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王冠とサファイヤと黄色

 無駄で無作為な時間をうだうだと、うだるように過ごしているような。


 そんな錯覚が、時の経過とともにルーフの意識の中で否定的な強迫観念へと変化して、自らの心持ちを焼け付くかのように。


 ゆっくりと、静かに時間をかけて憔悴をしていく。


 このままでは体の傷が癒えるよりも早くに、別のところが。なにか、目には見ることは出来なくとも、人間として生きていくうえでとてつもなく、どうしようもないほどに重要度を占めている何か。


 ルーフは腹の底から何かむずむずと、足の多い節足動物が這いずる廻っているかのような痒みを覚え。

 やがて堪えきれなくなった体は、ベッドの上で言い訳じみた蠢きを反復させていた。


 せめて、この睡眠に適した布と綿の塊から体を動かせられたならば。


 ルーフは叶わぬ願いを頭の中で回転させた後、無意味な願望を頭の隅に追い込ませるという作業をもう一度繰り返す。


「………」


 上半身だけを起こした格好で、ルーフは陰る視線の先で自身の肉体の状態について黙考してみる。


 この病室で目が覚めた当初よりは。体中が痛み、呼吸も食事もままならなかった時よりは、幾らかだいぶマシになったはず。


 自分のもとに訪れた招かれざる客人に対して、人間らしい受け答えも出来ないほどに大量を大幅に損なっていた。


 その時と比べてみたとして、ルーフの肉体は彼自身でも微かに驚いてしまえるほどの回復力を発揮していた。


 依然として損傷の度合いが酷かった部分、右側の脚部を中心とした幾つかの傷跡はズキズキと痛みを帯び続けている。


 だが、それらの痛みもルーフにとってはもうすでに日常の一部として、むしろ体の一部として認識できるようになってしまっている。


 そう思えるほど、そんな事を考えられるほどに、彼は長い間ずっと痛みと格闘し続けており。

 戦いの果てに得られたのは、鈍く痺れるような空虚だけが渇いた実感を残していた。


「………はあ」


 時間の経過を計れないが故に、永劫の流れの一端を勘違いしてしまえそうだった。

 

 思わずこぼれ落ちる溜め息の、空気が体の中を行き来するのに任せて。

 ルーフはいま一度ベッドの上で呼吸を整え、体の向きを大きく変えることを試みる。


「よい………っせ」


 静の状態から動へと。


 意識するだけで忘れかけていた筋肉の稼働が次々と蘇り、皮膚の下の神経を微かな電流となって駆け巡っていく。 


 途端にそれまでなりを潜めていた痛みが、不意に用事を思い出したかのように肉と骨の隙間から主張を破裂させてくる。


 しかし構うものかと、ルーフはついでにその他の肉も引き千切れてくれないものかと。

 願いながら、特に問題が起きるまでもなくルーフは多少戸惑いながらも無事に体を縁へと運んでいた。


「………ってて、痛え」


 安静と言う単語が、一体どれだけの拘束力を自分に求めているのか。どれ程の不自由をこの身に強制し、約束を成しているのだろうか。


 ルーフの脳裏に意図の外側から困惑が顔を覗かせてきた。

 だが医療の知識などほとんど有していやしない彼は、自らの内に発生した不安を無理やり握り潰した。


 何を考えて、思って、不安を抱いたところで。それで誰が困るというのだろう。


 誰も困らない、ルーフは独りで一つの結論を作った。


 困ることなど何一つとしてない。仮になにか事象が起きるとしても、流れる血はルーフの傷口から生じるものだけである。


 だったら迷いなど不必要だ。

 ルーフは飴細工のように鋭い決意の中で、自分の体をベッドの上から移動させようとする。


 体の下で布が擦れ合う音がする、腕を使って左足をマットの外側へと運ぶ。


 太ももの下からブラリと垂れ下がるふくらはぎは、見ただけで別の新しい不安を呼び起こせそうなほどに細い。


 しばらく室内に詰め込まれていたため、皮膚の色は白々(しろじろ)と死んだ青魚の腹の膨らみを想起させてくる。


 ずっと眠りに身を浸し続けていたため、もともとの体力やら筋力やらもだいぶ欠落をしている。


 だがルーフは自らの肉体に訪れた変化に気付くはずもなく、その脳内はただ一つの目的だけに向けられている。


「車椅子………あの車椅子を使って………」


 ルーフの視線が向けられいる方向、そこには相変わらずの病室が広がっている。


 少年以外の人間はいない、個室と思わしき部屋の中。


 そこには彼の体を元の形へ戻すための機械が。


 例えば心臓の鼓動回数を計ったり、彼の体内へ必要な栄養を運ぶための液体が何本も伸びているチューブであったり。


 そういった機材が一所にまとめて設置されてある。

 それらから少し離れた所に、車椅子と思わしき道具は置かれていた。


 何の変哲もない、折り畳み式の座席の横に大きく細い二輪のタイヤがくっ付いている。


 車椅子は折りたたまれた状態で部屋の壁に立てかけられており、今は静物として風景の中に溶け込んでいる。


 何時からあれがこの部屋に置かれていたのか。

 一体いつの間に、誰があれをこの場所へと運んできたのだろうか。


 正体は分からない、分かった所で大して意味は無い。


 道具が目の前に転がっている。

 手を伸ばせば使えるところに置かれていて、使用しないという手は無いだろうと。


 ルーフはそれだけを考えていた。


 何か他に考えるべき事柄が、幾つか目の前に転がっていたはずだったが。

 しかし今の彼にはそれらを考慮する余裕もなく、その意識はただ一つの目的だけに捧げられようとしていた。


「あ………? うわ!」


 故に、やがて訪れる結果もまた、彼の脳内に組みこまれているパターンの内の一つでしかなかったのだろうか。


 そんなはずはない、あるはずがない。

 ルーフは骨を揺らす震動と、地面との激突によって全身の神経を貫く電撃に瞼を固くきつく閉じていた。


「ぐ………うぎぎ」


 床に転がっているルーフの体のすぐ近く、上の方から柔らかいものが滑り落ちてくる音がしてくる。


 腰の辺りに毛布がパサリ……と落ちてくる。


 床と頬を密着させているルーフは、体を動かせないまま隙間へ熱がこもるのをジッと感覚として受け取っている。


 ベッドから身を起こそうとして、失敗して病室の床の上に崩れ落ちた。


 まるで、フライパンから落下したハムステーキのような状態になっている。

 ルーフは閉じたまぶたの裏側で自身の姿を俯瞰(ふかん)していた。


 何故にこうなっているのか、ルーフは地面の冷たさを肌で実感しながら理由と原因について考えてみる。


 転ぶつもりはなかった。なんて言ってしまえば、転倒をあらかじめ予期した上で行動を起こすような人間が果たしてどれだけいるというのだ。


 だとしても、ルーフが他でもない自らの意志によって事故を起こした。

 自体はすでに起きてしまっていて、結果を変えることはもう二度と叶わない。


 転んで地面と衝突した後と、そうでない前とでは、ありとあらゆる意味でルーフにとって全く異なる世界となっている。


「おいおい、何してん?」


 変わった世界、いつもと異なる視界の中。

 

 ルーフの開かれた瞼の間から見えている、視界の外側から男の驚いているような声が降ってきた。


「布団の上から落ちたんかな」


 冷静かつ迅速に、床に転げ落ちている少年の状態を的確に推察している。


 足音がパタパタと、スリッパらしき軽い音色を連続させながらルーフの顔面が転がっている方へと接近してくる。


「あーあー、大丈夫かいな?」


「………」


 これが大丈夫そうに見えるとしたら、この男の目玉の機能は相当錆びついているに違いない。


 などと、そんな嫌味ったらしいことを言えるような蛮行に振り切ることもできず。


「………えっと、大丈夫っす」


 結局口をついて出てくるのは、その場しのぎにも満たせていない言い訳でしかなかった。


「大丈夫じゃないだろ……。ああほら、つかまりな」


 少年の苦しげな嘘を適当に受け流し、部屋に訪れた男は彼の崩れ落ちた体に手を差し伸べる。


「どうも………」


 成長しきったサイズの、長くて骨がゴツゴツと太そうな。

 程よく日焼けをしている指を掴み、ルーフの体は床の上からしばしの別れを告げる。


「ありがとう………。えっと?」


 この不自由な体を助け起こしてくれた、ルーフはぎこちない笑みを浮かべながら男の名前を。


 初対面ではない、記憶の中ではすでに既知の内に含まれている。

 しかしどうにも名前が、固有名詞が思い出せないでいる男についての情報を頭の中で検索しようとしている。


「エミルだよ、君の様子を見に来たんだ」


 しかしルーフが答えを得るよりも先に男は、エミルは相手に自分の名を再三において伝えていた。


「しかし、君は見に来るたびに何かしらの変化を起こしているな」


 転倒の状態から脱せられたとはいえ、ルーフは未だにその身を病室の床の上に預けたままになっている。


 エミルはそんな少年の姿を見て、口元に人の良さそうな笑みを浮かべていた。


「変化って………、俺は別に何も変わっていないと思うんすけど」


 自分を見ている男の表情の変化に目もくれず。

 当のルーフは自分の体を、何とかして目的の場所に運ぶことだけを考えていた。


「今だってこんな風に………、ちょっと部屋の中を動くことすらままならないんだかんな」


 まさか、以前のように普通に立ち上がって歩きまわれるだなんて。

 そんな楽観的なことは、ほとんど絶対的に不可能であると理解していても。


 しかし、こんなにも自分の体が不自由となっている事実が、今更となってルーフの意識に重さを伴って存在感を増していた。


「そりゃあ病み上がりでいきなり体の自由が効くはずもないしな」


 苦しそうに、ギリリギリリと歯ぎしりしながら床の上を芋虫よりも鈍行している。


 エミルはルーフの姿をしばらく眺めつつ、その体が進もうとしている方向を見やり。


「ああ、なるほどな……」


 言葉を介するまでもなく、ルーフが考えている事柄についておおよその事を察していた。


「落ち着き給えルーフ君よ。その段階に進むのには、君の状態ではまだ早すぎる」


 エミルは膝を屈折させたままの格好で、軽く溜め息を一つ吐く。


「ほら、いつまでも床の上じゃ風邪ひくで」


 そして吐息の中で膝を伸ばし、そのままの勢いでルーフの両肩に腕をそっと回した。


「な?」


 ルーフはまず最初に、後ろからやって来た異物に対して反応を示した後。


「何すんだ!」


 自身の体を軽々と持ち上げようとしている、男の行動に対して反発を込めた叫びを発していた。


「何もしないよ、どうもしないって」


 ルーフは腕の間でジタバタと暴れようとしている。


 エミルはそんな彼を静かに諌めながら、特に手間取る様子もないままにその体を再びベッドの上に戻していた。


「ほれ、病人は大人しく寝てな」


 体の重みでマットの下のスプリングがフワフワと軋んでいる。


 反動の上でルーフの赤みが強い毛髪が揺れている。

 その毛先の下、瞳は焦点も差だならぬままに陰りを帯び。


「………」


 腹の下では日に焼けていない拳が硬く、小さく握りしめられていた。

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