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許可は貰わないでおこう

 音を発している機械を、世の中における区分の数々の内に収容するとして。

 

 エミルのジャケットの内側、裏側で携帯電話機能を有し、その他およそ人間が形成する社会、文化圏に役立つであろう。

 雑多なる、時として使用者であるはずの人間の意思すらも凌駕し、自意識を喰らい尽くさんとする。


「エミルさん? おーい、スマホが鳴ってんぞ?」


 スマートフォンと、そう言った名称を与えられている。


 病室の中に入院をしている、ルーフという名の患者の少年は機械の名称を呼ぶ。


 少年はスマホが発する、偽物の鉄琴のメロディーに耳を傾ける。


 ピコピッコン、ピッコンコン♪


 音のする方へと。スマホの持ち主である一人の男、エミルと名を呼ばれた成人男性の表情を、白くて柔らかいベッドの上から見上げている。


 少年の、赤みがかった明るい薄茶色の瞳に視線を向けられている。


 エミルはしかして、なかなかスマホから発せられている指令の音楽に然るべき反応を見せようとしていない。


「あー……っと? ケータイが鳴っているんだよな、どこにしまっていたっけか……」


 あたふたと慌てている、という訳でもない。

 どこか遠いところ、その晴れ間の海原のように深々とした青色の瞳、眼球が視認できない範囲で赤ん坊の声がどこからか響いてきているかのような。


 せいぜいその程度の動揺しかしていない。

 だが確かに、男の心は今まさに正常の状態から異常へと誘われんとはしている。


「ケータイケータイ……、そうそうここら辺にしまっておいたんよな」


 音はいつまでも止みそうにない。


 エミルはスマートフォンの事をあえてか、それともごく自然の内か、若干旧式っぽい呼び方で名を呼んでいる。


 男が自らの身に着けている衣服の中で、とてつもなく範囲の狭い探索行動を行っている。


 男の青い瞳がジャケットスーツの上を巡りに巡っている。


 その間にもスマホの呼び出し音は、まるでその音を止めようとする気配を感じさせていない。

 ここまで時間の長さを有していると、そろそろただの間違い電話である可能性も薄れてくる。


 そうでなくとも、あるいはエミルの務めている仕事に関連する要件である可能性は無きにしも非ず。


 と、そう考えようとして、しかしルーフはエミルの表情。

 慌て具合からして、男にとってその連絡があらかじめ予定されていたものではないと、さして事情を確認するまでもないまま容易く想像を至らせていた。


「はい、はいはい? もしもし、アゲハ・エミルです」


 結局スマホの居所はジャケットの右側ポケットに在った。

 エミルは布の隙間に指を滑り込ませ、間に収まっていた薄い一枚を持ち上げるとほぼ同時に、画面に表示されていた通話アイコンをタップしている。


 エミルは自らのフルネーム、名字を含んだ呼称を電話口における挨拶にしている。


 口を開いて、そこでようやく初めて電波の向こう側にいる相手へ返事の第一段階を実行している。


 その時点、瞬間においてはエミルの表情はあくまでも社会的なそれで。

 このままの状況が続くとして。もしもスマホの通話相手が、人間という生物において広く一般的な常識の範疇であったとすれば。


 この電話のやり取り、通信の様子に特筆するようなことは何もなかった。

 少なくとも病床のルーフは、エミルが口を開く前の限られた空白期間の内で、すでに関心の方向性を皿の上の林檎へと戻しかけていた。


 だが、現実は結局彼らの要求に足の小指一本分さえも掠ろうとしていない。


「……あ? 何だお前」


 エミルの声色にルーフは思わず体を緊張させてしまっている。


 それは一重に、彼の発した今の一言に含まれる音程、声音の雰囲気が今まで一度も聞いたこともないようなもの。


 少なくとも、彼がこの城と呼称される収容施設で意識を取り戻した。

 瞼の奥の眼球に世界を認識する。そこでこのエミルという名の、自称するところによれば城の管理人の一族の一人である。


 男と出会った、そこから一応ながらも継続をしている関係性において。

 今の彼の反応は、ルーフにとって今まで一度も見たことが無いものであった。


「おい? なんだよ、ふざけてんのか?」


 とは言うものの、流石のルーフであっても他人の動向にいちいちセンチメンタルを発揮できるような、そんな繊細さを有しているわけでも無い。


 であれば、何ゆえにルーフがサラサラと着心地の良い入院服の下、脇の辺りにジットリ湿り気たっぷりの冷や汗を浮かべている。

 

 その理由としては、エミルの表情にあまりにも分かりやすい苛立ちと、そこから波が円形に広がるように男の様子からネガティブのそれに属する色合いが濃くなってきているのであった。


「どうしたん」


 ルーフが、大体は好奇心に押し負ける格好で堪らずエミルに問いかけている。


「いや、あー……何でもねえよ」


 だがエミルの方はルーフの質問を受け付けようとはせず、空いている左手で身を起こしかけている少年の動きの気配を無言で制している。


「ご心配には及ばない、及ばないんだよな」


 深々と溜め息を吐きだしながらも、エミルはしかしスマホの通話機能を停止させようとしていない。

 言葉はルーフに向けたものというよりは、まるで自分自身にセルフで言い聞かせているような。


 どこか堂々巡りの空虚さを匂わせているような、いなくもないように見えてくる。


 あえて疑問形の雰囲気を作っているのは、おそらくエミルにしてみても通話相手の正体を完全には掴みきれていないという事になるのだろうか。


 ルーフはまず最初に自身の心理状態から、エミルの脳内を独自で予想しようと可能性を展開させようとした。


 だが、割とすぐさまそのような思考ルーチンはさして意味を有さないことを、それこそ自動的に結論を繋ぎ合わせている。


 エミルは。

 そう呼称され、自らもまたその名を所有物として認識している。


 男は右の片手にスマホを携え、それを右の頬に。

 メラニン色素は割と少なめで、しかし血色はおよそ健康的な人間のそれと思える。


 傷跡もなにもない、骨を燃やした灰を混ぜ込んだ陶磁器のように、滑らかで平坦で「普通」な右頬にスマホを密着させている。


「……」


 エミルはスマホに赤色の多い唇を寄せて、そのすぐ横に電話の子機を模したマスカット色のアイコンが心臓の鼓動と似たリズムで明滅している。


 沈黙は苛立ちや怒りによるそれとはまた別のもののように見える。


 右手と唇は固定されたまま、視線は此処ではない何処かへと向けられている。

 青色の動向はこの場所とは別の、電波が繋がり合っている向こう側へと差し向けられているようだった。


 エミルは沈黙をしている、その間も通話は継続されていた。

 通話料金の額が時間と共に増幅していく、だがそんな事はささいな問題でしかないと、エミルはそのまましばらくスマホを握りしめていた。


 その状態が十秒、そこからさらに先の世界まで続く。


「? ………?」


 一体何時まで待てばよいものか。

 時間にしてみれば、それこそ人間の人生という大して長くもない、最低限一本の萌ゆる若木よりも短くて矮小な時間の期限において。


 そこを基準にしてみたとしても、少年と男、そしてスマホの向こう側に存在している顔の見えない誰か。


 他人たちがそれぞれに体験し、その身に刻んだ時間の長さは大したものですらなかった。


 のだが、しかし、そうであったとしても意識の内においては、それでも充分が過ぎるほどに意味が多すぎていた。


「どうしたんだよ? 一体、誰から連絡が………?」


 ルーフが正体の見えない沈黙にいよいよ、ついに耐え切れなくなってきていた。


 ベッドの縁側、床との距離はせいぜい一メートル定規の幅にも満たない。


 だがルーフの足は、右側はつい最近とある一つの可愛らしい怪物にパックリと食べられて、その形はこの世界からほぼ完全に消滅している。


 虚ろの右足を自然にフォローする形で、ルーフは滑らかな動作の中で胴体をベッドの上で移動させている。


 少年の動きと連動してベッドのマット、下層に内蔵されたスプリングがキイキイと霊長類の赤子のような軋みを発している。


 揺れは微かなものでしかない。

 だが影響は確かに存在感を世界にもたらしている。


 ルーフが動くと同時に机の上にあった皿、そこに搭載されていた林檎の欠片の一つがバランスを崩し、乾きかけの水分が湿り気のある衝突音を一つ起こしていた。


 ルーフはベッドから体を離そうとはせずに、まずは近くに用意されている車椅子へと腕を伸ばそうと。


 したところで、少年のすぐ近くでエミルの方にも、やがてついに変化が訪れることとなる。


「あ……あー……っと? お前、もしかして……」


 とは言えスマホの方は、そこから繋がる電波の線の中は相変わらず沈黙がそろそろ飽き飽きする程に持続されている。


 だからこそ、この通信上において先にアクションをしたのはエミルの方となる。


 彼はスマホを握っていない左の手で体の前を、虚空に何か実体のあるものを掴もうとしているように。


 指は空気を撫でる、動きに合わせてそこに含まれていた物質の数々も流れを生じさせている。


 エミルが口を開こうとして、その喉の奥の暗闇から思いを至らせた想像の一つを言語に変換させようとしている。


 肺胞の丸みと毛細血管の筋。酸素は気管支を上昇し、声帯の震えはやがて舌の筋肉によって意味と形を与えられていく。


 エミルが言葉を発しようとした。

 だがそれよりも先に、ようやくスマホの向こう側でもそれらしき反応が聞こえてくる。


「………。───、─────……………」


 偶然として、そう言った過程を当てはめるのには、あまりにもタイミングが良すぎる。


 もしかしたら通話の相手はエミルの言葉を、彼が意識の中で予想を、想像を巡らせることを期待していたのかもしれない。


 顔も見えない相手の様子をどうやって把握したのか。

 理屈は解せそうにない。よもや電波の上、通話用の発信音から発せられる微かな呼吸音から、相手の動向を察知していたのだろうか。


 その様に、異常なまでに聴覚が鋭い人物がいるというのか。


 予想はもはやルーフの理解の遥か遠くには慣れている。


 だが色々と置いてけぼりの少年を他所に、エミルという名の男の頭の中では、もうそろそろイメージが一つの具体的な形を形成しようとしている。


 その所、そんなタイミング。


「………。もし、もし………」


 エミルが耳を寄せ、済ませている。

 スマートフォンから、とある男性の音声が密やかに聞こえてきた。

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