粒の下に秘密を隠そう
まずはともかく、実践を交えたレクチャーから始めるつもりらしい。
アテコという名の女の魔術師は、口頭での説明をしつつ。
所々直接手を貸す格好で、車椅子の上に移動をしていたルーフにその道具の使用方法の説明をこなしていっている。
「それで、どうなのよ」
タイヤはどこを掴んで回せば動くのか、ブレーキはどのように作動させるのか。
目で見て、手で触れることによって情報を知識として累積させている。
ルーフの頭は彼女からの問いかけに対し、回答を声へと変換させるのに少々の間を要していた。
「えっと………。どう、とは?」
理解力の有無は関係なしに、アテコからの問いかけはかなりアバウトでいまいち正体が掴めそうにない。
特に捻りもなく、ごく自然な疑問で椅子の上から自分を見上げている少年に、アテコはあっけらかんとした表情で言い方を軽く訂正する。
「どうもこうも、そのままの意味だわね。ちゃんと元気足りてる? どこか痛いところだとか、辛いところは無いとか、とか。自分で解る範囲で伝えられることがあるなら、今ここで、なんでも言ってごらんなさいよ」
内容としては、体に違和感があるならば随時報告せよ、ということになるのだろうか。
報告を要求されていながらも、しかしアテコの明朗な言葉遣いには命令文独特の重苦しさと息苦しさは感じされない。
まるで閑静な住宅街でたまたま遭遇した近所のご婦人に、世間話を持ちかけられたかのような。
その程度の感覚しか抱かせない。
それは一重に彼女の身ぶり素振りによって生み出された感覚であり、これがこの女魔術師の特技のうちの一つなのだろうかと。
「別に………何も無いですし、俺は普通に元気ですよ」
そんな事を考えながら、ルーフは彼女の話術に身を任せる形で返事を声に発していた。
「普通、ねぇ」
ぎこちない手つきで車椅子を試運転している少年の、素っ気ない返事にアテコは困惑の表情を顔に浮かばせている。
「ちょっと情報が曖昧すぎるわね。ほら、あたしの普通と君の普通はだいぶ違うじゃない」
だったら何と答えればよいものか。
ルーフにしてみれば今までの自分も、そしてこれからの自分も。
この命が、意識が継続する限りは自分と言う、この世界に二つとない定規でみみっちく計るよりは他は無いのだ。
ルーフはまだまだ慣れない移動用補助道具が、自分が想起していた以上に重さがあることに煩わしさを覚えつつ。
アテコと、少し離れた場所からエミルが見守っている。
二組の大人の視線が集まる中で、額の生え際にぬるい汗を薄くにじませている。
「俺はいつだって、どんな時だって自分が普通以外の何者でもないって。そう………───」
ルーフは体を斜め前に屈折させながらタイヤの取っ手を目で確認する。
そうすることによって男と女の視線から逃れたかったのだと、彼は行動の後で独り自覚を脳内に芽吹かせている。
自分の方を見ようともしない、言葉尻を中途半端に濁らせている少年。
彼のクルクルとした癖毛が渦巻く頭部を見下ろしながら、アテコは相手の様子などお構いなしに自らの語りをそのまま続行しようとする。
「普通だとかそうじゃないって話なら、君に関することはかなり普通じゃない。イレギュラー中のトップレベルを狙えるぐらい。もう、すごく大変だったわよ」
お互いの関係正常、持ちだせらえる話題はかなり数が限られてくる。
そんな状態においても、アテコは監視対象との対話を諦めるという選択をしようとはしなかった。
「いやぁ、ほんとにねぇ……、患者さんにこんな話をするものじゃないんだけれど。うん、でもね、カハヅ君がこのお城に担ぎ込まれてきた時は、ほんとに驚いちゃったものよ」
彼女の語る所に寄れば、その話は今日より少し過去にさかのぼる
ちょっとばかし昔のお話、さして重要でもない物語。
今この時、この瞬間においてルーフと言う名前を持つ人間が、こうして生きて、意識を継続させている。
それらの現象についての理由、意味においてその日々は、もうすでに過去の事となっている記憶はかなりの重要性を有している。
少なくとも、無為で無作為な時間の水流、無感情で穏やかなせせらぎではとても打ち消すことはでないであろう。
それ程に、彼にとってその思い出は。
真綿で首を絞めるように優しげだった故郷を離れ、妹とただ二人で生まれて初めて異なる土地へ訪れた。
此処へ、灰笛という名を持つ都市へ足を踏み入れた。
その思い出は、もはやルーフという名の少年にとってかなりの質量をもって意味を為していた。
「なんといっても、肉体への損傷もさることながら、保有魔力はもう二度と回復が見込めないと。あたしはてっきり覚悟を決めそうになったものよ」
ルーフが車椅子に身を預けたまま、まだ鮮度を失ってはくれそうにない思い出を回想している。
その隣で、アテコの方も眼球の奥底に過去の記憶を覗き込もうとしていた。
「でも、君は治った。驚くべきことだったわ。だって、あんな深手を負ってからここまで完璧な回復を果たした事例なんて、たぶん……このお城にしてみれば前代未聞だったんじゃないかしら?」
ルーフが口を閉じたままになっているのにまかせながら。
アテコはどこか大仰な語り口で彼についての事を話している。
「肉体の回復力もさることながら、ズッタズタだった魔力の循環器もきっちり元通りにくっ付いたんだもの。あたしはてっきり、これがもしかしたら神の御業なのかしらって、思っちゃったり」
言葉の中で段々と気分が高揚してしまったらしい。
アテコは自らの台詞運びに対してほのかに赤面しつつ、ぼんやりと自分の事を見上げているルーフに対して気恥ずかしそうな笑みを見せている。
「うん、だからその……。要するにだわね、元気になってくれて良かったってことなのよ」
アテコはしっかりとした骨格の指で頬を包み隠す。
手の甲におそらくは春日(肉体に鳥類の特徴を有している人間の種類の事)特有の、柔らかそうな羽毛が肌を覆っているのが見えた。
「そう、っすか」
果たして言葉の意味が真実であるのか、そうでないのか。
しかし、真実がどの様であれ、さして意味は無いのではないかとルーフは考えている。
「そう言ってもらえると、こっちも少し浮き足立ちたくなる、ンですね」
いずれにせよ、自分の事をほかの誰かが考えているという感覚に、ルーフはまだ慣れそうになかった。
「ああ、でも………浮くような足もないか」
「こら、冗談でも面白くないわよ」
特に軽口を意識したわけでもないのだが、アテコは丁寧に少年の言葉を拾い上げようとしている。
濃いめの化粧がなされている唇は、自らの感情の流れにまた戸惑いを拭い切れていない。
その不安定さはおよそ大人らしさとはかけ離れている。むしろ、まるで少女のような雰囲気さえ感じさせる。
ルーフはそんな彼女を眺めつつ、もしかしたら自分が想像していた以上にこの魔術師は年齢を重ねていないのかもしれないと、ひとり想像を巡らせていた。
「なんだか………、あんたに心配されると俺の方も胸がドキドキしてきそうになるよ」
「ええ……。……ん、え?」
アテコが羽毛に包まれた手を頬から解放させて、ルーフの言葉の意味を捉えかねているようにポカンとしている。
「ええ……? ドキドキって、どういう?」
内にこもっていた熱が解放される、空気に新たな色がまぎれ、溶けて消えていく様子。
その中でルーフが何気なく呟いていた事に対し、彼女が不思議そうな、どこか戸惑っているような表情を浮かべている。
「ああ、いや………その、あんたを見ていると妹の事を考えてな………」
彼女の口ぶりに釣られてしまったのだろうか、ルーフは自らの感情がしばらくぶりに揺れ動いていることに我ながら驚きを隠せないでいる。
「ああ……うん、そうね。そういえば君には妹さんが一人いたのね」
アテコがまるで何か思考を切り替えるかのように、なにか余計なものを振り払うかのような素振りを作っていた。
「と、すると、その妹さんはもしかして、あたしと一緒の人ってことになるのかしら」
彼女はまたしてもアバウトな言い方を使っている。
しかし今度はルーフにもきちんと理解できるほどに、分かりやすく自らの左の手の甲を。
黒味が強くツヤツヤとした羽毛に包まれている、ちょうど少年の注目が集まっている部分を右の指でチョンチョンと指し示している。
「ああ、そうなんだ。妹もあんたと同じく春日で。あいつは確か………烏のグループに属していたんだっけな?」
ルーフが記憶を頼りに思い出そうとしていること。
春日と言うのは大まかな総称であり、その中にはさらにそれぞれどの種類の鳥類の特徴を宿しているかで、細やかなグループ分けがなされているのである。
「それで、あんたはどの鳥の仲間なんだ?」
なんやかんやで自然な話題の切っ掛けが見つけられたということで、ルーフは僅かながらに心に余裕を持たせた様子で女魔術師に話しかけようとする。
「やだぁ、ちょっと。そんなオッサンみたいな質問の仕方、しないでちょうだいよ」
しかし油断した途端に、ルーフは自らの言い方の不備に気付く。
ああいった質問の仕方、よく祖父が使っていた言葉遣いが時代遅れもいいところであると、早速ながら後悔に苛まれそうになっている。
「なんてね、冗談よ」
だが少年の無礼に関しては、アテコは特に気分を害する様子を見せてはいないようであった。
「もうね、大人になればいちいち細かいことを気にしていられないのよね。うん」
アテコはそう言いながらもう一度遠くを見る。
その様子はどこか寂しそうで、やはりどこか未熟な少女のにおいと気配から脱しきれていないようにも見えてくる。
「ああ、でもやっぱり」
メイクや髪のセットをキッチリと整え、人前に要る時は大人の姿を保ち続けられる。
それでも時々、ファンデーションの粒子の合間から覗く柔らかくて、無垢で無防備な幼さの柔肌。
「やっぱり、あんたってどこか妹に似ているよ」
果実の肉を歯で暴いてしまったかのような、秘匿を暴いてしまった罪悪感
ルーフはその瑞々しさ、目には見えずとも確かに肌で感じられる水の量に未知なる違和感をきたしかけていた。




