落ち続けていよう
だがもう迷っている暇は無いようであった。
「なりふり構っていられないんですよね」
怪物が早くも呼吸を正常なる形へと整えつつ、自分の方へと真っ直ぐ欲望の目線を向けてきている。
眼球のしらしらとした輝きを一身に浴びながら、キンシはどこか諦観じみた感覚さえ抱きそうになっていた。
「そう言うこった。まあ……無理をしない程度に頑張れや」
オーギは後輩の少女を励まそうとして。
しかしこの状況で果たしてその様な行為が正しさの範疇に組みこまれるのかどうかも、あいまいさの中で中途半端に漂わせるだけであった。
「だけど、それで本当にうまくいくの?」
内容を横から耳にしていた。
メイがキンシの顔を見上げながら然るべき不安感を、それを口にせずにはいられないでいる。
「上手くやるしか、ないでしょう」
魔女からの問いかけはそのまま、キンシの内側の大部分を占める心根の形でもあった。
「そうしなくてはならない。何故なら、僕らは灰笛の魔法使いなのですから」
キンシがそうやって、まるで誰かに確認をするかのように言葉を発している。
「………」
魔法少女の決意を、それが彼女の中で一つの意思として肉を得ようとしている。
少女の思考が動いている。眼球に確認することのできない力の流れ。
トゥーイは左側においてのみ許された視界の中で、まるで刃物の先端のように彼女のありさまを観察している。
「立場上、わたしからはあまり深く協力の意を伝えるべきではないのだろうけれど」
若い魔法使い連中が勝手に発案と決断を繰り広げている。
その様子をはたから眺め、博物館員であるエンヒは前置きの後でよどみなく言葉を続けている。
「でも、わたしとしても出来るだけこの場所で人間の血を流したいとは思わないわ。もしも作戦の助けになることがあるとすれば、ぜひとも協力をするわ」
一体全体魔法使いがどのような提案をしたのか。
エンヒは確認をするよりも先に、口元に微かな笑みを浮かべながら同調の素振りを見せようとしている。
それはただ単に、この状況を打破する手段をもっている連中相手に対して、よもや否定的な対応をする訳にもいかないという。
いわば、ごく普通の社交辞令の域でしかなかった。
そのはず、だったのだが。
「そそそ、そうですか! それじゃあ、早速!」
エンヒの予想とは裏腹に、魔法少女がまるで心強い味方を手に入れたと言わんばかりに、抹茶色の虹彩をキラキラと。
それこそ怪物とさして変わらぬほどに輝かせている。
「……えっと?」
博物館の女性が少女の表情に不安を覚えていた。
「やっぱり、安易に相手と同調をするようなことを言うものではないわね」
エンヒの不安は、なんともこの様な時に限って実現を結び付けてしまっていた。
「ん? なにか言いましたか?」
女性がどこかしみじみと、懐かしい少女時代の思い出を解雇するような声色を発している。
声を背後に聞き取りながら、キンシはエンヒの方を振り向こうともしないままに前を向き続けている。
「いえ、ね。これはいくらなんでも、作戦としては手段が直接的すぎるんじゃないかと。そう思っただけよ」
しかしここまで来てしまったら、これ以上懸念を抱いたところでさして意味は無いだろうと。
エンヒは前方に構えているキンシの背後を見守りながら、静かなる諦観の中を抱き。
その指の中には発信機を構え、リップクリームだけを塗った唇の端を上に曲げようとしている。
「大丈夫ですよ、エンヒさん」
エンヒはあくまでも笑顔を浮かべていたのだが。
しかしキンシの立ち位置からだと彼女の表情までは視認できず。
ゆえに少女は女性の声音のみで、彼女がこれからの作戦に不安を抱いているものだと勘違いしようとしていた。
「たとえこれが失敗したとしても、僕は必ず、この命の全てをかけて貴方のことをお守りいたします」
魔法少女がそう言っている。
言葉には何の疑いも、迷いも、恥も誤魔化しもなにも含まれていない。
上から下、毛先から足の爪の終わりまで、彼女は自らに与えられた役割の事を信じきっている。
まるで幼い女児のような。
まだこの世界の事など何一つとして知らない無垢な魂が、白馬を繰る王子の存在を信じて疑ないが如く。
「……えっと」
山あいをせせらぎと共に流れ続ける清流のように透き通っていて。
貝殻の硬い炭酸カルシウムとコンキオリンの隙間に、丸みを眠らせる真珠のように純真な。
ツバクラ・エンヒという名の、大人の女性が少女の余りにも真っ直ぐすぎる言葉に。
それに対して、いったいどのような言葉をかければ。
女性が答えを見つけられないままでいる。
彼女らが意味を、理由を見つけられるよりも先に敵は行動を開始している。
「hyaahahahaha,hayahahahahahahahahahahahahahahahhahahahahha」
相手側はまさかそれを行儀よく待っていられるはずもなかった。
「そっち行ったぞ!」
少しだけ遠くの地点でオーギが、キンシに向かってそう叫んでいる。
先輩魔法使いの叫び声を耳に受け止め。
そして自分の方へと一直線に突進してくる怪物の、プルプルと柔らかそうな肉の塊を右の眼球で視認しながら。
瞬間の隙間に見える空白に、いま一度これから実行される作戦の内容について考えを満たそうとしている。
とはいえ、理屈としてはごくごく簡単で、単純で、ハッキリ言ってしまえば何の捻りも工夫もない原始的な考えでしかない。
「こっちに来た……っ!」
キンシの背後辺りでエンヒがほとんど悲鳴に近しく、短い息を吐き出している。
女性が口にしている。それが作戦の真髄で、つまりは怪物を誘導するために、今この瞬間において怪物が最も望むものを。
その味を己の歯で獲得し、己の下で味わい認識を果たした。
怪物は今、この場に存在をしている一つの生命。
「さあ、さあさあさあ! 僕は! 貴方が食べたいものはここに居ますよ!」
キンシという名の少女めがけて、長い耳と二本の鋭い前歯を持つ怪物はさながら銃口から火薬の燃えるにおいと共に発射された鉄砲と同様の意味合いの中で。
怪物は真っ直ぐ、味を知っている獲物ただ一つだけを望んで、流線型に大量の空気をはらみながら彼女の元へと走り続けている。
選択は最初から終わりへと向かい続けている。
行動には迷いがない。
時の中で生命を継続させ、空間の内に個体を保ち続ける。
生きるという選択、行為をすること。そのために必要な要素を、他の誰でもない自分自身の手で獲得すること。
それに何の疑問があるというのだ。社会も文化も、常識ですらその欲望の前では空虚で無意味な装飾品以下の価値でしかない。
「ahahahaha! ahahahahahahahahahhahahahahahahhahahahahhahahahaha! aaahahahahahahhhhhhhhh!」
最も基本的な意味。
怪物はそれだけを信じて、心から肉体、その白くて長く鋭い歯を構成するエナメル質の粒の一つひとつ。
細胞を覆う膜、中身から外部に至るまでの全ての水をその信仰に染め上げ、もう二度と以前の色を望むことはしない。
跳躍は少しだけ距離が足りず。
怪物は出来るだけ多くの確信と安心、実感を得るために一度床の上で助走をつけている。
「huuuuuu,huuuuuuhuhhhuhuhuuhuu. a a a a a ahahahahahhahahhahahahhahahahahahhahahahahahhahahahahhahahahhah ahahaaa」
直線状、頭部の両側に埋めこまれている真珠色の眼球に敷かれたレールを意識させるために。
曲線をいくつも描く体は、もはやその体表のほとんどをオーギの水薬によって侵害されきってしまっている。
皮膚としての役割を担っていたはずの表面は、ラベンダーの花弁を想起させる紫色に塗り込められ。
辛うじて残っている透明な部部とその境界線から、まるで水と油が、ルビジウムと水がそれぞれに決して交わり合うことなく分離するがのごとく。
元々より、ただでさえ防護及び防御の点においてはまるで信頼できそうになかった。
怪物の薄い皮膚は、それはもうとても芳しい香水、という体を主張する魔法の水薬。
つまりの所は、怪物というこの世界の人間とは異なる、別の世界ら来訪してきた別の生き物を。
異形のものを、彼らが息づき暮らし日常のなかで人生という限定された永遠を捧げる。
楽園ではない、安らぎなどどこにも存在しない灰色の王国。
そこを侵害せんとしている、異形のものをこの場所から排除するために作られた魔法。
「uuuuuuu uu u uuuuuuuuuu u---u----------- u u u - - - u u u」
魔法の香水。パヒューム、それはつまりオーギという名前の若い魔法使いにとっての、彼自身の、意思と意識によって。
怪物を殺し、この世界から排除するために作られた液体の数々。
それらが怪物の肌を侵し、溶かしてドロドロと秘されていた内部を無情に暴かんとしている。
「uuuuuuuuuu uuuu uuuuuuuuuu」
怪物は一旦の休憩を挟もうと目論んでみたところで、しかし緊張をほんの僅かに解いた端から自らの肉体を著しく蝕んでいる液体を。
異形のもの、異なる世界から来訪してきたもの。
そう呼ばれ、認識をされるものにとっては、塩酸よりも悲惨な意味を持つ毒素。
「uuuuuuuu! !111!11 u ii ///...///....// eeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeeee111」
それに身を焼かれている、怪物は鎖に保護された博物館の床の上で悲鳴をあげようと、懸命そうに発音器官を振り絞っている。
「eeeeeeeee1 eeqeeqeqe eqeqeqeqeqeqeqeqeqeqeqeqeqeeqeqeqeqeqeqeqeqe eqe」
だが喉の奥から発せられているのはとても悲鳴とは呼べそうにない。
それどころか、音声としての意味すらも怪しい。
非常に耳障りで、今すぐにでも耳を塞ぎたくなるような雑音だった。




