大体みんなろくでなしなんだろう
呼吸は繰り返される、その命が続く限り、生命に継続性が認められる限り。
「………」
トゥーイという名の青年は、そういった名前を与えられた彼は息を潜めている。
酸素が肺胞に満たされ、血中から二酸化炭素が排除されていく。
その動作、そこに生じる雑音ですら、今の彼にとっては雑念の一つでしかない。
出来る事なら透明になりたい。
心臓の音も聞こえなくなる程に自分の存在を、今、この時においてのみ強く願望をしている。
青年の手には武器が握られている。
それは刃ではなさそうに見える。
金属質の鋭利さは欠片も感じさせない、素材として考えるならば、それは木材だとか竹製品を想起させるしなやかさがある。
一重にその武器はトゥーイの所持している「鞄」
鞄代わりに使用している収納魔術道具、そこに収められていた数々の物品のうちの一つであった。
それは刃でもなければ、かと言って槍のようにも見えない。
当然薬箱でもなさそうであるし、ましてや重火器ほどの複雑さと重さを有しているという訳でもない。
その武器はいたって単純で、なんとも原始的な造形をしている。
単体では攻撃性はあまり期待できそうにない。むしろその辺に転がっている石ころで頭部を殴打し続けることの方が、幾らか合理的とさえ思えてくる。
武器とされている道具には鋭利さはなく、むしろ人間の手の内に握りしめられるための流線形すら描いている。
滑らかな手触りはトゥーイの骨ばった太い指に握りしめられている。
さすがに皮膚よりかは柔らかいそれは、形として見るとすればどことなくバイオリンを想起させる形状とも言える。
波線、棒状の端から端までのそれぞれに「~(なみせん)」のような屈折が組みこまれている。
どちらが上か下か、いちおう波の波長がなだらかで長い方を天とするルールが存在しているらしく。
軽くそった先端から、そこから地続きとなっている下の方まで。
本来ならば一直線上において、それこそ棒を真っ二つに折らない限りは出会う事のない点と点。
二つを結び付けるかのように、その武器には一本の丈夫な糸が張られている。
いや、それは刺繍糸程の優雅さとしなやかさがあるわけではない、それは細い形状の筋という点においては糸とも呼べるのだろうか。
トゥーイの指はその、今にもはち切れんばかりの緊張に触れている。
触れた先からイメージが膨らみ、実体のない柔らかな花弁を思考の中で花開かせている。
そうなのである、これはバイオリンのようなものであって。
そう考えるとしたら、今この指が触れているのは糸という概念の内に含まれる一つ。
弦、弓の弦。
トゥーイは想像における正解と思わしき像を脳裏に浮かべながら。
植物をより集めてねじらせた素材で作られた、弦を指の間に挟みこむ。
親指と人差し指の間を繋ぐ皮膚の、伸縮がしわを刻んでいる。薄い皮の合間に、トゥーイは弦の緊張と攻撃意識の存在を肌で感じていた。
トゥーイは、実は少し前の辺りからその武器を、弓にとてもよく似ている道具をその手に携え、体全体を使って構え続けていた。
物陰に隠れながら、己の存在を他でもない自らの意志によって否定し続けながら。
トゥーイは弓を構え、音を聞き、敵が自分の視界に入り込んでくるのを待ち続けていた。
弓は体の前に、完全に腕を真っ直ぐと伸ばす手前の動作。
矢をつがえ、羽根の辺りを完全に弦と同化させつつ、まだ放つまでの段階までは進ませていない。
自身が発案した作戦のアイディア。
それを魔法少女に伝え、そこから先輩魔法使いの許可が下りた。
そこからすぐに行動を起こして、青年にとって仕事上の先輩にあたる若い魔法使いとアイコンタクトをそれなりに交わしつつ。
見つけた隠れ場所で、そこで先ほどの呼吸法を繰り返していた。
そうしていながらトゥーイの聴覚器官は、頭部に備わっている三角形のホワホワとした白い体毛に包まれた。
耳は三角の頂点をピンと点へと伸ばしていて、開かれた大きな耳孔は自分以外の音の全てを。
自分の呼吸音、鼓動音、その他の肉体の蠢き。
それらを意図の下で排除しようとする、その先の静謐を埋め尽くす音の質量。
怪物の叫び、先輩魔法使いの放った水薬のピチャピチャとした破裂音。
再び怪物の叫び、それはもうそろそろ悲鳴に近しいものとなっていた。
意味不明であったはずの言語は、しかしトゥーイの耳にはとても聞き慣れた言葉のようにも聞こえている。
怪物が跳び上がって、ボロボロの皮膚が空気を撫でながら直進運動をしている。
風の音。
向かう先はトゥーイにとっても、考えるまでも無い程に解りきっていること。
悲鳴が聞こえたような気がした。
それはキンシという名の、トゥーイにとってこの世界で何よりも優先されるべき存在が発したものだと。
彼はそう考えようとして、しかし弓をつがえながら浮上してきた想像を再び沼の底へと沈めている。
よりにもよって彼女が、あのキンシという名前を与えられた魔法少女が、怪物を目の前にして悲鳴などを上げるものか。
怪物を、この世界の住人ではない、異邦人、異世界より来訪した穢れの象徴。
醜く、瑞々しく臭く卑しい。
あの悍ましい肉と、骨と、皮の塊を目の前にして。あのキンシがよもや恐怖感情を抱くはずなど無い。
そうトゥーイは考える、それは信頼と言っても差し支えない。
青年は少女の心を、愚かさを信じていた。
だからこそ彼は少女の思考を想像し、そのイメージの中でより確実性の高い方法を選んだ。
ただそれだけにすぎなかった。
怪物が再び悲鳴をあげている。
言葉は酷く不明瞭でありながらも、トゥーイの脳に内蔵された言語中枢は認識をやめようとはしない。
魔法少女はきっと怪物から逃げることはしないであろう。
それこそ、その身が敵の凶暴で汚らしい歯に侵されることだって厭わない。
彼女は怪物から逃げることはしない。
トゥーイにとってほぼ確定事項と同等な、前提の中で彼は手に持っていた武器にいよいよ緊張を注ぎ込む。
腕を軽く万歳をするかのように上へとあげる。
左の指には弓のしなりを、右側の皮膚で弦を握りしめて引き延ばしている。
時間はあまり与えられていない。
緊張にそれだけ時間をかけることはできないにしても、かと言っていつまでも悠長さに甘んじられる場合ではない。
早急に放出のための形質を組み立てる。
左腕は目的の方向へと真っ直ぐのばされている。
それは肉体による軌道修正装置である。
動体を中心として、真っ直ぐ地面を食む両の足は砲台を固定するかの如く。
左の手の平に強い圧迫感がもたらされる。
弓は強く屈折を起こしている、しなりはミチミチと微かな音を中撫でながら、しかし決して折れることも割れることもない。
張りつめた弦がトゥーイの耳元で伸縮の唸りを這い登らせている。
青年は左目で、体にたった一つだけ残された球体の視覚器官で方角を見定めている。
視界の中、そこには伸ばされた左腕と、その親指の付け根。
基節骨の膨らみの上、そこに搭載されている一本の金属にチラリと視線が向けられている。
視線は静電気のような速度で周囲と点々と瞬き、やがて全体の像が曖昧になってくる。
ぼんやりと霞む、眼球の認識が使い古した保護フィルムの内に包み込まれ、密封をされたかのようであった。
無意識が存在しない時空間において浮遊をする。
ヘリウムガスにはち切れそうなゴム袋のように、不安定な感覚がやがて青年自身の全体像を意識の外で認識し始めている。
その姿、そこからトゥーイは何故か重厚な造りの重火器を想起せずにはいられない。
これは彼にとっていつも通り、すでにルーチンじみた連想であった。
もちろんその手に握りしめられている、その武器は銃でも何でもない。
見た目や使用方法、そこから得られる効能と結果とを考えて見たとしても、彼が今使っているのは弓のそれの他、何物ですらない。
だが、それでもトゥーイは連想を止めることをしない。
それは彼自身にも、自分の考えていることがあながち間違いではないと、そう自覚している部分があるからだ。
仕組みとしては、原理としては、意味と、理由にしてみれば。
自分の意思とは離れた物体を飛ばして、遠くに離れている敵へ、その肉の感触を味わう必要もないままに細胞の結合を侵害できる。
そういった目的において、もしかしたら両者の違いは、開かれた溝は、せいぜい落葉で詰まり気味の用水路程度でしかないのではないか。
ルーフはごくごく短いスパン、思考の空白の中で言い訳じみた考え事をしている。
それは雑念の他にはならないはずなのだか。
しかし、どうにも彼にしてみればそれが集中をしている事であって。
つまりは、いろいろと無駄な事を考えられている状態こそが、青年にとって最も好ましい精神状態という事になる。
状態の正しさを証明する術は無い。
その様にまどろこしい事を考えてしまうのは、もはや彼にしてみれば手癖じみたことでしかなかったし。
それに、彼が何を考えていようとも、現実がそれをわざわざ待っていられはずもなかった。
「───── ── ── ──── ─ ─ ─ ─ ─ ──── ────── ─ ────」
音が聞こえてくる。
唐突に世界が元の形、色と像を取り戻し始める。
無意識は元の重さを取り戻して、彼の左目はすでに本来の機能を取り戻し始めている。
現実世界、そこに怪物の姿が映り込んでいた。
回帰した世界の中で、しかしやはりそこは通常とは大きく異なっている。
時間の感覚が大きく損なわれている。
本来ならばそれこそ電流よりも早く、瞬きよりも展開が目まぐるしいはずであった。
怪物は空中を滑っている、ちょうどそこの辺りで対象が最終、最後の一撃を覚悟していた。
その時点、同じ時間において、トゥーイもまた行動の最後の答えを体で表現しようとしていた。
とは言うものの、この領域に至ればもうやれることなど数限りない。
指を離して、指の間に握り、弦に食まれ、弓の体に抱かれた。
矢を離せば、後は答えなど簡単なものでしかない。
「………」
やがて、怪物の頭部のあたりに短く、小さな刺突音が破壊をもたらしていた。




