を軽く組んでいる。
「ああ、あー……っと、すまないな。呼ばれたと分かったところから、慌ててこっちに来たもんだからな」
エンヒが自らの頭。うなじの辺りでピッチリと一つにまとめ、ℓ(える)の形のように見えるバレッタで後頭部を飾っている。
彼女は仕事用に固定させた髪型の、側頭部周辺に微かにこぼれている何本かの後れ毛を指で耳の後ろあたりに押し込んでいる。
「そう、……そうよね」
博物館員の女性が指摘してきていた。
その事実を教える言葉を聞いた。
メイはそこでようやくエミルの体表を染めている水分の量の多さに、遅ればせながら視覚と認識を追いつかせていた。
「エミルさん、大丈夫? ああ、はやく、はやくなにかタオルとかで拭かないと。このままだと風邪をひちゃうわ」
どうして今まで気付けなかったのだろうか。
目を凝らすだとか、眼球に情報の検索を頼っているどころではない。
博物館内は、開館をしている環境ではないにしても空調がしっかりと行き届いている。
つまりの所、館内は雨が降っている外、太陽の匂いを吸い込んだ水に満たされている外部よりも、幾らかは気温が低く設定されている。
それはただ単に、大量の人間がこの場所へと集まってくることを想定した環境の整備でしかない。
何もなければ、それこそ全身を水浸しにでもしない限りは、おおよそ体調に害を及ぼすようなことは、殆どの確立において考えられそうにない。
のだが、しかし。
やはり此処では、彼らの目の前には例外というものが多く、たくさん、大量に出現しやすいものらしい。
「うん、あー……うん。そう言われてみると、な。なんだか体が冷えてきているような、いないような」
彼は嘘をついている。
メイはエミルの瞳、そこに微かな溝を刻んでいる虹彩の色彩を覗き見るまでもなく。
その声色、震え、歯と歯がカチカチと微かな音をたててぶつかり合う。
音だけで。眼球に情報を求めずとも、彼が本当はかなりの初期。
あるいは、もしかしたら、この場に訪れていた最初から不快感を抱いていたこと。
その事にようやく気付かされていた。




