檻の外の灰色と花々
揺れが緩やかに収まるなか、微かに縦揺れをしているルーフの視界の中。
そこでエミルが困ったような笑顔を浮かべているのが見えた。
「なんすか、そんな形容しがたいツラで睨んできて」
決してその視線に鋭さが込められていたわけではないのだが。
それでもルーフは男の表情に含まれている真意を、なんとかして読み取ろうと必死になっていた。
「ああ、そうか。せっかく助けてもらっておいて、礼の一つも言わない方があれっすよね………」
思いつく限りの予想を頭の中に透過させて、あとに残った考えに命ぜられるまま。
ルーフは再び戻ってきたベッドの上で、体の上半分を男に向けて深く屈折させる。
「ありがとう………ございます」
ろくに櫛も通していない、寝癖そのままに四方八方へクルクルとうねりまわっている。
未開発の密林のごとき混迷を極めている。
エミルはそんな感じの少年の頭頂部を見下ろしながら、表情の上へさらに困惑の色を塗り重ねた。
「おいおいおい、いい若いもんがそんな……。あー……、湿気た態度を作るもんじゃないと思うぜ?」
少年の貧弱なる全身から悶々と漂う、鬱々とした雰囲気とは交わらないよう。
エミルは細心の注意を払いつつ、努めて明るい声音を崩さないよう意識を継続させようとしていた。
「まだまだ若い身空なんだから、もっと元気溌剌にしていこうぜ。な?」
あからさまに調子の良いことを口にしながら、エミルの腰部分がベッドの淵へ。
ルーフの体が落ち着いている場所とは反対側の、ごく狭い部分へと重さを伴いがなら沈み込んでいった。
「そんなこと………言われても」
人間二人分の重さが加わったことによって、ベッドの軋み具合はいよいよ利用者に一抹の不安を抱かせるほどの弛みを生じさせている。
体の下で懸命に堪えているバネの屈折、その幾つかを頭の中で思い浮かべながら。
ルーフは男のもっともらしい意見に対し、どう答えるべきか言葉に迷っていた。
「ずっと寝てばかりだった俺に、俺が………一体何を、どうしたら?」
「えー?」
頭を下げていた状態から、ルーフはさして姿勢を動かさないままにしている。
水不足で枯れかけの雑草のように首を垂れている、エミルは少年の方を見ながら右の指で頬を軽くこすった。
「あー……っと、まあ……確かに、病院にいる奴に元気出せ! っていうものアレか、アレだよな」
自身の言葉を緩やかに自己否定しつつ。
エミルは改めて少年が収容されている病室を、まるで何かを確認するかのようにじっくりと見渡した。
「オレもなあ、どうにも病院ってやつが苦手で……。なんつうか、そこに居るだけで自動的にどんどんと体ん中の「普通」が吸い尽くされていく。って、そんな感じがしいへんか?」
部屋の入居人とは目を合わせないままに、エミルは自身の内に組みこまれている持論をごく自然そうな素振りで言葉にしている。
「ずっとここに居続けていると、その内外の空気を忘れていって。いつの間にか自分の腹ン中にあるにおいが、気が付いたたら完全に此処の世界とまったく同じにおいに変わっているような」
はて、いきなりこの男は何を語り始めたものだろうかと。
ルーフは腹の中に滞っていた不快感をしばし忘れ、自分の向かい側に腰を落ち着かせているエミルの後姿を。
くすんだ金髪に包まれている、形の良さそうな後頭部をぼんやりと眺めた。
「いや、な? かく言うオレも昔、病院……とはちょっと違うかもしれんが、病床と似たような状態に陥ったことがあってな。あー……、だから」
ルーフに凝視をされている。
エミルの方は特に大して体の向きを変えることなく、始まりかけた語り口を雑に縮小させていった。
「うん、つまりだ……な。まだ本調子って訳にはいかへんけど、せめて気分くらいは明るくしておこうって。そう言うことをだな」
「自分の家なんですよね?」
言いたいことは何となく理解できた。
解ったうえで、そんなこと、余計なお世話であると。
ハッキリきっぱり、心に思ったままの事を、まさか声に出して言えるはずもなく。
しかし沈黙の中で籠城を決めこめるほどの気概を決めることもできず、せめて会話の端でも繋げなくてはと。
ルーフは振り向いたままの格好で、反対側に座る男へ何気ない質問を投げかけていた。
「自分の家、とは?」
ようやっと、相手側がまともな反応を見せてきた。
しかし、エミルは少年の言葉に咄嗟の回答をすることが出来ず、すっかり固定されきった笑顔の上に彼の言葉を反芻していた。
「ここはあんたの………、エミルさんの家で、ずっと暮らしてきた生まれ故郷なんだろ?」
ルーフはゆっくりと、出来るだけ舌を滞らせないようにゆっくりと言葉を選んでいる。
「ああ、まあ……それは間違いではないな」
エミルは口元に微笑みをたたえたままに、病室の患者と目線を交わそうとしている。
「その割には、なんつうか………その」
基本的なコミュニケーションのうちの一つ、しかしルーフは外からの来訪者から咄嗟に目を逸らさずにはいられないでいた。
「随分と、他人行儀な表現ばかりをするものだから」
「あー……、なるほどな」
ゆっくりとした、まどろこしさを匂わせるルーフの語り口。
それが全て言い終わるのを待たずとして、エミルは手前の方で勝手に予想の中で結論をつけていた。
「確かに自分とこの実家をこんなに貶すのも、逆に違和感がありすぎる。っていうか、怪しすぎて不気味って感じやな」
エミルがけたけたと笑っている。
「これは失敬、ちょっとばかし本音をこぼしすぎたな。いきなりオッサンがベラベラと悪口を言うもんだから、気色悪かったやろ?」
「別に………そういう訳じゃ」
そんなことを言いたかった訳ではない、などと心の底から否定することもできず。
ルーフは自身の心内を先んじて悟られてしまったかのような錯覚に、形容しがたい不快感を抱いている。
「けど許してくれや。これにも一応、オレとしては語るべき理由ってもんがあってやな」
しかし、エミルは少年に嫌悪を主張させる暇も与えようとず。
病室の壁に視線を固定したまま、口元に固定されていた笑みは解除への気配を漂わせている。
「此処は、この城はな、君の言う通りオレの実家でもあって。それと同時に、オレが日々労働力を捧げている職場でもあってやな」
エミルがルーフへと語る所によれば。
彼はどうやらこの城の、少年が収容されている建造物の副監督に相応する役割を担っているとのこと。
「副ってことは」
「二番目、一番手よりも一段落下の地位ってこと」
ルーフが脳内に一人の少女を。
鮮やかな金髪を後頭部でポニーテールにしている、どうにも油断ならぬ一人の女の姿を思い出している。
「現時点の総督はアゲハ・モア、つまりはオレの妹さんがその役割を務めている訳なんだが」
ルーフが思い浮かべたイメージはエミルにも共通していたらしく、彼は自身の身内について簡単な説明をしようとする。
「君が今こうして、城の収容施設に隔離されているのも、オレの妹さんの指令のうちの一つということになるんだわ」
ここにきてようやく現れた事情説明に、ルーフは果たしでどのようなリアクションをするものかと。
考えあぐねている少年を他所に、エミルはその身を軽々とベッドの上から乖離させていた。
「そういう訳だから。君が今こうして部屋の中で大人しく眠りを貪っているのも、一応こちら側の予定の一端ということになるな」
重さから解放された、反発を失った白い睡眠器具が形状記憶に則って元の姿へと戻ろうとしている。
反動がルーフの体を微かに浮かせる。
エミルが緩慢とした動作で部屋の中を移動している。
その音を背後に聞きながら、ルーフは何を言うでもなく体を元の位置へと戻そうとしていた。
「どのみち、その体だとまともに動くこともままならんやろうし。今はとにもかくにもだな……」
モゾモゾと体を毛布とベッドの隙間に沈めようとしている。
エミルはそんな少年の姿を見下ろして、言いかけた声を喉の奥に押し込んだ。
「って、あー……同じことを何度も言うもんでもないよな」
頬の上に指を伸ばしかけて、寸でのところでそれを思いとどまる。
「まるで飼育小屋に監理されているような気分で申し訳ないけれども。しばらく、しばらくの間はどうにか耐えてくれへんか」
他でもない、これはただの言い訳であると。
病室の中に居る二人の男が、それぞれの感情の中で同様の事柄を思い浮かべている。
「あー……、えっと?」
病床のルーフは特に何も反応を示そうとしない。
「あれ、どうした? 急に黙り込んで」」
布団の中ですっかりおとなしくしている少年に対し、エミルが逆に困惑した表情を浮かべて様子を窺ってきた。
「もしかして調子悪いんか、体のどっかが痛むとか?」
「いいえ、そういう訳じゃないっす」
ルーフはもうすでに他人と目を合わせようともしないまま、ただ自身の身を取り囲んでいる現状について思考を巡らせていた。
「何でもない………、大人しくしてろってんなら、いくらでも病人らしくしていますよ、俺は………」
「おお、いきなりしおらしくなったな」
突然に見える態度の変化を奇妙と思っているのだろうか。
ルーフはそう予想してみて、眼球の方向をさりげなくエミルの方へと戻してみる。
「……その体じゃあ、弱気になるのも仕方ないかもしれへんけどな」
だが少年の予想は若干外れて。
男の表情に浮かんでいるのは再びの笑顔。
だが今日一日の最初に遭遇した際のそれとは明らかに異なる、それは何かを表に出さないよう堪えている風にも見えた。
「本当に、よくもまあ、こんなすごい無茶をしたもんやって」
呆れているのだろうか、だが決してその言葉だけで収束できるほどの単純性は無いだろう。
今度はルーフの方が、余りにも安易にエミルの思考を予想できてしまっていた。
「オッサンは悲しいよ? 君みたいな将来有望なる若者が、今こうして病に臥せっていることに。とても悲しいと思っているさね」
分かりやすく涙ぐむと言った動作をするわけでもなく、声音はあくまでも田園のように平坦としている。
「そんな、大層な物でもないっすよ、エミルさん」
それなのに、なぜこういう時に限って、相手の心持ちを優しげに察せられてしまうものなのだろうか。
ルーフは心の底から不思議に思いながら、そのまま疑問を脳内の片隅へと押しやった。
「これは………、この右足に起きたことは、結局は全部俺の起こしたことが原因で。だから───」
「当然の報い、かな?」
ぬるい解り合いの中で、エミルがルーフの言葉を先取りしていた。
「その通り、そんな感じっすよ」
ルーフはそのまま窓の外を見ている。
そこにはいつもの、もうすでに見慣れた風景が。
雨に濡れる、灰笛の姿が当たり前の面を下げて広がっている。
「その通り、か」
自分の方を見ようともしない、少年の姿を見下ろしている。
エミルの視線は特に意図するわけでもなく、ごくごく自然な動作の中で。
しかしどうにも作為的に、少年の右足が在ったはずの虚ろへと注がれている。
「その通り、なのかな」
様々な名目、という名の言い訳。その中で保護観察、監視を行っている少年のすぐ近くにおいて。
エミルという名の魔術師は独り言を呟いていた。




