弱点王
「eeeqeeqeqeq eqeq eqqeeq eqeq eqeq eqe」
怪物は唸っている。薄く柔らかい唇の端からボタボタと、粘性の高い涎をこぼしながら低く、小さく唸り続けている。
オーギの手によって作成された香水。という体を、形質上の意味をとっている、怪物専用の毒素。
紫色の花弁をイメージしやすいように、着色料によって視覚的色彩を与えられた。
それらは怪物の体を、主に皮膚と呼ぶべき表面上の保護機能をまさしく、現在進行形によって蝕まんとしている。
「すごく苦しそうね」
キンシの背後、ちょうど列を作る格好で背後に構えている。
エンヒが少女越しに怪物の様子を遠目で確認しながら、その対象物の苦しみ様から考えられる可能性を一つ思いついている。
「もしかしたら、あのまま彼の毒で事が済ませられるんじゃないかしら?」
短いスパンの中でエンヒは出来るだけ言葉に間違いを生じさせないように。
しかし確実に相手に自身の思惑が通じるよう、あえて直接的な表現を連続させようとしている。
「ほら……、今から大量の毒を上から降りかけてしまえば、わざわざ……──」
自分の要求、相手の求める形、それぞれが違う方角と形を成していること。
その程度の認識の差ならば、女性にしても少女にしても、わざわざ確認をするまでもない周知でしかない。
だがエンヒはそれでも、自分の中に生じている可能性の息吹を信じずにはいられないでいる。
伝えられる時間には限りがあって、それももうすぐに容量を使い果たして瓶の底が顔を覗かせようとしている。
そうであってもエンヒは、今日というこの日、この場面が確立されようとしていた。
その瞬間、あるいはそれよりも前。彼女がいまの自信を確立するよりもはるか昔から、考えて、そうしたくて仕方がなかった。
願望はそのまま切なる願いで、それは現在へと直接指で触れるようにリンクをしている。
エンヒはどうにか言葉の続きを。
目の前の少女へ。
いたって普通そうに見えて、よく見れば実はとてもその様に呼べそうになくて。
だとしても、やはりその姿はこの世界の何処にでもいそうな、まだ大人ですらない子供の内の一人でしかないであろう。
エンヒは少女に可能性を伝えようとしていた。
だが彼女の言葉は、魔法使いでも何でもない、別の何かである博物館の彼女の言葉は少女に届くことをしなかった。
「それでは駄目なんです」
言いかけた言葉の気配を、その上からたっぷりとした灰色の絵具の質量で塗りつぶすかのように。
エンヒのすぐ近くで、キンシという名の魔法少女が静かに意見を、意思を伝えるための言葉を発している。
「彼らはそれでは満足できないのです。彼らは人を恐れながら、同時に強く他人の心を欲し、求めているのです」
実際にそこまでの量の台詞が、きちんと言葉として届いたかどうかは定かとも言えそうにない。
だが子細な内容以前に、その反論自体がキンシからの、エンヒに対しての否定意見と同等の意味を有している事には変わりない。
思いはそれだけで充分で、彼女と少女の間に開かれた溝を満たす分にはその程度で済まされることでしかなかった。
「eqeeqeeqe1 naaa uiuiuiiui ui1 rrrrr.... 111」
それに、いずれにしても現象はもう二度と彼女らの都合をかんがみることは無いし。
そもそも、怪物にしてみればこの世界の住人が何を思い、考え、言葉を紡いでみたとして。
そんな物は無意味で、少なくとも怪物自身の内にある欲望の前では、塵ひとつ分の質量さえも有していなかった。
「1111 111 11 1 003333333111」
怪物が叫んでいる。
とても苦しそうに、まるで音声そのものが怪物の内に許された命の灯火かと思わせる程に。
実際に、殆ど現実と同様の意味の中で、怪物はそのしらしらとした眼球に最後の活力を放たんとしている。
皮膚は焼かれ、秘されるべき柔らかな真皮は現世の汚れた空気のもとに暴かれている。
血は止まらない、修復機能に命ぜられるままに傷を塞ごうと、懸命に硬質を形成しようと。
そうする、その端から次々と新たなる傷が出現をしてくる。
グズグズの肉から、蛇口を軽く捻ったかのように体液が止めどなく、静かに流れてきている。
その有り様はさながら、自動で止めどなく赤い液体を流し続ける酒瓶の如く。
無限の食糧庫たるダグザの大釜よろしく。
しかしそれは所詮は生き物の体でしかない、怪物は己の体の内に確実なる消失が、やがては自身の命すらも危ぶまれる欠落が生じていることを。
今更誰に確認するまでもなく。
怪物自身が自らをさいなむ痛みの中で、数少なく許された意識を全て包み、覆い尽くさんとしてる事実を夢うつつのように認識している。
「60l606l60l 06l111 1111 111111」
このままこの場所で安寧を求めた所で、その選択はもはや手遅れ、場違いも甚だしい。
怪物は幾つか枝を別れさせている選択の中で、一番遠く、細く、危険性に満ち溢れた可能性を選んでいる。
それ以外に信じられるものなど最初から存在していないと。
仮に在ったとしても、そんなものは眼球に認めなかったのだろう。
怪物は叫んでいる。
もう言語を繰り出そうともしていない。単純な叫び、音声だけが空気をビリビリと振動させる。
「……っ! 来る」
全貌は魔法少女の背中に隠されて、そのすべてを完全に確認できたとは言い難い。
だがやはり、眼球の機能に頼る必要も無い程に。
エンヒの体は、その表面を覆う皮膚は、敵性生物が猛烈な速度で接近してきている。その存在感、圧倒されそうな気配の量に反応を。
まず最初に驚愕をして、次に生物としての生存を考える。
そしてやがては、彼女の体の中には諦めが芽生えようとしていた。
決して当事者とは言えないはずなのに、エンヒは無意識の中で諦観についての理由を附属させようと必死になっている。
怪物の捕食対象は自分ではないはず。だが、一体その安心感に何の安定性が見出せられるというのだ?
怪物は全てを、己に許されたすべての生命をかけて、欲求を満たそうとしている。
欲望。
体を毒で蝕まれ、殴打と切り傷は今でも痛覚神経をズクズクと苛んでいる。
第三者からの目線ではとても理解できそうにない。もしも判別を望むとすれば、その行為はつまり、この世界における「普通」の人間であることを諦めると同義。
それ程に異常性に満ち溢れている。
だがそうであったとしても、怪物は自らの腹を満たすことだけを考えている。
まるで空腹以上に苦しい事など存在しないと、それを充たせられるとすれば、これ以上に仕合わせが良い事など存在しないと。
怪物は言葉を必要としないすべての領域において、たった一つの事実だけを信じている。
神を崇め奉るかのように。
母親が赤子を腕の中に慈しむかのように。
友との語らいに安らぎと充実感を得るかのように。
怪物はただ一つの願いを。
空腹を満たすこと。虚ろはすでに実体と等しい程に存在感を増していて、空はもはや漁火の激しさで内壁を焼き尽くさんとしている。
痛みを満たす、腹を充たす。
怪物が酸素を吸い込むと同時に地面を踏みしめる。
博物館の保護膜が衝撃を受け止めている。
余りにも強すぎる圧迫感は、頑強であるはずの魔術式にミシリミシリと負担を生じさせていた。
動作は実行へ向けて一直線に進もうとしている。
怪物の体に緊張感が走る。
筋肉が盛り上がれば、敗れた血管から血液がヒュウピュウと吹き出てくる。
赤色は鮮やかに空気を撫で、地面に木苺の粒のような模様を点々を垂らしている。
点はやがて線を繋ぎ、しかし形はいつまで経っても得られることは無い。
怪物は叫んでいる。
叫びながら、皮膚に何本もの赤い筋を流しながら。
それでも、そうであったとしても関係は無く。怪物は唇を開いて、長い二本の前歯を剥き出しにしながら。
直進をする、長くて薄い耳が風を孕んではためいている。
震えは全て獲物においてのみ動作の意味を捧げている。
動きは間違いなく、他でもない獲物自身へ。
キンシという名の少女に向けて、ほぼ完全に狂いなくその捕食行為を成就させんとしていた。
「……」
キンシは怪物が真っ直ぐ、高速道路上のダンプカーと同等の勢いにおいて接近してきてる。
それを見ていて、はたしてそこから逃げようともしていない。
足を動かそうと思えば、それは決して不可能な選択肢などではない。
少なくとも、ここから今すぐ銀幕の大女優を目指すよりかは、遥かに実現性の高い選択ではある。
動けなかったわけではない。
キンシは静態の体の上、一番上にある頭蓋骨の中身でその事実を一つ転がしている。
たとえ自身が何を認め、納得を深めた所で。それは怪物にしてみれば関係のない話でしかない。
相手はキンシを、その体を歯で砕くことだけを望んでいる。
そんな相手に御託は不必要。
そう考え、思考の上でキンシはやはり足を動かすことをしない。
少女の頭の中もまた、たった一つの目的にその殆どを占領させている。
ただ、怪物と魔法少女がわずかに異なっている事をあげるとすれば、少女はあくまでも本能から一拍目を逸らしたところで行動をしていること。
本音を言えば今すぐにでもこの場所から逃げ出したい、それが少女にとっての本能であって。
しかし彼女はその命令文を否定している。
そうしなくてはならない。
自らの命を懸けてでも、彼女には信じなくてはならない相手がいたのだ。
「………」
キンシが、少女がその信頼を体ごと捧げている。
その相手はこの場所から少し離れた所。
怪物と少女の一直線が結ばれている、その様子がちょうど右側の側面から望むことの出来るところ。
「………、……………………」
その場所、おそらくは怪物の意識には到底及ばないであろう。
視界の外側、そこでまるで物陰に隠れているかのように。
トゥーイは、その名前で呼ばれている青年は息を潜めている。
最低限生命活動に必要な呼吸だけを繰り返しながら。
彼はまるで空気と一体化でもするかのように。
出来るだけ気配を消そうとしている。
「………」
研ぎ澄まされ、張りつめられた緊迫感。
その体、腕、指の間には一つの武器が握りしめられていた。




