疲れてきただろう
どうやらエミルはスマートフォンの通話音声を、推奨の音量よりも若干多めに設定して、そのまま放置していたらしい。
ようやく返事らしいものが、およそ現在に通用する言語において送られてきた。
音はエミルの鼓膜を振動させて、やがては耳の奥に秘められたうずまき管のうねりへと吸収されていく。
だが音の質量は、震えによって生じた波の数々はエミルの聴覚が対象とする範囲のさらに先へと、その質量を及ばせていた。
「あ、なんか声がした」
脳味噌の運動野、豆腐のような柔らかさの中に秘められた電流の筋がルーフにベッドの上から移動することを望んでいた。
大人しく林檎を奥歯で噛み潰していた時より、遥か下方に望んでいたはずの病室の床は、すでに爪先が今にも触れんとしている所まで到達しかけている。
その時点で、しかしルーフはスマホを片手にしている男に、薄い機械をもっていない方の左指で「待て」を下され続けている。
「何か電話口で話しとるわ、よお聞こえへんけど」
格好としてはベッドの縁に体を、少しだけ斜めに預けているようになっている。
ここでもしもルーフが、少年の肉体が五体満足の不満など一つも存在しない、完全無欠であったのならば、特に困惑を抱くようなこともなかったのだろう。
なんと言ってもキチンとバランスさえ、とれてさえいれば。
そんな事さえ考えてしまう。大して関連性は無いにしても、とにかくルーフは次の展開をこの瞬間において、この場に限定された形状で強く欲し望んでいた
「えっと、えーっと? 返事せえへんのか………?」
エミルの左指は律儀に制止を指示したままになっている。
だが、もうそろそろルーフはこの男が、青い瞳にくすんだ黄色の毛髪をもっている彼が、ただ単に自分自身が他のアクションを起こせないでいるにすぎないと。
男があまりにも次の行動を起こそうとしない、状態の継続にいい加減飽きが訪れようとしている。
さて、そうだとすれば、どうしたものか?
ルーフが体のバランスを保っている両の腕を、今この瞬間に目の前に立っている男の認識する外側で、どうにかバレないように。
さながらダルマに自らの動きを悟られないように、察知されないように。
そっと、ルーフはどうにかしてベッドの上から移動をして。
せめてもう少し、あともうちょっとだけでも接近を果たし、通話相手の発している言葉の内容を窺い知れないものか。
ルーフという名の少年、現在はこの病室にひとり収容されている彼が、彼なりの判断力という名目のもと。
それとなく勇気を発揮して、とりあえず目の前の動かない野郎に反旗を翻そうとしている。
しかし、ちょうどその所で相手側にも次の展開が訪れていた。
「───………、…………───………───」
声は連続している、それは確かに言葉のようにも聞こえたかもしれない。
しかし、それにしてはどうにも。ルーフは握りしめていた指、力を込める過程で必然的にジットリと、重なり合う皮膚の隙間に湿り気を帯びさせていた。
そこへ電話口の音声が彼の耳に届いてくる。
電波上のやり取りの中で、発信機の内部において自動的に変換されているに過ぎない。
だがそれでも、類似品の声色はルーフにとってなんとも聞き覚えのあるものであった。
「………、今のって」
右足の親指、丸みのある肉に生えている分厚い爪が、病室の床のひんやりとした冷たさに触れている。
ルーフはその赤みがかった瞳孔を、真っ直ぐエミルの方へ。
彼が握りしめているスマホ、その静電気センサー付きの画面に点滅するマスカット色の通話アイコンへと視線の方向は捧げられている。
「ああ、間違いないな」
ルーフは言葉の続きを発しようとして、しかしそれが自分の喉から発せられているものではない事に、すぐさま気づかされている。
「なんともまあ……、あー……久しぶりのご連絡だな」
ルーフはエミルがそう話している。
それはどこか忌々しさを感じさせ、だがそれと同時にどこか愉快そうな雰囲気もある。
なんと言うか、大人を通り過ぎた人間が、子供向けのギャグ漫画を読んでいる時のような。
下らないと自覚していながらも、しかし同時にそれを愉快なものであると、しっかり確実に認識している。
「それで? わざわざお前の方からオレに連絡を寄越すなんて、一体全体何が起きたんか?」
ルーフが自らの経験上において、その矮小な記録の中からなんとか該当を見出そうとしている。
しかしエミルの方はよもや少年が答えを、解明を得られることを待つはずもなく。
少年が次に瞬きを、瞼の裏で水分を張り直している。
生ぬるくてほのかに塩気のある温度が眼球を包み込む。知らず知らずの内に乾燥しかけていた表面が、痛みを伴いながら本来の在るべき潤いを取り戻す。
「分かった。あー……分かった分かった、つまりは今すぐに、それがそっちに向かえばいいんだろ?」
ルーフが一連のごくごく自然的で、生理的な修復作業を行っている間。
エミルの方はすでに結論を、誰に頼るまでもなく己の意思で決定しつくしていた。
「はいはい、はーいはいってな。そいじゃあ、後は大人しくそこで待ってな」
こちら側で伝えるべき要件はそれに尽きる、それ以上は無いと。
やはりルーフの考察を置いてけぼりにしたまま。エミルとその通信相手、青年の声色を有している相手側でやり取りが取り決められようとしている。
「あ! そうだ、ちょいとお待ち」
だが電波上における会話が終わりを迎えようとしている、その所でエミルが寸前で一つ要項をあわてて口に走らせている。
「お前ってさ、今……どこで仕事しているんだっけ? まさか、もしかして……」
エミルがそこでようやく電話口を、スマホを支えていない左の指で唇ごと隠している。
あまり聞かれたくない内容の事柄を隠す、ジェスチャーを作っているエミル。
散々長ったらしく前置きを踏まえた割には、交渉そのもの自体は少々肩透かしなほどに終了していた。
ルーフは脳味噌の裏側にポカンと、梅干しの種一粒分の空洞が生じかけている。
しかしその空を何とかして、まるで誰かに対して言い訳をするように誤魔化そうと躍起になりかけている。
「なんか問題でもあったんすか? もしかして、魔術師関連の事件だとか………?」
今更手遅れだとはすでに頭の片隅で判別はついている。
それでも探求を止めようとしないのは、やはり好奇心の為せる技なのだろうか。
それか、あるいは野次馬根性とも呼べるかもしれない。
とにかくルーフは男がスマホの通話ボタンをもう一度タップして、継続していた電波の線をいとも容易く断絶させている。
その、大して特筆するようなものとも思えない動作の中。
終わりを迎えようとしている、それよりも先に自身の中で行動を決めなくてはならない。
「えっと、俺は………?」
右足はすでに床の上にある。
だが触れている脚部はそれだけで、一本だけの、片側だけのそれでベッドの外側を、この病室の外側を自由に動き回れるような。
そんな手段を、今のところの少年はまだ完全に習得できているとは、とても言えそうにない。
「悪いが、オレはちょいとばかし、あー……知り合い? の相手をすることになった」
エミルは現在の自分の状況。
これから起こすであろう行動の流れの、限りなく確定的に近しく予測できる内の一区切りを唇に呟く。
「知り合い」
ルーフは、果たしてエミルのたったそれだけの説明で、どれほど事情の真相を予想できたというのだろうか。
おそらくは、かなりの高確率で少年の肉の少ない胸の内には、あばら骨の隙間には、不可解さばかりが黒カビのように蔓延っていたであろう。
「どんな人かは知らんけども、随分といきなりな要求をするもんやな」
せいぜい軽口をはたく程度だけ、それだけしか出来ないでいる。
少年は赤みの強い瞳孔の色を真っ直ぐと、男の指の間に挟まれていた機械の方に向けられていた。
「でも、まあ………呼ばれているなら早いところ向かった方がええんやないか」
スマートフォンはすでにエミルの指から離れている。
薄い、板チョコビター味のそれにとてもよく似ている一枚は、空気や温度に溶かされることもないまま男の懐の内へとしまい込まれている。
「電話の相手は、………多分俺もよく知っている相手のような気がする」
今にもベッドの縁から落ちそうな、まるで頑丈さの欠片も感じられない体は、今すぐにでもこの場からの移動を望んでいるようで。
だがそれとほとんど同時、同等、同一において少年は、自らの欲望が現実に何ら影響を与えないであろうことを。
それこそ誰に確認するまでもなく、他でもない自分自身で自覚し尽くしてしまっている。
「ああ、君の予想は多分、それは正解だ」
ルーフが落胆に似た、少なくともポジティブシンキングとは遠く彼方に離れている感情を腹の内に、底に沈ませている。
それを横目に、エミルは少年の心持ちをおおよそにおいて察していた。
だが、それを踏まえたうえで彼は、少年に向かってこの場に居続けることを主張しようとしていた。
「大体君の予想通り、特に何か面白い事があるという訳でもなさそうだよな」
確認でもするかのような口ぶりで、エミルは近くに置いてあった鞄を掴み、革靴の先をいざ病室の外へと向かわせんと。
「……ああ、あー……でも」
したところで。エミルはそこでふと、思い至ることを一つ脳に浮かび上がらせる。
「あいつと……、いま電話で「早急に博物館に来い」ってぬかしたあいつってさ──」
エミルが何か、何かしらの一つのこと。
それはとても愉快で、彼にしてみればこの場面でそれ以上に面白いことは無いと。
そう信じきっているように、記憶の底をかき混ぜている。
男が鞄を右の片手に携えて、左手の指で虚空を撫でながら情報を検索して。
やがて答えにたどり着く、時間はそこまで必要ともしていなかった。
「あの犬野郎と、ルーフ君。君とあいつって、なんだかすごく似ているんだよな」
エミルは空気に触れていた左指を、そのままこの世界に存在させたまま、自らの顔面へ。
丁寧に髭が剃られている、ある程度の年齢の疲労感が滲んでいるそこ。
左指が顎を撫でている、骨と関節の気配をたっぷりと感じさせる指は、やがて天にキラキラと煌めく星を捉えるかのように。
指の先はルーフの顔面、少年自身には窺い知ることのできない表情を捉えている。
「ああほら、そうやって苛立っている時の、なんとも言えない目つきの鋭さだとか。不思議だよな、他人のはずなのによく似ているんだよな。まるで───────」
まるで。
その先に続く言葉は、なぜかこういう時に限ってルーフにも安易に想像が、イメージが容量を凌駕するほどに満たし尽くされんとしていた。




