オワコンの人間に笑いかけよう
長い耳を持つ怪物が口を開く。
唇の間、ずらりと並ぶ白い歯。
その中心に鋭くとがる二本の前歯が、床の上に転がるキンシの肉体めがけて、ギロチンのごとく決定的な一撃を振り落さんとしている。
死ぬ!
キンシの頭に浮かびあがったのはその二文字だけ。
しかしその言葉、単語の意味を考えるまでもなく。
彼女は一刻も早く、……いや、秒針が一つの時を刻む時間すら与えられていない。
それ程の緊急事態にさらされている。
だが、そうしていながら、そうである筈なのにもかかわらず、彼女の眼球は異様なまでに情景を見ていて。
「あ……?」
まぶたは皮膚の伸縮がゆるす限りに開かれている。
まぶただけではない、キンシの全身の筋肉が非常事態に備えて硬直を起こしている。
呼吸を忘れて、しかし心臓は鼓動を止めずに血液から酸素が次々と失われていく。
やがて訪れるであろう衝撃にそなえて瞼を閉じるだとか、それとも今からでもできる回避行動か、あるいは精一杯の防御を用意するだとか。
だとか、とか、とか。
いかにもなんて言い回しをするまでもなく。人間として、この世界の生き物として、迷いも戸惑いもなにも必要ない。
何かしらの行動を今すぐにでも、心臓が一つ鼓動をするよりも先に行動を起こすべきであった。
そのはずなのに、キンシはなぜかそれらの、いかにもそれらしい事の幾つかのどれもが出来なかった。
「ああ……」
代わりに何をしていたかというと、キンシは床に仰向けになったままの体勢で、左の腕を怪物の方へとまっすぐ伸ばしていた。
腕だけが動体となって、それ以外は極限の緊張となって体を硬直させている。
それはさながら地中深くに眠る鉱物のようで、キンシはほぼ完全に雑然とした無用の長物と化していた。
「キンシちゃんっ!」
状況に対する解決策を誰かが考えるよりも。
メイと言う名前の幼い魔女が、理屈以前に容易に想起できてしまった凶事に対して悲鳴をあげかけている。
魔女にしてみても、どうして魔法少女が怪物の下で動けないままになっているのか、まるで解せずにいる。
「なにしてるの、はやく逃げて!」
それはまさに絹のハンカチをビリビリに引き裂くほどで。
しかしこの場合において、彼女の叫びは曇天を穿つレベルで正当性を放っている。
キンシは音を聴覚として受け取りながら、それでもなおキンシは動けないままになっていた。
理由としては、それはもう色々と、恐怖なりなんなりそれらしい事など幾らでも考えられる。
動かなくてはならない、とにかくこの静態から次の選択をしなくてはならない。
「??? ??? ....////」
怪物の方もキンシが天に向けて、つまりは自分の体がある方向へと差し向けている手を見て。
果たしてそこから何が現れるのだろうか、さながら野生動物然とした察知能力に縛られて、次の行動を起こせないでいる。
ほんの数秒前までには流血による熱いやり取りが繰り広げられていた。
だが今その場に満たされているのは、もはや飽くほどの静寂。
「/////////」
「……っ」
再び相対する。
しかし単純な位置関係においては、怪物の方こそあからさまに優位性を誇れるだろう。
だが怪物は何故か動こうとしない。
それは一重に少女の伸ばされた手のひら、そこに起因する反撃の可能性を恐れているより他は無い。
待つ、怪物と少女のあいだには秒針の歩みに収容しきれるほどの濃度があった。
片方は相手の様子を窺い、もう片方は。
つまりキンシの方はと言うと、やはり左腕を伸ばしたまま動きを止めて、それ以上の事をしようともしていない。
動きを止めたまま、この状態が永遠と続くわけでもないくせに、少女はしかし指先の方向を変えようとしなかった。
変えたくない、伸ばした腕を下げる訳にはいかない。
強迫観念じみた支配力が、理由もないままに少女の体を支配しつつある。
今しがた自分の身が生命の危険性に晒されようとしているくせに、少女の様子は至って穏やかなものにしか見えない。
どうとも出来ぬほどに意味不明な光景がそこには引き延ばされている。
キンシは伸ばした腕の先で、自らがリアルタイムの中で選んでいる行動の意味を考えようとして。
しかし脳裏に浮上させる理屈は全て空虚なものでしかなく、空洞は現実に次々と与えられている結果の前にぐしゃりと轢死している。
それでも、ミンチ状に潰れた思考の上にもっともらしいことを一つでも上げられるとすれば。
………。
「ああ……、綺麗だな」
この言葉、感想が本当に声となっていたかどうかは、それは当の本人にすらあずかり知らないことで。
しかしこの場合において言葉の有無など大した問題でもなかった。
なんと、この魔法少女はこの状況において、まさに自らの肉を食い荒らさんとしている物体に見惚れていたのである。
一応詳しく説明を、果たしてしてもよいものかどうかも判断はまた別の問題とするとして。
キンシは怪物の体の一部、頭部と思わしきところ。そこの左側にあるもの。
眼球、少女は怪物の瑞々しい左目に見惚れてしまっていたのだった。
命の危険があるくせに、キンシはどうしようもない程に怪物の眼球に。
キラキラとただ一つの目標だけを捉えていて、チカチカと夢への階段を確実に捉え、クラクラとしそうなほどに輝きと瑞々しさに満ち満ちている。
それはあまりにも美しく、白い表面は真珠のように繊細で、触れれば雪の粒のように跡形も無く解けて溶けてしまいそうな。
気がつけばキンシは怪物の左目へ、まるで乞うように指を伸ばしている。
自らの行為に気付き、それを確認して理解を追いつかせようとする。
そうでもしなければ、少女は紛れもない自分自身の行為に対して恐怖を見出しそうになっている。
「hiihihi/ hihihi///」
だが少女の感情などなんの意味もない。
このキンシという人間が己の行動に理由を見出す、そんな暇をよもや怪物の方が与えるはずもなかった。
怪物は存在すらも確証できない脳味噌の、あるかどうかも分からない思考能力において。
しかし少なくとも眼下の魔法少女よりかはずっと、はるか高みのレベルにおいて冷静を保てていた。
怪物はその認識力によって、少女からそっと伸ばされた腕を防御か、あるいは反撃のそれかと判断していたのだろう。
時間にしてみれば、やはりせいぜい一人の幼女が一言二言叫び声をあげられる程度の長さしかない。
その間に怪物は長くて薄い耳で宙を撫でながら、空中で相手側の様子を窺うようにしていた。
「huuikihkiki? .... ////11」
しかし、獲物がいつまで経っても次の行動を起こさないことを充分に、いかにも獣らしく用心深く確かめた後に。
「hiiii/// 3ffffff1 3ffffffff1」
充分に安心を得られた。それはつまり、床の上に転がっている肉の塊がいつまで待っても次の行動をしようとしないまま。
さながら冷蔵ショーケースに陳列された鮮度たっぷり脂でっぷりの商品のようになっている。
怪物はもうすでに何を迷う必要もないままに、後にすべきことは決まりきっていた。
辛うじて堪えていた歯の先端は誰に止められるはずもなく、ついに刃は哀れな獲物の柔らかな臓腑を噛み千切らんとしている。
「3//// 3//// 7333qqqqq31 31 31111」
怪物は、笑っていたように思われる。
少なくともキンシの右目に移るそこには、怪物の左目が喜びに満ち溢れているように見えていた。
「3..... hukii?」
当人同士にしてみれば、今この瞬間において世界の何事よりも優先すべき事柄だったことには間違いない。
一方が喜びに満ち溢れ。
もう片方はというと。
たとえそれがほんの僅かな、米粒半分程度の隙間、認識のずれと油断でしかなかったのだろう。
しかし当人がどれだけ感情を抱き、後悔をしたところで。
「11111 11111 111111111」
最終的には一応魔法少女の生命活動は継続され、そのかわりに怪物は悲鳴をあげながら体の表面を電撃によって焼かれていたのであった。
「あ……? うわっ!」
ちょうど伸ばしていた愚かなる左腕を引っ掴む。
次に瞬きをしている頃には、キンシの体はトゥーイの腕力によって博物館の床の上を滑っている。
「うわーっ? ぐえ!」
市場に出品される冷凍マグロよろしくキンシは床の上を滑り、脳天はたまたま近くにあった壁に大激突を起こしていた。
「キンシちゃん、大丈夫?」
緊迫の期間ははたしてどれだけの長さがあったのだろうか。
少なくとも少女のもとに駆け寄るメイにしてみれば、なにが何だか訳が分からぬうちに一つの事が終わりを迎えていた。
疎外感以上に、メイはまず最初にキンシの安否を確認している。
「あらあら……、これはコブまちがいなしね」
黒い毛髪がみっちりと皮膚を覆い尽くしている。
メイはもふもふと柔らかな癖のある黒い渦の中に指をうずめる。
隠された皮膚の内側に、血液が鈍い熱をもって膨れ上がっているのを指先に確認していた。
「正直お腹を噛み千切られる方が……」
頭蓋骨全体を振動させる痛みの中。
キンシは体を起こしながら痛覚以上に自らが起こした行動についての理由を、今更ながらに考えようとして。
「いえ、それは違いますよね」
だが今はそれ所でないと。
キンシは起こした体の向く方向、視線の先に繰り広げられている光景。
「排除します」
トゥーイが長い裾の下に伸びる足を、怪物めがけて高々と振り上げている。
ゴム素材で作られた頑丈な滑り止めが鉄槌の如き激しさで、怪物の脳天と思わしき肉の一部へと一直線に落とされている。
「gyugigigi!」
つい先程までは獲物への甘い渇望に満たされ、願いが叶わんとしていたはずの前歯。
少女の肉をその身に喰らい、白い表面を赤々と粗面としていた前歯は、結局は何ものも得られることは無く。
青年のかかとから、圧迫される柔らかな頭部まるごと歯茎は潰され。
そこに生えている歯も、ガラス細工のように易々と粉々に砕かれる。
破片は怪物の口内に飛沫し、奥歯が他でもない己の捕食器官をゴリゴリと虚しくコーヒー豆のようにひき潰していたのであった。




