H A I F U E
足音。それなりに重々しく、しっかりとした造りの革靴の音がこちらへ。
走ってくるわけではなく、一定のリズムの内で規則正しく。常識的なスピードで、歩きながら近付いてきている。
メイはその音を耳で確認しながら、あえて聴覚以外の感覚にアクションを起こせないでいた。
理由はいくつか考えられるとして、その中でも言い訳じみていないものをピックアップするとして。
メイはトゥーイの動向が、自身以上の速度によって接近してきている異物に対して認知を働かせているであろう。彼の反応を先に確認したい、という理由が確かにあった。
「ずいぶんと熱心に見上げているね」
近付いてきたものが、低い声音で優しげに話しかけてきた。
それまで影絵を眺めていた彼女らが、男性の声がする方に視線を向ける。
まず最初に眼球で確認できたのは、彼女らと少しだけ離れた位置に佇んでいるトゥーイの姿。
何事もなさそうに、両側から二本生えそろっている足で体を支えている。
棒立ちの青年は、しかし耳と首の方向だけは近付いてきた他人の方へと固定させていた。
右側はお出かけ用の眼帯に塞がれていて、左側に抱け許された瞼の自由の隙間から眼球が球体をを覗かせている。
「そんなに、あの壁に書いてある絵が気に入ったんかね?」
複数の人間から、それぞれに込められている感情の色合いは異なれども、おおよそ同様にして一定の鋭さを込められた視線を向けられている。
青年期も中盤へと突入しようとしている、世の中の一定量の酸っぱさと甘さをある程度知っていそうな。
つまりは十分に大人としての条件を見対しているであろう、暗色のスーツに身を包んでいる。
男性は顔に穏やかそうな笑みを浮かべながら、やはり一定のスピードの中でトゥーイの近くを通り過ぎようとしている。
「あなたは……?」
青年が何の反応も示そうとしない。
ということはつまり、いきなり話しかけてきたこの人物に害意はとりあえずなさそうであると。
キンシは頭の中で判断を一つ結び付けつつ、段々と脳内で記憶のピースを集合させようとしていた。
「お久しぶり、って言えるほど間が開いたわけでもないか」
果たして先に気付いたのが彼女らのどちらかであったか。
どちらにせよ、驚きからこぼれ落ちた声音は周囲の喧騒に塗りつぶされ、誰のものかも判別できそうになかった。
「a-,a ああ、あ、あなたの名前は───」
驚いている彼女たちの前、トゥーイは動きを止めた男性の少しだけ後方に立ったまま。
無表情をスーツの男性の、くすんだ金髪の後頭部にジッと固定させながら。首元の発声装置からノイズまみれの音声を発信しようとしている。
「エミル。アゲハ・エミルがあなたの名前だ」
ケロケロとどことなく調子の外れている、しかし間違いなく人間の音声と思わしきそれが、男性の名前を空気中に震動させていた。
「でもやっぱし、こういった場面はこんな感じに挨拶するのがパターンってもんかね」
エミルは顔の上に笑顔を続行させたまま、しかし最初頃よりは感情の色合いを薄くさせつつ。
それでも丁寧さを出来るだけ損なわぬよう、細心の注意を払いながら魔法使いたちに軽く頭を下げた。
「どうも、先日はお世話になりました」
エミルの口から発せられる、過去におきた事象についてのあれこれ。
過ぎ去った時間の中に埋もれる、しかしてまだまだ記憶の内に新鮮さを失ってはいない。
「いえいえそんな」
キンシは思い出のにおいを、存在しているはずの無い感覚を喉の奥で味わいながら。魔術師の城に属する男性に、礼儀としての挨拶を返していた。
「先刻の荒事に関しては、僕らもエミルさんにお礼の気持ちをお伝えしなくてはならないと。そう思っていたところでしたよ」
灰笛の中心にそびえ立つ、城の形によく似ている建物。
大量の魔術師が、様々な目的を内にはらみながら行き来を繰り返す。
城にとてもよく似ている場所、しかしその実は異なる目的を有している。
そこに魔法少女の白々しい虚構が吸い込まれ、喧騒の中に紛れて溶けて消えていった。
少女が嘘をついている、空間は同様のものと呼べるとしても、世界は全て同じものと呼べるのだろうか。
疑問に答えるすべを、少なくとも今のルーフは持ち合わせていない。
灰笛という都市の中に存在をしている、城と人々に呼ばれている建造物。
ルーフの体は、意識と精神がつながっている状態において、彼の肉体は今のところその場所に落ち着いていた。
じっくりと時間をかけながら、体の傷を回復させる。そういった点において考えて見れば、自分は今この場所に入院をしている。と言うことになるのだろうか。
ルーフはそのような事を考えながら、すぐに頭の中で否定の言葉を発芽させていた。
ここがどのような場所であるか。
城と、その様な名称で呼ばれている、この建造物がはたしてどのような目的で、如何様な思惑の中で管理をなされているだとか。
考えてみて、仮に納得のいく回答をこの場で考え付いたところで。
彼がこの病室から移動をし得る手段の助けにはなりそうにない。
もしかしたら自分はこのまま、この病院まがいの施設に延々と閉じ込められたまま。顔も見えない相手に飼い慣らされるがまま、自由もなく家畜のように管理をされるままなのだろうか。
などと、ルーフの頭の中で考えが本日何度目かも判らぬ回転をさせていた。
「閉じ込められている」
頭のなかではどうしても拒否感を抱いてしまう。
だがルーフは自身に現実逃避を認可せず。
そうであればこそと、今の自分の周りを取り巻く環境についてのコメントを言葉にしていた。
「俺は今、城の中に閉じ込められている」
しかしこうして音声の上に事実を乗せてみると、むしろ逆に真実味に欠けているように聞こえてしまう。
城に閉じ込められいるとは、どういうことなのだろうか。
よもや眠りに落ちている間に、お伽噺や童話、その他ファンタジー作品に登場するヒロインみたいな状況に陥っていしまっている。
ルーフは自分がそのような状態に、まさか自分が落とし込められるものとは。少なくとも数週間前までは思ってもみなかった。
むしろ考えようともしなかったかもしれない。
仮に思考の内に浮かべたとしても、米を一噛みしている間に忘却の彼方へと捨て去っていたであろうと。
虚しい予想でありながら、固い確信めいたものを胸の内に灯らせられる程に。
それ程に、このルーフという名の少年はいたって普通の、この世界においておおよそ常識的と呼べるであろう日常を送っていた。
そのはずであって、数週間前までのルーフはずっと、てっきり自身の世界には何ら変化など訪れようとはせず。
苦しいことも辛いこともそれなりにありながら、楽しいことも幾つか確かにある。
そんな日々をずっと送り続けるものだと、そう信じきっていた。
「ここで、あの日までは───。だとか、ナレーションで言うところだよな………」
そんなテンプレートを金柑入りのど飴のように、コロコロと口の中で転がしている。
決まりきったお約束だと、解りきってはいる。
だが、しかし。
まさか自分のような凡人極まる堕落野郎がそのサンプルのうちの一つに組みこまれる日が訪れようとは。
全く考えなかったと言えば嘘にはなる。でも誰があのような形での実現を望もうか。
懐かしき故郷、埴生の宿の地下に広がる思い出。
記憶が瞼の裏から眼球の表面までフラッシュバックを起こしかけて、ルーフは慌ててベッドの上で激しく寝返りを打った。
思い出したくない、いずれは心のそこから真剣に向き合わなければならない日が訪れる。
理解をしてながらも、どうにも活力を見出せないでいる。
「嗚呼………あああ」
ルーフは数回ほどベッドの上で寝返りを。
もうだいぶ汗やらその他諸々の、人間の肉体から発せられる気配に染まりきっている。
白いシーツの上で、やはり本日何度目かも判別できない蠢きを繰り返す。
数秒ほど、正体もなく呻きながら死にかけの幼虫のようにのた打ち回り。
ついに彼は、何事かを堪えきれなくなったかのように、深々とした吐息の中で苦しげに身を起こしていた。
「駄目だ、駄目だ………! 独りで考えてばっかりいると、脳味噌が、あの………アレだ、アレになっちまうそうだ」
果たしてどうなるというのか、自分でも理解の追い付かない事柄を独りで呟いている。
ルーフは普通に身を起こそうとして、しかし上手く体が動かないことに気付くのが先。
その後すぐに、自分の体の状態を苦みの中で思い返していた。
「えーっと………」
しばらくの間思考を巡らせて、結局は腕の力に頼り切る格好で無理矢理身を起こしている。
「あー、早いとここの体にも慣れんといかんな………」
誰に向ける言葉でもなく、さっきから独り言ばかりを言っている自分に気付いているのか、いないのか。
ルーフの言葉が病室の空気を震わせ、壁に僅かな反響を重ね合せている。
部屋の中は静かだった。
少年の声音と呼吸音以外には、窓の外から微かに聞こえてくる雨音だけが、寂しい室内をシトシトと満たしている。
ベッドの上のルーフは、毛布の上から右足の欠落を僅かに撫でつけた後。
首だけを動かして、窓の外の風景に視線を向けてみた。
「今日も雨か」
灰笛に訪れてから、この感想を思い浮かべるのにも慣れきってしまった。
ルーフはそんな自分に得も言われぬ違和感を抱きながら、窓の外の雨を。今日はいつもよりも比較的雨足が緩やかで、どちらかと言えば霧雨に近いと思われる。
湿り気に染められた風景を。
緑色だとか、生き物を感じさせる色彩ははほとんど確認できそうにない。
灰色のコンクリートを主体とした光景を、ルーフという名の少年は特に何も思い浮かべるでもなく傍観している。
「暇だ」
どれ位そうしていただろうか。
この部屋には時計が、時間を図ることのできる道具が見たところ確認できそうにないため、ハッキリと詳しいことは分からない。
「暇だ、暇すぎる………!」
だが、数字で確認をする必要もないほどに、ルーフの体は焦がれるように次のアクションを望んでいた。




