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アイラインと百合の眷属

 よもや忘れていたわけではあるまいと。


 血液を水で薄めたような色の繭、柔らかい糸の数々から透けて見える魔術師の陰に視線を送りながら。


 その挙動を見て、ルーフは胸の中に一抹の不安を抱かざるを得なかった。


「まさか今日一日………。いや、もしかしてしばらくはずっと、このままの状態でいろと………?」


 ルーフはわざとらしく、いかにも含みを持たせた言い回しにてエミルに確認をしようとする。


 何か、何でもいいから何かしらの挙動を作らなければ。

 そうでもしていなければ。


 少年は胸の内に沸いた不安に、ささいな心理的恐怖に立ち向かえるほどの要領さえ持ちあわせていなかった。


「ああ、あー……っと。すまんすまん、もうそろそろ大丈夫やからな」


 ルーフの不安を敏感に察知しただとか、その様な可能性は限りなくゼロに近しいと思われる。


 しかし発起からの過程がどのような形であれ、エミルがそこでようやく自らの魔術から少年を開放すると決定した。

 

 その結果が変わることは無く。

 ルーフの体は瞬きを三回ほど繰り返す暇もない内に、繭ごと床にそっと粗大ごみのように降ろされていた。


「さあ、もう出てきても大丈夫やで」


 エミルはまるで、ペット用キャリーケースの奥に隠れて出てこない何かに語りかけるように優しげな声色を使いつつ。


 城、という名の大規模な収容施設のいずこかの床の上に降ろしたまま、動きを見せようとしない少年に向けて指示を出している。


「あれ? どうした、出て()うへんのか?」


 エミルは少年に繭からの脱出を要求しているらしかった。


 だがルーフにしてみれば男魔術師からの要求は、ある意味においてホッジ予想を完璧に解き明かすのと同様の無理難題でもあった。


「出ていきたいのはやまやまなんスけど………。これを、一体どうすれば───?」


 羽化する前の幼虫の丸々と柔らかい肉を保護し、内層にて完全なる変態を起こすための外壁。


 本来ならば梢と葉身の間に収まりきるようなそれを、そのまま人間サイズにまで引き延ばしたかのような。


 人間の体を丸々一つ含んだ繭の中。

 内部にいる少年は脱出の方法が見つけられないままに、困惑を頭の中で巡らせているばかりであった。


「どうもこうも、難しいことは何もねえよ」


 床の上で赤色の帯がウゴウゴと蠢いているのを眺めながら。


 エミルは少年の困惑など大したことも無いと言った風に、平然とした様子で彼に繭からの脱出方法を教えてくる。


「爪と、指とか腕を使って破ればいいんだよ。ほら、ビリッとバリッと」


「ええ………?」


 そんな原始的な方法が通用するのだろうか。


 城と言う公的なグループに属する魔術師が作りだした魔力的物体が、たかが少年一人の腕力で敗れてしまうだなんて。


 そんな脆弱な強度の魔術を、よもや城の主の縁者であるこの男が作成しただとは、ルーフはどうにも想像を結び付けられないでいる。


「あ、あれえぇ………」


 だがイメージはあくまでも想像、実体のない仮定でしかなく。


 ルーフの想像は他でもない自身の行動。


 伸ばした指の先、手入れ不足で伸び晒した爪の先端から開かれていく外界の気配、光の眩しさの前に虚しく融解していった。


「ぶ、ぷ、………ッはあ」


 昨日、病室でエミルから仮の義足を手渡された時。


 しばらくは自らの肉体の空白を埋めてくれるであろう、その物品を保護していた包装紙。


 薄くて、人の手でいとも容易く破壊されてしまえる。


 ルーフはエミルの繭を破壊しながら。

 その破壊音を間近に感じ、なぜかほんの数時間前の場景を眼球の奥に再上映させていた。


「あー………、嗚呼」


 それこそまさしく、完全変態をする昆虫がついに羽化を果たしたかのように。


 ルーフはだらりと繭から体を捻りだし、柔らかな衝突音を立てて城の床の上に零れ落ちていた。


「調子はどうかな?」


 繭は内容物を喪失した端から、常温に晒されたストロベリーアイスのように固形を喪失し、やがては空気に溶けて消滅をしていく。


「どうって言われても………」


 手動で簡単に破壊できてしまった魔術の、残滓を鼻先に感じながら。

 ルーフは床の上に這いつくばったままの格好で、エミルからの問いかけに力なく答えている。


「ビリビリのばりばりで、元気いっぱい百発はつらつですよ、俺は………」


 しばらく重力から小指一本ほど隔離されていた。


 その状態から解放された途端に、失われていた重みがルーフの腹部から胸部にかけての辺りを緩やかに圧迫してきている。


「えっと、それで………ここは?」


 床の冷たさがぬるく熱を帯びる肌を心地よく冷ましてくる。


 温度差に魅惑をされないうちに、ルーフは腕を使ってのっそりと体を起こしている。


「ここは、どこなんだ」


「ここはな、あー……見ての通りの感じやな」


 エミルはあえて少年の疑問に曖昧な返事だけをしている。

 きっと口元にはいつもの作り笑顔が浮かんでいるのだろう。


 ルーフは男魔術師の表情を確認しようともせず。


 それよりも目の前に広がっている光景、解放された視覚をフルに活用して情報を収集、整理を実行している。


「ここは、いかにもリハビリのための空間って感じ、ですね」


 外界の薄暗さなど意に反さぬほどに、煌々と明度を保っている蛍光灯の下。


 若干眩しさを覚えるほどの空間の中には、座高の低い長椅子がいくつも並べて設置されている。


 広々と開放感のある室内は空調が行き届いている。


 湿気も熱さも、寒さも何も無い空気に包まれながら、ニスがよく聞いている床から何本も柵のようなものが二本寄りそうように立っていた。


「そいじゃあ、あの辺でちょっと待っとってな」


 さて現場にたどり着いたものの、この次には一体何をすれば良いものか。


 ぼんやりと考えている少年に確認もとらないままで、エミルは彼の体を抱え上げて近くにある椅子に座らせている。


「はーあ、やっぱり変に魔力使うよりも自分で運んだ方が早いな」


 エミルはそんなことを、魔術師のくせに元も子もないようなことを残して。


 そのままさっさとどこかしら、おそらくはルーフらが入室してきた所とは違う方向に歩き去って行った。


「………」


 結局は一人取り残された。


 そのまましばらくルーフは遠くに見える部屋の壁を、そこに掛けられている丸い壁時計に目線を向けている。


 少し席を外すということなのだから、時間にしてみればそう大して間が空いた訳ではないはず。


 事実、掛け時計の短針は時を刻もうともしていない。

 カップラーメンも完成していない、時刻はまだまだ瞬間の域を脱していないように思われる。


 だが、とルーフは長椅子の上に身を預けたまま。

 バランスを崩さないように意識を張ったまま視線は遠くの時計に固定を続けている。


 遠くに見える時計は、本当はルーフが見えていないだけでかなり時間が進んでいるのかもしれない。


 そうでなければ、どうすればこの待ち時間の長さを形容できようか。


「………?」


 ルーフは言いわけを探すつもりで、特に何かを意図するわけでもなく。

 瞼を細め、遠方に見える壁掛け時計に視界をさらに固定しようとする。


「………! うわッ?」


 ルーフは最初の瞬間、自分が体を預けている長椅子が何の前触れもなく推進力を得たものかと。


 いきなり視界が動いたと思ったら、遠くに望んでいたはずの時計の数字が目の前に広がっていたのである。


 ルーフは訳も解らず、経験したことのない感覚に翻弄されるまま、心臓が爆発的激しさで震え上がっている。


「いッ………てえ」


 唐突な視覚の暴走に翻弄される。


 気がつけばルーフの体は長椅子から溢れだし、落石のごとき勢いで彼は床にしこたま体を打ち付けていた。


「ううう………、これは青アザ確定だ………」


 皮膚の下で鈍い痺れがゲル状の流れで組織を侵そうとしている。


 衝突によって発生した空白が意識の端から滑り落ちていく。


 痛みはすぐに脳内で調節され、痛覚の上に脳内麻薬が言い訳のように振り撒かれる。


 感覚が曖昧になっていく、視界は涙で秒針もまともに読めそうにないほどあやふやになってしまっている。


 だがむしろ視覚情報が強引にシャットアウトされたことによって、ルーフはより一層先ほどの現象について整理をつけられそうな気がしていた。


「今の………、なんかいきなり遠くが見えたのは、一体?」


 目を閉じれば眼球の表面に溜まっていた涙が一粒の塊を形成し、目頭から下まぶたの上をぬるりと這っていくのが伝わる。


 瞼の裏側に広がるのは見慣れた暗闇。


 ここでなら何も変化が訪れないことを期待しつつ、ルーフは自らの身に起きつつある変化に考えを巡らせようとする。


「何が、一体何が………俺の体に起きようとしているんだ───?」


 誰に届けるつもりもない問いかけ、それは独り言以上の価値を持つはずもなかった言葉。


「お答えしちゃいましょう。いまさら隠してもアレだから、この際はっきり言っちゃうわね」


 だがルーフの問いかけは虚空に至ることはなく。


 突然上から降ってきた聞いたことのない他人の声に、少年はうずくまっていた体を弾くように上へ向ける。


「カハヅ・ルーフくん、だっけ? あなたの体は先刻の魔力暴走事件の際に、その構造がかなり組み替えられたのよ」


 声の調子、音の高さと柔らかさからして、話しかけてきているのは大人の女らしい。


「構造が組み替えられたって………。あの怪獣みたいな状態になった時と、前で、俺の体が別の形になったってことなのか?」


 特に思考を廻す必要性もなく。

 ルーフは以前より思考の端に浮かんでいた疑問を、他人の意見に乗じる形で言葉にしていた。


「そうそう、その通り。理解が早いわね、助かるわ」


 瞬きを繰り返すごとに視界は透明度を、本来のあるべき形を即座に取り戻していく。


 ルーフに話しかけている女は、なぜか床の上に転げ落ちている彼の状態については特に追及をしようとはせず。


 裾の長い白衣に包まれたシルエットが、少年の姿を見下ろしたままの格好でテキパキと作業を続行しようとしている。


「流石は伝説の錬金術師、カハヅ氏の秘蔵っ子と言ったところかしらね。これはこの先の展開に期待が見込めそうで、あたしなんかはもう、ドキドキしちゃうわよ」


 女は口紅でしっかりコーティングされた口角を上に曲げる。


 白い顔の表面に笑顔がつくられると、アイラインの曲線も皮膚の動きと連動しているのが確かめられた。

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