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秒針の涙と詭弁

 人の体、人間の肉体を修復し、健康な状態へ戻すための場所。そういった目的のための装置、機械などを大量に保有している機関。


「君が思うところの、病院のイメージがそうであるとして。その点においてやっぱりここは、この場所は想像の内に収められるものなんだろうな」


 リンゴの果汁で潤った喉の奥から、エミルがゆっくりと考えを言葉にしている。


「でもなあ、あー……どうなんだろうな」


 だがエミルの語気はどうにも明確さに欠けており、湯飲みの中で冷め切ったでがらしのような中途半端な濁りをそこかしこに匂わせている。


「どうもこうも、ここは………あんたの仕事場で」


 何かしら隠したいことがあるのだろうと、ルーフは考えるまでもなく容易に想像を至らせている。


「そいでもって、自宅? でもあるんじゃないんか?」


 現時点で自分の側に保有している情報に基づいて、ルーフは相手に気付かれない程度の詮索をしてみた。


「うん? あー……まあ、それはそうなんだがな」


 しかしエミルの方は、少年から発せられる若干の鋭さがある視線をのらりくらりとかわし。

 逆に視線が自分の方に固定されているのを良しとするように、相手側の足元をぬるく満たすような言葉をかけてくる。


「君の言うとおり、ここはオレのホームグランドという事になる。他人の家で心ゆくまでくつろげだなんで、そんな無理難題を押し付ける気はさらさらねえけども」


 まるで来訪した客人をもてなすかのように。

 遠慮深く、慎み深い。招かれるべき存在を扱うが如き丁寧さ。


「まあ、ゆっくりしていけばいいと、オレは思うな」


 優しさは、この弱りきった体にしてみれば、今はありがたく受け取っておくに限ると。


 そうすることしか出来ないと、肉体はきちんと自覚をしている。

  

 だが頭はそれを良しとしていない。


「これは、これでいいのか?」


 脳の奥にある意識は納得をしようとしていないのも、また否定しようのない事実であった。


「これ、とは?」


 ルーフがうつむいたまま、白い毛布の上で指を握りしめている。


 エミルが少年の体の上で発生している小規模な渦巻きを見下ろしながら、温厚な態度を崩さないままに質問を反射してくる。


「俺はこれで、こんなので本当に良いのか。………こうしている事が、本当に大丈夫なのかって。聞いているんだよ」


 握りしめる拳の間、皮膚と皮膚の間に生まれる微かな溝に熱と、ぬるい水分のにおいがこもる。

 手の内側にある筋肉はブルブルと微かな振動をして、だが緊張感は長くは持続しなかった。


「俺なんかを、俺みたいなヤツをこんな、大事そうに閉じ込めておいて。俺にはもっと、他に行くべきところが。この身を置いておくにふさわしい場所が、あるんじゃないのか?」


 だらりと弛緩する指の間、滞る血液が微かな痺れの後であるべき方向へと解放されていく。


 手を握りしめる、爪で己の肉を裂くことすらできなくなっている。


 非力な体のなかで、せめて意識だけでもまともな形を取り繕っていたいと。


「俺には………、俺みたいな人殺しには、もっと………別の」


 それがどんなに無意味で、虚しい行為であると。そう理解していながらも、ルーフという名の少年が人間である限り、行いを否定することもまた困難を極める事である。


「なるほど、成るは程でほどほどですよ」


 余りにも非力な、悲しさは惨めさを感じさせるほどに、少年の唇はそれでも言葉を止めようとしていない。


 彼の言わんとしている、その先を耳にする前に。ハリの声がルーフの台詞の上に覆い被さってくる。


「王子、あなたの言いたいことは何となくご理解できます。全部丸ごと、頭からつま先まですっぽりつるりとまでは、いかなくとも。それとない理解を、ボクはあなたに主張することが可能です」


 かなり精神的に不安定な状態に陥りかけている、あるいはすでにトップリと身を浸しきっているであろう。


 ルーフがこれ以上何かしらを、行動を起こすよりも早くに。ハリはどこか慌てた様子で、つらつらと今後の計画を一方的に伝達しようとしている。


「ですが、今は体をゆっくりと、正常な形へと戻すことが先決に思われます」


 ハリはそう言いながら。皿の上に残されていた最後の林檎を摘み取り、赤色の果皮ごと渇きかけの果汁を噛み砕いた。


「どのみち、ですよ。その体では、まだまだ慣れないことも山のごとく、沢山あるでしょうに」


 もぐもぐと、思考が求めるままに食事を実行している。


 ハリの視線が、特に大した躊躇いも見せないままにルーフの体へ。


 ベッドの上、今は毛布の下に隠されている。

 だが、隠匿(いんとく)の必要性も感じられないほどに、余りにもわかりやすく。そこには空虚が広がっている。


「右足のことは……、本当に残念だったと思うよ」


 両の足で床を食みながら、エミルが静かな声音を発している。


「ああ………でもこれは」


 だがルーフはもうすでに、自分を見下ろしている他人と視線を交わせるほどの気力すらも残されていなかった。


「仕方がなかったんだ、当然の報いだったんだ………」


 目線は下を向いたまま、ルーフは重力にまかせて手の甲を、皮の下にある骨の重みを右足へ。

 

 右足と、そう呼ぶに値する器官がかつて存在していたであろう。今は、何も無い空白が言葉を必要としない現実のままに転がっている。


「それを決めるのは、まだ事が早いと思うけどな」


 エミルと思わしき、視界には越えの主たる姿を確認しておらず。

 だが、それでも耳はしっかりと音を拾い集め続けていた。




 一方その頃。場所はほとんど同時としていながらも、時間には多少のズレが生じていたであろう。


「このお茶、美味しいですね」


 キンシという名の、魔法少女は差し出された湯飲みに口をつけている。


 分厚い陶器製の円柱の内部に開かれた空洞。そこに満たされている熱い、黄緑色が透き通る飲料を舌の上へ、喉の奥へと流し込んでいる。


「んん……そうかね? 君が気に入ったのなら、それはなりよりだが」


 灰笛という名の魔境、そのど真ん中におっ立つ巨大な魔の砦。

 もとい、灰笛を管轄している魔術師の本拠地たる建造物。


 キンシ達魔法使いたちはその場所に呼ばれていて。

 彼女らを呼んだ側の、つまりは城で労働している魔術師という事になる。


「わたしは、余りこのお茶が好きになれなくてな」


 魔法少女の予想外な反応に魔術師は、モティマという名前の男性が形容しがたい、微妙な表情を浮かべている。


「そうですかねえ? こんなに美味しいのに」


 相手の微かな表情の動きなどお構いなしに、キンシは自らの肉体の渇きを癒すのに夢中になっている。


「ねえ? メイさん」


 隣にいるキンシに同意を求められた。

 メイははたしてどう答えたらよいものか、言葉を上手い具合に選ぶことが出来ないでいる。


「うん? ううん、んーと……」


 こちら側はあくまでも客人、招かれた側の立場でしかなく。この場において、立場の変化をそれ以上求めることは無いであろう。


 だが、それでもメイは少女の言葉に心のそこから同意しかねている。


 単純にだされた飲料が美味しくない、とても味を賞賛できそうなほどの価値を、風味や舌触りの中で感じ取れない。


 このお茶は安物もいいところで、キンシのようにまだ味の理解が浅い若者ならばともかく。


「わたしとしてはこんな物しか出せないのを、心苦しく感じているんだが……」


 モティマのような、もうすでにその指は器にすら触れていない。

 彼のような、ある程度の人生経験を踏まえた種類の人間は誤魔化しようもない。


 その程度のレベルしかない。


 物品に含まれた事情を、しかして魔法少女がくみ取れるはずもなかった。


「いやあ、いやはや。こんな美味しいものをタダで飲ませてくれるなんて、魔術師の方々って僕が思っている以上にさーびすに満ち満ちているんですねえ」


 聞き様によってはかなりエッジの効いた嫌味にも聞き取れそうな。


 キンシのもれなく心のこもった、故に皮肉にも心が感じられそうにない賞賛をこれ以上継続させるものかと。


 メイは慌てて話題の駒を一マス前まで戻そうと。


「それで、お話をすこし戻すとして……」


 思いがいたりかけた所で、メイは相手の動揺具合をすこし利用させてもらおうと考えをひらめかせる。


「ようするに、私たちはあなたの要求する依頼のをうけいれて、そのかわりにあの人の……。そちらがわが保護している少年の身柄のあんぜんをほしょうする……。ということになるのかしら?」


 隣でごくごくと嚥下(えんげ)の音色が軽やかに奏でられている。


 左側の聴覚器官に音を受け取りつつ、メイは唇を固く結びながらモティマに問い質すかのような視線を送っている。


「その言い方がまるきり全て事実に則している、とまで言い切ることをわたしに求めるのは無理な話ではあるが……。しかし、まあ……おおよそにおいて貴女の言う通りになるかね」


 相手の動作に付き合う程度に、しぶしぶ粗茶で唇を湿らせていた。


 モティマは肉の薄い口元をほとんど動かさないままに、しかして声音はどこか異様なほどにくっきりと空気を振動させている。


「なるほど、成れば程々」


 調子よく湯飲みの中身を半分以上空にしている。


 重さがある程度失われた容器を机の上にコトリと置いて、眼鏡の奥にある瞳を男性魔術師へと固定する。


「仕事の報酬は彼の、あのろくでなしクソ野郎さんの身の安全ですか」


 身内の限られた呼称を使用している。魔術師が言葉の正体に理解できないまま、魔法少女が勝手に納得を決めこんでいた。


「分かりました、僕たちは貴方の……。お城の魔術師さんの要求を、快く受け入れますよ」


 口元へ微かに、穏やかそうな笑みを浮かべている。


 モティマは少女の言うことをしっかりと聞き取りながら、小ぶりな眼の奥に静かに光を灯している。


「それはまた、ずいぶんハッキリと元気な返答だな」


 男性は若者と視線を合わせている。


 お互いに同じ空間に存在している、だが双方は決して心根を交わすことは無いだろうと。静かな確信が根底に満たされていた。


「もっとも、僕ら側としてはナナセさんからお話を聞いた当初より、依頼内容を嬉しく思っていた所存でありましたよ」


 どうせ嘘をついてみたところで、目の前の大人には大して意味は無いであろうと。

 そう理解していながら、しかしあえて格式の形を整えたくなる。


「灰笛都市内にある、とある建造物の調査とその旨の報告、でしたね。了解しました、承りましょう」


 己の内側に渦巻く美しさへの渇望のまま、胸の内に好奇心が涎をたらりたらりと零している。


 キンシは頭の中で存在しない水の音を聞きながら、口先だけは調子の良いことばかりを並べ立てていた。

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