呪文は考えないでおこう
それはあまり長さがあるわけではなく、せいぜいキンシの身長よりかは僅かに長めというぐらいか。
縦に真っ直ぐと伸びて、衝撃に合わせて柔軟さを発揮する柄。
木製の気配と艶やかさを感じさせる、その先端には金属で構成された鋭い穂先が輝いていた。
刃と思わしきそこは♦(ダイヤ)のようにも、縦方向にしたひし形のようにも見えて。しかし、それらの解りやすい記号とはどこか異なる、違和感を感じさせる形状となっている。
触れるものを全て切り刻まんと、不思議な形の穂先は薄く鋭く。
表面に刻印された文様の数々、溝の全ては今すぐにでも獲物の体液に満たされたいといった欲求が満ち満ちているようであった。
「……っ!」
キンシが短く、しかし決定的とされる深度まで呼吸を行う。
全身に酸素という名を与えられているエネルギー、燃料が巡り。満たされたそれはエンジンの爆発のごとく、少女の肉体に行動のための力を増幅させた。
「hugiig!」
横に薙ぐ衝撃が怪物の横っ腹を襲う。
そのままの方向に体が圧迫され、怪物の肉は博物館の床へ。保護用の魔術式にみっちりと守られた、薄くて硬い膜の上へと打ちのめされていた。
衝撃の中で脳の理解を追いつかせることが出来ず。
怪物のほの白い、不純物を大量に含んだ雪のような色の眼球は、その表面に少女の姿を。
武器をしっかりと握りしめて、柄の部分をそのまま横一文字に振り回したことによって敵の攻撃を打ち払った。
「ふふ」
少女が武器を構え直し、ただ一つの目的のためにその奇妙な道具を構え直している。
「うふふふ」
鋭くとがる刃を下に、まるでこれから畑の土に鍬を刺し入れるかのような。
そんな構えをしている、少女のほのかに赤みが強い唇は笑顔と思わしき感情を浮かべていた。
「うふふふ、あはははは」
それは決してわかりやすいものではない。呵々大笑をするでもなく、少女はかくれんぼでうっかり居場所を知られてはならないといった感じに。
密やかに、どこか恥じ入るように。こっそりと、しかし同時に確かな感情の形を皮膚の上に出現させている。
呼吸音が二つ、二つの生命体のあいだに繰り広げられ、その空間には一切の言葉も介入されない。
もしもこの場に無関係な、片手にスマホのカメラを構える傍観者が遭遇したとして。
しかし、そのレベルの感覚においても、その場所に走る緊張感の前では言葉も、行動も、全ては無意味なものであると即座に理解できたであろう。
それは当然ながらこの場にいる人間、魔法使いだとか魔女だとか、あるいはそれ以外の何かしら。
何者であろうとも、いまこの瞬間に走る緊張感を自覚し。眼球で得られる視界の許す限り、少女の怪物の動向を見守るよりは他は無かった。
静の状態。さながら大波が襲来する寸前の波打ち際のように、静かさが一秒、二秒。
静止という、生き物の本来の在り方に反する負荷。
やがて呼吸も忘れ、ついには心臓の赤い肉まで鼓動すること放棄するのではないか。
その域に達しようとする。
だが極限にいたるよりも先に行動を起こしたのは、長い耳と前歯を持つ怪物の方であった。
「hu,hu....huugaagag!」
怪物が脚部に秘められた跳躍力を現実において発揮する。
呼吸は激しく、しかし雑念にまみれているという訳でもない。
ある意味においては静の形質でい続けることを拒んだ。動かないというある種の拷問じみた行為に耐えきれなくなったかのようにも見える。
またある意味においては、ただ単に己の欲求に耐えきれなくなったか。前歯に取り逃がした少女の肉、骨、皮を今すぐにでも、とにかく侵したい。
獣の衝動による、本能じみた欲求によるものだったのかもしれない。
いずれにせよ、空間において先に行動をしたのは怪物の方であること。
それだけは確実で疑いようのない現実であり、その中でキンシという名の少女は必然的に後手に回ることとなった。
「hugigiii1!」
怪物が地面を蹴りあげて、跳び上がった体はキンシの肉を目がけて再び前歯を剥き出しにしている。
静謐の幕はいとも容易く取り払われ、怪物とキンシの間に再び衝突音が鳴り響く。
怪物にしてみれば二度目のチャンスのつもりだったのだろうか。
だが、同じ手を二度も喰らえる程には相手は都合が良いはずもなく。
「でえやああ!」
発破のように激しく声を荒げながら、キンシは再び腕を、武器を大きく振り回している。
気合のつもりで発せられたことには変わりない叫び声は、しかしながらどこか怒気をはらんでいるようにも聞こえる。
同じ手を二度も使うな。
もっと別の手を、己の意識を揺さぶる攻撃をしろ。
言語の体すらなしていないそこに、キンシの怪物に対する欲求がもとより隠す気も無い程にさらけ出されている。
なんの工夫も脚色も為されていない。
誕生日プレゼントを期待する幼子のような純真さで、自らに戦闘行為を望んでいる。
願いに答えたかどうか、少女の若葉色に輝く瞳に晒される怪物が何を思ったのか。
それは怪物そのもの以外に誰も理解できるはずもなく、人間の目に見えるのは個体の選択の後に付属する行為のみであった。
「hyuuuuu....huuuuihiiiihhh1」
キンシの振り回した槍に体を打たれ。しかし怪物の肉は床へ再びの衝突をすることは無く、過去に起きた経験の上でその脚部は見事に受け身をとっている。
意識をするかしないか、たったそれだけの要素で得られる結果はコインの裏表と同等の変化をもたらす。
その瞬間においてのみ、再び最初の静止状態へと戻る。
だが今度は、キンシも怪物も動きを止めようとはしなかった。
「………!」
呼吸の音、微かな叫び声が二つ重なり合う。
キンシが武器を、刃を獲物めがけてひらめかせる。
しかし切っ先は怪物のプルプルとしたゼラチン質にかすりもせずに、空振りが何度も連続する。
空気が鋭く切り裂かれては、また新たな冷たさが空白を隙間なく埋めていく。
嵐のように荒れ狂う気体の音の合間に、怪物はその小規模な体が保有する機動力の全てを活用して、魔法少女の凶刃を回避し続けている。
その様子は、やり取りは一幕の舞にはとても及びそうにない。
互いがそれぞれに身を乗り出しては引いている。あえて例えるとすればそれは、ツルツルと滑る床の上で転倒しないように堪えているようにしか見えなかった。
「……っ!」
だがそれらは戦闘、命の生存をかけている行為であることには変わりない。
キンシはどうにか必要最低限の呼吸行為、生命活動を継続しようとしながら、決定的な一手をうかがい続けている。
しかし技量及び集中力以前、それ以上の問題として怪物の方が体力的に優れていた。
「う……」
キンシがほんの少し、米粒一つ分においてうっかり脱力を起こしてしまった。
処女に生まれた油断はすぐさま解答を露わにし、怪物は獣のとしての俊敏さをそこで最大限に活用しようとする。
「う……わ……っ!」
次に集中をもとの形に戻した頃には、すでに手遅れとなっている。
キンシの目の前に怪物の顔面が、開かれた口の間に伸びる前歯が接近する。
ついに一つの願いが、戦いの果てに待つ結果として一人の人間の肉体を犠牲にして成就せんとしている。
キンシの体のどこか、おそらくは頭部のあたりに衝撃が走る。
それはさながら氷水のように冷たく、どこか爽やかな気配さえあったように思われる。
怪物の歯が自分の皮膚に触れて、内包する血管が侵害によって破壊されている。
捕食行為は破られた管の中から血液が溢れだすことを許さず、血の流れよりも先に歯茎は骨を抱いて中身に触れようと試みている。
だが、キンシの方もこのまま黙って大人しく捕食されることを認めるはずもなかった。
「うう、……ぎいいっ!」
呼吸をより一層振り絞る。
閉じる余裕すらもないままに、開かれた唇の間から叫び声とも呼べそうにない潰れた音が漏れ出す。
何よりもまず最初に、自らの頭部と怪物の歯茎を出来るだけ遠くに乖離させなくてはならない。
キンシは思考する以前の感覚、基本的な生存本能に準ずる行為を。つまりはデコと歯のキッスを引っぺがすために、体の向きを後ろの方へと反らしている。
仰向けに倒れ込むとほとんど変わりのない。
重力が体中を支配している、背中に床が迫ってくる気配とほぼ同時に、キンシの眼球は怪物の歯茎が虚空を噛みしめているのを見ていた。
怪物が目的のものを舌の上に味わせず、しかし眼球はすぐさま獲物の動向を捉え、次の展開に素早く備えようとしている。
キンシもまた、怪物が再び己の体に襲いかからんとしている事など、すでに何ものにも確かめる必要も無い程に解りきっている事であった。
このままではいけない。何といっても緊急回避の影響で、今のキンシは博物館の床の上に仰向けで寝転がっているのとさして変わりはない格好となっている。
まさかここで手鏡を見て確認できるわけがないにしても。それでも頭部の破壊は、最悪の被害は回避できたような気がすると。
キンシは自らの命が、生命に意識が付属していることに驚愕を抱く暇も与えられないまま。
遅れてやって来た痛覚の上、怪物の前歯によって切り裂かれた傷口の隙間から、ぬるりとした温度があふれている。
膨れ上がるそれが水滴を形成すると、思った瞬間には皮膚の上を流れ、本来の熱を空気の冷たさの中に溶かし込んでしまっている。
キンシが体を起こせば、水分もまた重力に従って落下をする。
まだまだ乾く気配すらも見せないそれが、空気の冷たさを孕みながらまぶたの上、まつ毛の先端、結膜を侵害しようとしている。
どうやら怪物の歯がキンシの額、左側にあるどこかを切り裂いていたらしい。
最大の目的たる肉片を得られなかったとしても、しかし前歯には行動の結果がしっかりと付着しているのもまた否定しようのない事実。
キンシが見上げる先、そこで怪物はゼラチン質の肉体全部で空気を受け止めている。
その様子はさながら海中を漂う軟体生物のようであった。
柔らかな体は重さの気配を感じさせないまま、重力に逆らいながらクラゲの赤子のように緩やかな落下をしている。
「/// /// ///」
とてもゆったりと、だが確実に、怪物はキンシの体めがけて落ちてきている。
その前歯には赤色が、やはりまだ色の鮮やかさを失っていない、少女の新鮮な血液がほんの僅かに付着している。
怪物はゆっくりとした落下の中で、唇を閉じる。
秘められた口内において舌が蠢き、味覚の細やかな突起物がこの世界の人間の味を見つけ、舐め、何よりも得難い答えとして感覚に取り入れていた。
「 1 1 1 1 1 」
怪物が叫ぶ。
味を知ったものの前に、思考などはもはや重苦しい枷と鎖でしかなかった。
叫びが空気を振動させる、震えの中に怪物は自らに与えられた本能。
それを当たり前として、疑う余地など微塵も持たぬ一つの命令文。
それに従うまま怪物が動き。
少女はその激しさに圧倒されるまま、血を流して歯茎にそびえ立つ白い刃にその身を裂かれようとしていた。




