王の命を狙おう
トゥーイのかかと落としによって、怪物の体が博物館の上で粉々に砕かれている。
衝撃にあおられるまま破片は周辺へと飛び散り、細やかな粒がバラバラと撒き散らされる。
「iii... igyaaagaagyaaa...」
トゥーイが振り落とした足を元の位置へと戻している。
その眼下に怪物が物理的な関係において、そのままの意味で潰れた声を肉の隙間からこぼしている。
「ひゅう。トゥーさんの足技は相変わらず華麗に、つくづく容赦がありませんね」
すでに体の方向を修正させつつ。
キンシはまだ痺れの残る体をのっそりと立ち上がらせながら、青年の攻撃についての簡単なコメントを口にしている。
それまでずっと本来の在るべき形に逆らっていた、そこから元の縦方向に戻す。状態の急激な変化が、しばらくの間キンシから正常なる機能を剥奪していた。
「いや、いやはや、しかし……。これは恥ずべき事です。よもや、よりにもよって彼方さんの、敵の目前で己の心情すらも繰ることすらも実行を不可としていたとは」
トゥーイが何の武器も持たないままに、脚部による攻撃によって怪物を牽制している。
緊迫感がありながらも、しかして決定的な選択による緊張感は何故か感じられそうにない。
青年と怪物のやり取りを視界に捉えつつ。
その間に、キンシの頭頂部に狙いを定めようとして、しかしとっさの判断で形を変えている気配が一つ。
「片手式ィ!」
「あ痛?」
側頭部にビシンッ、と弾かれるような衝撃が走る。
キンシが驚く。
視線を動かせがそこにはオーギが右側のみの指をデコピンの、衝撃波を放った後の伸ばしきった指が陰影を描いていた。
「何を……! とは、言えませんね、はい」
衝撃波は羽虫の振動程度に脳を揺らした。
だがほんの些細な事であったとしても、それは紛れもなく他人の感情による怒りの象徴であった。
「すみません、オーギさん」
キンシが仕事上の呼び方すらも忘れて、しばしの後悔に身を費やそうとしている。
「ほんと、ええ加減にせえよ、まったく……」
オーギは短く深いため息を強く吐き出しながら、喉の奥から次々と増幅してくる叱責等々の言葉を懸命に飲み下しつつ。
「これも報告書案件やな、指摘なら後でフルコースレベルのを幾らでも食らわしてやる」
しかし今はそれどころではないと、若き魔法使いは眼前の最優先にだけ集中をしようとする。
「流石のトイ坊も、何の武器も用意しないままじゃそろそろ限界やろうな。お前も、はやく顔のそれを拭いとけよ」
オーギは左手の方に携えていた薬箱を、再び右手の方に持ち直しながら。
去り際に視線だけをキンシの顔、視線より少し上の方へと向けていた。
「顔?」
失態その他等々の事柄に関する羞恥心もそこそこに。
キンシは呆けた様子で、先輩魔法使から言われたことに関して考えようと。
しようとした所で、すでに開始されていた結果が赤色の雫を丸々と、キンシの顔面が終わる顎の先にまで一本の鉄臭い筋を描いていた。
「血がでているわ」
どうやら損傷はキンシが思っている以上に深々としていたらしい。
メイがもうすでに叫ぶ気力もなさそうな様子で。
しかし決して意志の力を損なってはいないと、努めて冷静に処置を実行しようとしている。
「ほら、とりあえずこのハンカチで拭いて……」
左側の眉の上、額にさっくりと切り傷が出来ている。
そこから溢れてくる血液によって、顔面にトマト色のペイントがなされていた。
傷そのものは大したことは無い、少なくとも今すぐに生命の危機に瀕するといった程のことではない。
とはいうものの、そのまま何の処置もせずにいたら今後の戦闘行為に支障が予想される。
「ほら、そのままだと、ね?」
前提として、メイは理屈っぽいこと考えている。
だが思考の奥底に、顔面を血まみれにしたままでいる事の方が拒否感としては重要な意味を占めている。
彼女は誰に確認をする必要もないままに、他でもない自分自身の内側において要求を把握していた。
「えっと、ありがとうござます」
幼い魔女の胸の奥で廻る思惑とは別に、キンシはまず最初に素直な面持ちで彼女の厚意を受け取っていた。
手で触れる前までは絹糸の気配を予想していた。
だが、指の先で感じられたそれは綿の柔らかでふわふわとした感触であった。
これならたっぷりと血を吸ってくれるだろう。
糸の密集を傷口にあてがう。
「血を拭いて、そうすれば」
キンシにしてみれば見た目の問題などはなから眼中に無く。
「ああ、でも」
かといって他の問題を、例えば感染症への不安だとか、明確に具体性を持った懸念があったかと言えば、そうも言い切れないでいる。
「痛い」
傷口を洗浄する。
行為そのものは通常から逸脱している、異常の域に組されることである。
その領域に至って、キンシはようやく初めて自らの肉体に生じた損傷を意識し始めていた。
脳の中心を揺らす電流はすでにだいぶ治まりを見せている。
だが衝撃の後に訪れたのは平静と平常とは異なる。
キンシという名の人間を構成する意識。そこへあらゆる障壁を掻き分け、剥き出しのそれへと直接触れるかのような。
痛みが、表皮の守りを失ったピンク色の中身をずきずきと満たしている。
「よし、この程度ならもう大丈夫ですね」
本来あるべき水分を急激に失い、剥き出しになった神経が空気の冷たさに触れて乾きかけている。
まるで巨大な指に皮膚を限界ぎりぎりまで引っ張られているかのような。
不快感はそのままに、キンシはメイの手の中へ簡単な礼と共にハンカチを返していた。
「よし、仕切り直しです」
おそらく、傍から見たらだいぶ様子がおかしい。
痛覚の作用によって皮膚の表面はべっとりと脂汗が光り、その内側の方も出血によるダメージが色合いの中に見え隠れしている。
他にも要因はいくつか考えられるとして、メイが不安そうにこちらの方を見上げているのを、キンシはあえて無視をすることにした。
いつまでも、ずっと休憩にふけっている場合ではない。
まだ怪物はこの世界に生きていて、それはつまり彼らの目的はまだ終了を迎えていないという事になる。
「さて、僕のペンは……?」
いくつか取り戻せた自覚の中で、キンシは己の左手に武器が握られていないことに遅ればせながら気付いていた。
「それなら、あのあたりにあるわよ」
メイは返却されたハンカチをポーチの中にしまいながら、手元を寂しそうにきょろきょろと視線を探らせているキンシに武器の居所を伝えている。
「あの……、ちょうど化け物がピョンピョンと暴れまわっている、その下のあたりね」
伝えてみたはいいものの、しかしその回答が少女の求める答えにそぐわっていないことは、幼い魔女にも充分察せられることであった。
「あんな所にあったら、とりたいと思ってもとれそうにないわね」
メイは思ったままのことを特に捻りをくわえる訳でもなく言葉にしている。
そうすればせめて、音声の振動の背後にひらめきと思わしきなにかしらが芽を出すのではないのか。
魔女は期待してみて。
だが自らの発した音が空間に溶けきっても、期待したものは得られなかったという落胆に心の一端を沈ませようとしている。
「そうですね、あの位置関係だと引っ張っても危ないですね」
メイの隣で、キンシの方も状況に含まれる困難さ具合に思考をぐるぐると廻している。
「ああ……、でもあれは困りましたよ」
キンシはつまり魔力による武器の回収を。
それはつまり視認できない程の細い魔法の糸を繋げて、釣り糸よろしく引き寄せるという。
いたって単純で、ゆえに簡易的に実行できる方法を頭の先端に浮かばせていた。
手立てとしては決して不可能などではない。
魔法そのものは大して難しくもなく、一足す一の答えを考える程度の思考で済ませられる。
そう考えるとして、しかしそれを実行できる環境がいつでも整っている訳でもない。
「もしもいま僕がペンをこっちに引き寄せたとしたら、急速に横スライドする棒がお二方の邪魔になること間違いなしでしょう」
キンシが不安に思うところはつまり、怪物と男性陣の睨み合いに読んで字の如くの横槍が突入することに拒否感を抱いているのであった。
「でも、武器がないと目的はいつまでまってもおわらないわよ?」
魔法少女が逡巡している隣で、メイははたして同意をするかどうかすらも上手く判別できないでいる。
「ナグさんは補助魔法を専門としているし、せめてトゥが剣をじゅんびできればよかったんだけど……」
メイの頭の中で容易に考えられる理由のいくつかが思いつく。
だが魔女は今更そのようなことを言っても仕方がないと、完全に全てを言い終えるよりも先に中途半端に音を止めていた。
「うう、これはどうしましょう、どうすれば?」
己の失態が招いた事態とは言え、責任感を抱く余裕も無い程にことは展開を急いている。
「そっち行ったぞッ!」
思案を飽和状態にしたまま、ちんけな要領の中に広がる選択肢を取捨選択。
キンシはしかし、内層に考えを突き入れる前にオーギの叫びを聴覚器官に受け止めていた。
途端に少女は隣にいたメイの腕を掴み、その場から右の方向へ素早く足を動かしていた。
「hugyagagahgagaya!」
キンシが回避行為をした。
その後ろで怪物が突進の果てに何の結果も得られなかった空虚の中で、どこかもの寂しげともいえる叫びをあげている。
「あ、あぶな……っ?」
キンシが手を離して、メイは解放された体の中で驚きをこぼそうとしている。
「まだです、離れて!」
だがキンシは魔女の言葉を強く制止する。
そして休む間もなく放たれている鋭利な視線から彼女の身を守るように体の位置を調整させていた。
「hihihi! hiihipya@aopyaaa@@」
怪物はある一定のレベルまで男性陣にダメージを与えられており。
その体は所々打撲に歪み、ツルリは透き通っていた表皮はあちこちに水薬の染みが点々とまばらに滲んでいる。
もうすでに本来の美しさ、触れれば跡形も無く溶けて消えてしまいそうな繊細さは少しも感じられそうにない。
「@@@@@ @@@@@ @@@@@@@@!」
だが怪物は他人の目など、よもや自信の表面にあられている美醜など一切関係なし、特筆に値しない事柄でしかないと言った様子で。
その気配は、声は、肉の輝き、眼球のきらめきはキラキラと。
ただ生命としての一つのあり方、獲物を捕食したいという獣の本能だけが怪物の存在を、この世界に証明していた。




