眼球で思い出を監視しよう
姓はデモンで名をアテコという。女魔術師は閑話休題と言った感じに、気を取り直してルーフの方に体の向きを戻した。
「と、自分語りをしている場合じゃないわね。聞かれたことにはちゃんと答えないと、えっと……?」
アテコは目線を斜め上のあたりに少しだけ滑らせた後、とくに困難を要することも無しに返答の内容を口にしている。
「あたしのグループの名前について、よね。あたしはペンギン、ペンギンのグループに属する春日よ」
自分の種類別についてこんなに丁寧に、真面目くさった態度で説明をするとは思ってもみなかったのだろう。
アテコはどこか気恥ずかしそうに、しかし少年の疑問に丁寧な受け答えをしている。
「えっとぉ、あたしの場合は親がそれぞれ違う種類の人たちでね。お母さんがペンギンでお父さんの方は木々子だったわね」
「ああ、えっと………そこまで詳しく教えてもらわなくても大丈夫っす」
木々子とは体に植物の特徴を有している人間の種類の事である。
軽快かつスムーズに自らの個人的情報を掲示してくる。
ルーフは彼女の声をそれとなく受け止めながら、心の内で気付くことが更なる累積をしているのを感じる。
「でも………、そうなるといよいよあいつの、妹の事を思い出しそうになるな」
思わず口をついて出た反応に、アテコの方も連想を素早く結びつけている。
「と、いうことだと、妹さんもあたしと同じ家族構成ってことになると」
この時点においてのみ、アテコとルーフは頭の中にほぼ同様とされるイメージを浮かべている。
だが、そこに付属する感情はお互いに似ても似つかぬほどの差異が音もなく生じていた。
「うーん? でも、いまどき親がそれぞれ違う種類だっていうのも、たいして珍しくもなんともないと思うんだけれど?」
一体この少年は何をそんなに感慨深そうにしているのだろうか。
アテコが静かで平坦な違和感を胸の内に沈めている。
そのすぐ隣にて、ルーフの方はそのまま妹の事を、ここにはいない彼女の姿を胸の内に照らし出していた。
「あいつは、どちらかっていうと鳥じゃなくて、まるで本物の椿の花のようだったんだ………」
まるで独り言を呟くかのように。
ルーフの唇から閑散とした音色で発せられた言葉に対し、アテコが律儀にリアクションを。
遺伝子上の都合において、春日(鳥)と木々子(植物)が合わさった時は、その大体が春日の方が優性になること。
であるからして、アテコはルーフの妹のことについて一言二言、物珍しそうにコメントをしていた。
していたのだが、しかし、ルーフの側頭部両側に生えている聴覚器官はすでに彼女の言葉を受け付けていない。
彼の意識は現実からしばしの別れを告げて、泡沫のごとき不安定な暇の沼底へとズブりズブりと沈んでいってしまっている。
(メイ………)
瞬きのリズム、いたって生理的でしかない暗闇の連続体。
そのあいま合間にルーフは一人の女の事を。彼と言う少年、人間がこの世界に存在するにしたがって何よりも大事なひと。
この世界のありとあらゆるものを犠牲にしても、それがたとえ手前の命であろうとも関係なく。
全てを犠牲にしてでも構わない、彼と言う存在が確立するうえで最大限に優先される。
大切な人、彼にとっての最愛の女。
あの美しい彼女は今どうしているのだろうか、ルーフは枕元で常に考えていたことをこの場所で思い返している。
あの後から。ルーフという名の人間の人生が丸ごとすべて、まさしく正真正銘に変わり果ててしまった。
あの日々が幕を閉じた、灰笛の都市に珍しく晴れ間の輝きが人々の頬に温度を灯した。
黄金の林檎を拳で握りつぶして溢れ迸る果汁を、濃密な甘さのある飛沫を灰色の雨雲の上に振り撒いたかのような。
過去におきたおおよその事、色々なあれこれもひっくるめて未来に溶かしこんでしまえそうな。
そんな感じの予想を、期待の中で抱いてしまえそうな。
夜明けの中で妹は、メイはまるきり本物の幼子のように無防備な震えを口元に湛え。
魔術師達に救助との格好で連行されていく兄を、キュッときつく結んだ唇の中で見送っていた。
「どうしたのよぉ、そんな段ボール箱の中の子犬みたいな顔をしちゃって」
記憶に身体を捧げている内に、思考は顔面の筋肉にも影響を及ぼしてしまっていたらしい。
おそらくはかなり奇怪で珍奇な面を晒していたのだろう。
アテコがもともと大きめな目を、アイラインの本来の役割を逆利用してしまえるほどに存在感のある、視覚器官を真ん丸と見開いて少年の事を見下ろしている。
「いや、どちらかといえばエサ待ちの金魚? うん、そんなことはどうでもいいわね」
形容の言葉を見つけようとして。
しかしそのような与太話に労力を割いている場合ではないと、彼女は素早く手早く意識の方向性を正している。
「うん、そろそろお喋りはやめて、リハビリテーションの続きをしなきゃ」
アテコの、女魔術師のナチュラルなフレンドリーっぷりに、しらずしらずのうちに身をゆだねかけていた。
しかし彼女にしてみればこれもまた、対象物をより優良な状態で回復させるためのプログラムの内の一つでしかないのだろうか。
「その大事な女の子のためにも、ちゃんと頑張って体をなおしていかないとだわね」
大人は優しげに子供へ話しかけている。
何も知らないガキに、多少の手間暇を要してでも優しさを与えなくてはならない。
大人が大人たる存在であるために、こなさなくてはならない義務の数々のうちの一つ。
「そうですね」
女の香りと肉の形を思い出したが故に、少しばかりいきり立った感情が芽生えたのだろうか。
ルーフは従順な言葉の裏に鋭角のある反抗心をチラリと。
「俺も早く、一刻も早くあいつに会わないといけないからな………」
刃物先端が顔を覗かせたような気がするが、しかし煌めきはあっさりと意識の裏手へと引っ込んでいる。
「これからしばらくの間、俺が元の通りの生活に復帰できるその日まで、ご指導のほどお願いします」
今は反抗心を主張する時ではない。
とりあえず真意が何であれ、自分に有利な対応をしてくれる可能性が高い相手と良い関係性を築き上げることは、さほど悪いことでもないはずである。
「あと………、今更言うのもあれなんすけど、ありがとうございました」
相手の心が見えずとも、しかしてやるべきことの指針は道の先に点々と。
ルーフは心の中に水の気配を取り戻したついでに、様々な事柄の中ですっかり忘れ去っていた事の数々を思い出していた。
「俺の怪我を治してくれたことももちろん、ですけれど………」
だけど体は記憶に上手く追従してくれそうになく、彼は結局曖昧な沈黙の中にうなだれるだけであった。
「なんだ、なんなんだ………? 駄目だ、どうにも上手いこと言えそうにない………」
もともと他人と話をすることを得意と認識していた筈ではなかったし。
そうだとしたら、今しがたの談話的雰囲気は何だったのであろうかと。ルーフは自分の声、自らの肉体から生成されたはずの言葉の正体もよく解らなくなっている。
「うふふふ、あはは」
だからルーフは、アテコが特に前振りもなく微笑みをこぼし、やがてそれはそれなりに本格的な笑いの音色へと変わる。
変化のありかたを耳に受け止めながら、瞬間的にてっきり自身が嘲笑の的にでもなっているものだと。
思い込もうとして、彼はどこか意識の深いところで嘲りを望む。自嘲的で自虐的な、出来たての瘡蓋のようにヌラヌラとしている欲望を確かに自覚していた。
「ああ、面白い。カハヅ君、ううん……もうなんだかルーフ君って呼びたくなっちゃった」
しかし少年の湿り気が強く独りよがりな願望など知る由もなく。
アテコの方は至ってあっけらかんとした様子で、むしろ愉快でたまらないと言った様子でケタケタと呼吸をしている。
「んんと、せっかく真剣に考えてくれているんだから、笑っちゃうのも失礼だわね。んん、でもぉ、なんだか久しぶりだなぁ」
彼女にしてみれば今日一日、この短い期間において連続で珍しい現象についての情報を入手したということになる。
「あーあ、男の人にこんなド真ん中からお礼を言われたのって、すっごい久しぶりのことだわ……」
アテコはいかにも学者然と、魔術師らしく静かなる好奇心をアイラインの流れに薄くにじませながら。
しかしこれ以上業務に穴を開けられないと、出来るだけ素早く気分を切り替えようとしている。
「やっぱり若手との邂逅は、いろいろと驚かされることが多いわね。ねぇ? アゲハさん」
アテコはつやつやとあたたかな溜め息をこぼしながら、今までの様子をジッと見守っていたエミルに話しかけている。
「あたしはついつい、ピチピチぴっちだったティーンエイジャー時代を思い出しそうになったわよ」
女は彼らの心に差し込む陰りなどお構いなしに、実際自分には何の関係もない心情を寄せ付けない境界線の濃さが見て取れる。
「そうかいな、デモンさんが楽しそうでオレはなによりだ」
果たしてそこに籠められているのが少年に対しての憐みなのか、それとも女に対する不理解と不可解なのだろうか。
いずれにせよエミルのつゆ草に似ている瞳は、この場面における必要以上の関与を拒否しているようであった。
「さて、気分もアゲたところで、次のレッスンに進んでみるとしますか」
話の流れの中に在りながら、律儀に手の動きを止めてはいなかったルーフ。
それは一重に自らの言葉の空白を誤魔化すように、とりあえず目の前に設置された目標を黙々とこなしていた。
ルーフにしてみればただそれだけの事、苦し紛れの現実逃避でしかなかったのだが。
「うんうん、使い方も大体おぼえているわ。流石に若いと吸収力もハンパないわね」
アテコは対象の優良ぶりに素直な喜びを見せつつ、少し考えた後に今後の展開を彼に提案した。
「あとはパターンをこなすこと。スロープをのぼる時とか、電車に乗る時は駅員さんに手伝ってもらったり、困ることがあったら出来るだけすぐに誰かに助けを求めること」
基本動作のレクチャーを終えれば、あとは実際の環境で少しずつ道具と自らの体を慣らしていく。
「なんて言うか、結局普通の事だけなんすね」
暗い感情は胸の内だけの秘密のままに、ルーフは結局アバウトでしかない目標に拍子抜けをしている。
「そういうものだわね」
どうにも納得が出来なさそうな、あいまいな心情の少年にアテコはありのままの事柄を伝えている。
「慣れないことを新しく始める。そう言うことに戸惑って、失敗をする。後悔ばかり」
彼女の視線は彼を捉えておらず、この部屋のどこにも、誰にも向けられてはいないようであった。
「でも、後悔のない人生なんて退屈、つまらないわ」




