長い髪の毛を申告して信仰しよう
一応これが彼女との初対面ということになるのだろうか。
こんな恥ずかしい出会い方。
他方はいかにも普通そうにしていて、こちら側は意味もなく謎に床に這いつくばったままとなっている。
しかしルーフは体内に羞恥心を発生させるよりも先に、それよりも新たに出現した人物についての情報が頭の中で最優先に振り分けられていた。
「えっと………その」
じっと自分を見下ろしている、白衣の女は彼の祖父の名を言った後から言葉を続けようとはせず。
目を見張りたくなるような色彩が塗りこまれている唇は、いかにも意味ありげなような形のまま。
あるいは、相手側にしてみればなんの意味もないのだろうか。
とにかく、女はそのまましばしの沈黙の中でルーフをじっと観察している。
他人の視線。
まだ何も面識もない、完全なる初対面。
鮮度と鋭角が瑞々しい視線が自らの体を捉え、そしてどうやらこのまま逃してくれそうにないと。
さして時間を有することも無く、ルーフは自覚した後に対して迷う必要もないまま手早く勇気をひとつ絞り出すことにする。
「えっと、こんにちは。初めまして」
たとえどのような状況であっても、そして相手がどのような人物であるか。
なんであるか、どうであるかは関係なしに、とにかく友好的な関係を期待したいならば先手がある程度好ましい。
という考え方は、確か彼の祖父の言葉を参考にしたものであったような、なかったような。
「うん、はじめまして」
まるで相手側が何か一つでもアクションを起こせば、それに返信をすることが義務であるように。
女はそれまでの穏やかそうな沈黙をいとも簡単に開封しつつ。
ルーフの挨拶に対してのことだけ、送られてきた言葉に関してのみの返しを舌の上に乗せている。
「こんにちは、って言うよりかは、まだまだモーニングも終わってなさそうな時間だけれどね」
そんなことを言いながら、女はごく自然な挙動の中で視線をルーフから逸らし、つい先程まで彼も注目を捧げていた壁掛け時計の進み具合を軽く確認している。
そうやって視線を、顔を、体の向きを変えている。
そうすることによって、ルーフの眼球は女の外見上から得られる情報によりいっそうの深度を求めたがろうとする。
それまで収集された情報が背表紙を均一に整理される。
女は白衣を身にまとった成人の人間。髪の毛はミディアムロングを毛先で小粋にくるくるとカールさせている。
その曲線を描く毛髪の形状が人工のものなのか、あるいは天然に生じた結果であるのか、ルーフの審美眼ではそこまで子細な判別は出来そうにない。
全体のシルエット、大まかな色合いをまんべんなく眺めまわしてみて。
そこから柄らえる情報の幾つかを雑に総合するとすれば、この女は城に勤務する医師的な役割を担っているのだろう。
何といってもここはいわゆる病院的施設であり、そこに白衣をまとっている存在があるとすれば、そう連想させることも得に不自然は無いように思われる。
だが、ルーフの脳は手早く結論を結ぼうとしているのにもかかわらず、寸前のところで逆らいようのない否定がそこかしこで顔を覗かせているのもまた事実であった。
「どちらにせよ、昼だろうが朝だろうがこの町にはあまり関係のない話だと、あたしはいつもそう思うけれど」
医者のような素振りを作っている女は、しかし本来そう言った名称にて社会上に生きる職種の人々が持つ雰囲気ともまた異なり。
どこかしら一線を引くような立ち振る舞いが、無言の内に静かなる主張をしてきている。
「どっちにしろ、あたしの仕事はこのお城で毎日雑用をこなすことだから。なんだか段々と細かいことに気が向かなくなってきたっていうか、年をとるごとにいちいち気にしていられなくなってきたって感じ?」
挨拶をしたっきりで碌に口を開こうともしない少年に、女はちょっとした世間話をするついでに展開を能動的に進む手を選んできた。
「うん、そうね。今日はあなたの事を知ろうと思ってきたけれど、やっぱり他人の事を知りたいなら、まずは自分から情報を掲示すべきだわね」
床に手をついたままで動きを止めてしまっている。
女はルーフと目線を合わせるように、膝を曲げて上半身ごと表情を彼の方に近付けてきた。
「どうも、はじめまして。あたしの名前はアテコ、デモン・アテコって言います」
アテコと自らを名乗る女は、特に言葉を濁らせる気配も見せないままにスムーズな自己紹介を進めていく。
「このお城……、つまりは魔術師協会灰笛支部に所属していて。そして今日からカハヅくん、君の治療と訓練を担当することになっているの」
アテコはルーフの事をあえてファミリーネームで呼びながら。
自身がこの場に、そしてルーフの目の前に現れた理由に関する事柄を簡単に伝えてくる。
「とはいうものの、君自身の経過としては至って普通。こういう言い方をするものでもないのかもしれないけど、ハッキリ言ってあたし達の関与が必要にないほどに健康体。正直あたし自身もこれから何を、どの様に進めていくべきか、まだ明瞭な形を想定できているとは言えそうにないのね」
膝を曲げたままの状態を保つのが辛くなってきたのか、アテコは深い呼吸の後に姿勢を元の形に戻している。
「だからその点においては君もあたしも、もちろんここに居るすべての人がまだ正解を導き出せていない。解答欄は空欄のまま、これから筆を走らせようとしている。ってことね」
なにやら彼女は詩的な表現をしている。
だが、つまりのところはまだ何も決まっていない。
己の体は予想がつかぬほどに不安定であり、いつ、何処で、どの様に爆発するかも判らない。
危険物と殆ど同様であると、ルーフは言葉を必要としないままに目の前の女魔術師の様子で解りきっていた事実を再確認していた。
「さあ、さあさあ! 自己紹介もこれくらいにしておいて、もっとお互いの事をよく知っておきたいところだけれど……。どうにもそういう訳にもいかなさそうだわね」
しばらく屈折させていた肉の筋を丁寧にときほぐすかのように、アテコは少しだけ大げさな息遣いで背中を軽く反らせている。
体の動きと連動させて、彼女が身に着けている白衣の裾がヒラヒラと、柔らかな影をリハビリ室の床に落としている。
「今回のクライアントさんが、さっさと事を始めやがれって顔で、さっきからずっとソワソワ、ソワソワ。まったく……ゆっくりお喋りさせてすらもらえないんだから」
柔らかくほぐした肉がアテコの肌に血色を巡らせ、熱の気配は厚めのファンデーションを通過して表面に発現している。
薄めのアイラインの下、目線が向けされている方向に釣られ、ルーフもおなじ場所に視線を変えてみる。
「おいおい、クライアントだなんてそんな。大層なもんでもあらへんって」
二人分の人間の注目が集められている。
そこにはルーフにとってはもうすでに聞き慣れた声で、エミルが少しだけ苦みを含ませた表情を口元に浮かべている。
「オレは単に彼の担当官みたいなもんで、そういう意味でいったら立場的には君と大した違いは無いんだって」
まるで言い訳のような言葉遣いをしている。
しかしエミルの様子は至って落ち着いているもので、リラックスが満ち溢れている素振りにルーフは彼の真意を上手く読み取れないでいる。
「でも、それってつまりはカハヅ君が無事に治療を終えるまでの間は、君があたしの直な上司になるってことでしょ?」
エミルの意見に反論をするかのような感覚で、アテコはどこか楽しげな雰囲気を匂わせながら彼に笑顔を向けている。
「それってなんだか……。うん、なんだかちょっとだけ不思議な気がする」
その笑顔の内容が、仮に人の表情を言葉で表すとして、かなり文法に相違が生まれてきている事を。
ルーフは男魔術師に軽口をはたいているアテコの表情を下から覗きつつ、それとない違和感を抱いていた。
「君があたしの上司として、一緒にお仕事をすることになるだなんて……。昔、まだ子供だった時には全然そんなこと考えられなかった」
相手によって表情を変える、表面上の装いを変えること。
これに関しては特になにを思うでもなく。ただこのアテコという名の魔術師は、意外にも分かりやすい性格をしていること。
そして彼女とエミルはかつて、過去に何かしらの関係性を結んでいたこと。
それは現在から、ルーフの知りえない時間の間に変化をすでに終えてしまっていること。
「もしも昔に戻れるなら、過去のあたしに教えてあげたいくらいだわ。それはもう、ものすんごい爆裂なスマイルで、自信満々に耳打ちしたいくらいよ」
終わってしまった関係。
彼と彼女はこれ以上の追及をすることも無く、今は自らの思い出に浸ることを必要とはせず、現在の時点における必要なことにだけ意識を捧げようとする。
「……と、昔のことなんてどうでもよくて。さて、メンバーがそろったところで早速、やるべきことを始めなくちゃだわね」
自らの肉体に内包する記憶に顔をそむけて、アテコはパンッと柏手をするように盛大に手の平を鳴らす。
「ほらアゲハさん、持ってきた備品をあたしにちょうだい」
彼女はどうやら仕事上の関係者の事をファミリーネームで呼ぶと言うこだわりがあるらしい。
エミルの事を意味する単語を呼びながら、彼女は彼の腕の中にあるそれを手渡すように催促している。
「はいよ、これで大丈夫だったかな?」
エミルはリハビリ室の外から持ち寄ってきたらしいそれを、アテコの方に差し出しながら彼女に確認をしている。
「うんうん、だいじょぶだいじょぶ」
たいして重さがあるわけでもなさそうな。
コンパクトに折りたたまれているそれが何であるか。
ルーフが判別を結び付けるよりも先に、アテコは手慣れた手つきでその道具を床の上に展開させている。
「カハヅ君の体はまだまだ小んまいからね、あんまり大きいタイプだと重すぎるかもしれないだわね」
金属の車輪を取り巻くゴムが床と擦れ合い鈍い音をたてる。
バフッと登場部分が薄い布を展開させると、内に籠められていた無機物のにおいが炸裂と共に空中にまぎれて消えていくような気がした。
「これからの人生、これに色々とお世話になることも多くなるかもしれないからね」
「これ」と彼女がそう指し示している。
道具の名前が車椅子であることを、ルーフはもうすでに充分すぎるほどに知っていた。
「まずは、移動の方法を身に着けてもらう。お話はそこからだわね」




