イエーイ遺影
いなくなった。
と言うよりは、果たして本当に存在が現実の上にあり得たかどうか。
基本よりもさらにした、根本にいたるレベルの疑問について考えかけて。
しかしメイは今この時に、そのような哲学的思考に身を浸している場合ではないと、早々に諦めをつけている。
「疑問を抱いています、貴女は何を見て誰を探しているのでしょうか?」
何も無い道のうえに広がる空間を、意味もないままにじっと見つめている。
そのようにしか見えない、メイの様子に疑問を抱いたトゥーイが体を屈めて質問を重ねてくる。
「あー、えっと……うん、なんでもないのよ」
自分と、そこから発せられる視線の方向に広がっている光景を交互に観察している。
メイはそんなトゥーイに曖昧な返事をよこしつつ、頭の中はすでに次に考慮すべき事柄を思考していた。
「そんなことよりも。ねえ、ちょっとこっちむいて」
ちょうど良いタイミグにて、メイは自分の目線と近しい所にある青年の頭に触れようとする。
「………?」
そっと伸ばされてくる白い指。
トゥーイは特に拒否感を抱く様子もなく、されるがままに頭部をメイの好きに弄くらせている。
「うん、ううん? 雨にぬれてピッチョリ貼りついちゃっているわね」
何ものにも保護されることなく、その身はされるがままに雨ざらしとなっている。
メイはわずかに苦戦しつつも、微かに鋭く伸びた爪の先端を駆使して、青年の頭から付着物を剥がしとっていた。
「とれたとれた。えっと……、んん? なあに、これ」
水分にふやかされた角質が肉体から剥離するように。
メイは容易く外すことのできた異物を摘み上げ、その正体を今度は間近で再確認する。
「なにかの、プリント?」
それはA4サイズの用紙に見える。
割かし丈夫な素材で作られているのだろうか、大量の水を含んでいながらもその形状はあるべき姿をいまだに保ち続けている。
「だれが落としたかもわからない……。というか、これはほんとうに落し物とよべるのかしら?」
人差し指と親指の間で、キッチリとした直角の四隅が風雨を受けてペラリペラリとはためいている。
それは特に何の形容詞も浮かばないほどにただの紙であって、少なくともメイにしてみればなんの価値も見いだせそうにない。
ただの紙切れ、路傍に捨てられたアルミ缶程度の重要性しか持ちあわせていなかった。
「しょうがないわね、どこか適当なところ……、ごみばこにでも捨てておかないと」
端から次々と雫をこぼし、地面の上に細やかな水滴をいくつも発生させている。
メイは手早くそれを丸め、足早に最寄りのごみ捨て場を探そうとしている。
「待機してください」
だが、魔女のごくごく当たり前、さして特筆するようなことでもない行動を認可しない者が一人。
「待機することを望みます、それは廃棄による循環システムを必要としているとは考え難い」
丸めた紙を携えたままこの場を去ろうとしている。
トゥーイはメイの斜め後ろあたりに追従する格好で、上から腕を伸ばして彼女の手の中にある物を掴みとろうとしている。
「要望します、椿の魔女は思考結果と判断を考え直すことを推奨する」
「えっ、え? なに、なんなの」
のっそりと上から細い影が差し込んできたと思えば、トゥーイの指が筒状になっている紙に開かれた丸い空洞の隙間に滑り込もうとしている。
青年のいきなりな行動の理由に、メイは意味を考えるよりも先に困惑しきってしまっている。
「推奨する。推奨する。推奨する」
しかし幼い魔女の戸惑いなどお構いなしと、トゥーイはとにかく彼女の手の中から物品を回収することに頭が一杯になっているらしかった。
「わかった、わかったから! これが欲しいのね」
あまりの圧にメイは逃げるように足早になり、トゥーイの方もそれをさらに追いかけようとする。
酷くアンバランスで、ひきつけを起こしそうなほどに滑稽な二人三脚。
さして時間を要する必要もなく、メイの羞恥心の方が先に降参の白旗を上げていた。
「感謝します」
ダラリと弛緩するように開かれた指のあいだ。
何の感慨もなく開放された一枚の紙を、トゥーイはさも得難い宝物を取り戻したかのように。
しかし、初対面の相手が見ればそこにはやはり無しか感じ取れそうにない。
そんな表情を浮かべて、青年は丸められた紙を丁寧に伸ばし開いている。
「まったくもう……なんなのよ?」
メイはトゥーイの唐突過ぎる行動に、動悸を激しくするよりも先に文句を呈したくなっている。
彼がいきなり変な行動をすることは、大して珍しいことでもない。
この灰笛に魔法使いとして生活しているような相手が、まさか世に広く伝搬している常識の内に組みこまれるはずがないと。
ここ数日の間ですでに何度も、日々の暮らしの中でくどいほどに自覚されている。
そのはずで、だからメイはどうにかして平静を保とうと努めて心を穏やかにしようとしている。
「これは驚愕です」
スタスタと歩きながら、青年と幼女の体はすでに博物館の駐車場に差し掛かろうとしている。
平日の早朝ということで、さすがに駐車量は閑散と寂しいものとなっている。
雨水に染まりきって黒々としているアスファルトの上、白い枠線が並ぶ地面の上でトゥーイは感慨深そうに紙の表面を眺めまわしている。
「確信することを拒否している、これではあまりにもフィクションじみている茶番もいいところだ」
彼の首に巻かれている音声発声装置が、ブツブツ……とノイズ交じりでありながらも懸命に持ち主の意思を、感情を外部に発信しようと稼働をしている。
右の目は眼帯に塞がれている、右側に抱け許された視界の自由を最大限に利用して。
トゥーイはその桔梗のような鮮やかさのある虹彩をキラキラと輝かせて、紙の上に描かれているものを。
雨に濡れそぼつ表面に辛うじて残されているインクの残滓をゆっくりと、時間をかけて確かめようとしている。
その様子を怪訝に思いながらも、しかし心配をするほどではなさそうであると。
メイは頭の中で判断を終わらせ、直立不動となっている青年を置いたまま、さっさと仕事現場へと向かおうとしている。
取り残されたトゥーイ。
先を行く若者たちが、いよいよ現場の出入り口に足を進めようとしている。
そろそろ違和感に気付いた魔法使いの内の一人、キンシが後ろを振り返って青年の名前を呼ぼうとする。
その頃合いには、すでにトゥーイの体は目的地に向かって駆け出している。
手に持った紙、黒いインクの身で場面が描かれている。
それを再びクルリと筒状に丸め、迷いなく自らの上着の懐に仕舞い込んでいた。
「ほんと、素晴らしいよな。うん………すんばらしい」
ルーフは来客にそう話しかけている。
「えっと………、だから………その、ご心配には及びませんって、エミルさん」
しかし次の話題を思いつくことが出来ず、結局は気まずい沈黙がその場に満たされようとしている。
「するな、と言われてもな」
病床のルーフにエミルと呼ばれた男は、今日の面会の時点ですでに十回以上は目を逸らしている少年に向けて届かぬ微笑みを送っていた。
「今の君に関して何でもかんでも心配しなくてはならい、それがオレのお仕事だもんで」
大して誤魔化す素振りを見せようともせず、エミルはありのままの事実をそのまま対象の相手にあっけらかんと伝えている。
「健康な大人が子供に自分の仕事を否定されようとは、これ以上に悲しいことはあらへんって。まったくな」
そしてそのまま確認をとろうともしないままに、エミルはルーフのいるベッドの縁に腰をそっと落ち着かせている。
「何の用なんですか」
すっかり慣れきったスプリングの揺れ。
フワフワと上下に動く視界の中で、ルーフは動揺するのはみっともないと、出来るだけ無感情を装いながら男に質問をする。
「ああ、うん。食事中にお邪魔したのは、悪かったと思っているけどな」
しかしエミルの方は、少年の平静さ具合を苛立ち等のネガティブな感情として受け取ったらしく。
上半身をルーフの方へと曲げ、僅かに慌てた様子で話題を吹っ掛けようとしている。
「でもな、向こう側が話を進めるなら早いうちにしろって、やかましくて仕方なくてな」
気軽に仕事の愚痴をこぼすような素振りを作りつつ、エミルは手に持っていた資料をルーフの前に差し出した。
「………?」
エミルの骨ばった指の下、ペラリと垂れ下がっているプリントに目を向ける。
そこそこに品質の高い紙に、目に優しい色合いでカラーインクがプリントアウトされている。
柔らかなポップ体はそのデザインにおいて、閲覧者に顔の見えない優しさを一方的に誇示しようとしている。
そこには文字が書かれていて、何かしらの説明文であると。
それだけは理解できる。
「これは、………何すか?」
つまりは、それ以外の事柄は何一つとして、欠片もルーフの意識の内に組みこまれず。
文字も色も、全ては無意味な刺激以上の意味を有さなかった。
「城……、つまりは君が収容されている施設側から提案された、あー……今後についてのアドバイスみたいなものだな」
エミルの方も今更になってタイミングの不一致に気付いたのか、差し向けた資料をもう一度自分の体の方に落ち着かせている。
「これから色々と大変なこともあるんやし、まずは専門家からの助けに頼れって。つまりはそういうことなんだって」
「ふうん………」
要するに言うことを聞け、お前に自由など許されていない。
と、ルーフは簡易机の上に並べられた食器の上に端を伸ばし、それとない量に盛られた野菜の煮物を口の中に運ぶ。
「………」
あの間に食物が潰され、舌の表面におうとつとしている味来が感覚を脳に伝える。
口をピッチリと閉じたまま、頭蓋骨の内部に咀嚼音が低い唸りを反響させている。
病院食と聞けば、ルーフの中ではおよそこの世の食事文化とは一線を隔てる。
食べるという行為以外には何の配慮も為されていない、つまりはあまり美味しくは無いもののこと。
そう思い込んで、信じきっていた。
「………」
ほんの数日前までには少年にとっての本当であったはず。
だが彼の信じていた世界は、現実の前では何の意味も為さなかった。
「随分とまあ、美味そうに食べてるな」
黙り込んで、じっと咀嚼に集中しきっている。
エミルがどこか呆れているような表情を浮かべている。
それを横目に、ルーフは構うことなく口の中のものをゴクリと、充実感と共に飲み込んでいた。




