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確認作業はリンゴでお願いします

 言っている意味が理解できなかった。


 今、数刻前。ハリは一体何を、自分に向けて伝えたのだろう?


「それは………どういう───」


 思考を届かせる前に、ルーフの唇が現実に対しての疑問を言葉にしようとしている。


「くえすちょんの前に、まずはこれをご賞味くださいな」


 それよりも早く、ハリが少年の唇に物体を。たった今表皮を剥いたばかりの果実、まだ鮮度がほとばしっている欠片を口元へと押し付けている。


「お見舞いにと、もってきた林檎です。美味しいですよ。美味しいですので、どうか食べてごらんなさい」


 薄く淡い黄色が蛍光灯の光をキラキラと反射し、果汁は瑞々しさの中で甘く爽やかな香りで鼻腔を誘惑してくる。


「赤色の林檎です。赤色だけで、青色は残念ながらご用意できなかったのですが。しかし、赤色でも十分美味しいと思うのです。あなたは、きっと赤色がお好きなのでしょう?」


 蜜の密度がみっしりとしていそうな、欠片はフォークによって支えられている。


 洒落た喫茶店の洋菓子の横に添えられているような、細く華奢な金属の先端。


 銀色の無機物に支えられて、かつて生きていたものの断片が重々しく。


「あの………、おい………?」


「食べないのですか? 食べてくださいよ」


 ハリはどうしてもその果実を、食物を少年の口内へと押し込みたいらしい。


「あなたは、赤色がお好きなのでしょう」


「いや………、好きっていうか」


 あと数ミリ程度、少しでも手が震えれば果肉の表面と唇が触れようとしている。


 その距離まで迫られている。

 だがルーフはそこで正直に、雛鳥のように喉の奥を開け放たれるほど、純粋な心持ちを許容できてはいなかった。


「今は………別にものを食いたい気分じゃねえんだけど」


 こんなにも、瞬きを殆どしないままに推奨してくる。


 圧の強さに否応でも不安を覚えてしまう。

 まさか毒でも混入していやしないか。


 林檎つながりで? まさか、なにも当人がいる目の前で盛るようなことが、果たしてあり得るのだろうか。


 それどころか、ここは見た所入院施設としての機能が備わっている様子が見て取れる。そのような場所で、わざわざ命に害を及ぼしたところで意味があるのだろうか。


 いや、むしろ病院だからこそ?


「食べないのですか?」


 ルーフが頭の中で独り、推理小説的想像力を働かせている。

 

 そのすぐそばで、ハリは依然としてフォークを。

 先端に突き刺さる林檎を手に持ったまま、じっと少年の表情を凝視している。


「本当に? 本当の本当に、あなたはこの林檎を食べたくないと、そう思ったのですか?」


「だから………、いらないって───」


 考えて見れば可能性はいくつも、梢の影を思考の水面に落とし込んでくる。


 黙考の途中でなおも語りかけてくる、ルーフが若干の煩わしさを覚えながら返事をしようと。


 したところで、ルーフはようやく場に差し込む違和感に気付いていた。


「これはこれは、中々になかなかですよ、エミューさん」


 右の指で林檎を持ったまま、ハリが隣にいるエミルへ。


 彼の、おそらくはあだ名のつもりなのだろう。砕けた様子で、口元に薄く笑みを浮かべて何かを確認しようとしている。


「カハヅ君、だったかな?」


 ハリの緑色の視線をじっと向けられたまま、エミルはルーフの方を。

 病床の少年に柔らかな視線を送りながら、穏やかな口ぶりで問いかけを繰り返している。


「話の前後が足りなくて、すまないが。これは割と本気の質問なんだよ」


 視線を少年に固定した、状態を保持しつつエミルの指がハリの方へ。

 指の中にあるフォークをそっと摘み取り、持ち上げた後に再び少年の口元へそれを運ぼうとする。


「君がこのリンゴを……、この世界の食べ物を受け付けるか、そうでないか。本来ならば君が意識を取り戻した瞬間に確認作業を行うべきだった」


 エミルは林檎を持ったまま、その物体を取り上げたハリに対し、言葉のみで非難がましい空気を送っている。


「いきなり他人からあれを食えだこれを食えだ、色々と言われて拒否感を覚えるのも仕方がないかもしれないが。だが、ここは一つこの場所のルールに、とりあえず従ってみてくれないかな」


 きっと毒なんかは一滴も含まれていない。林檎はあくまでも林檎らしい色をしている。


 それと同じく、ルーフを見下ろしている二人の男も人間以外の何ものでもない。


 しかし、とルーフは考え始めていた。

 自分の外側にいる存在と、自分の内層に広がるものがはたして、同様の意味を有しているのだろうか。


 疑っているのだと、ルーフは二人の男の視線を交互に見ながら、自分の置かれている位置を見定めようとする。


「分かったよ、食べればいいんだろ」


 物を食うだけで、一体何がどう判別できるようになるというのだろう。


「ええ、どうぞ、召し上がれ」


 ハリが顔面に笑顔を浮かべたまま、少しだけずれた眼鏡を人差し指と中指で押し上げている。


 左右対称にはめ込まれている楕円形のガラス板の奥、松葉色の瞳孔がじっとルーフの動向を観察している。


「いただきます………」


 ルーフはエミルの右手からフォークを受け取り、思いのほかズッシリとした重みのある先端を、静かな動作で唇へと運ぶ。


 歯と歯の密着を開放する。

 動作の間に生まれる数秒の空白の中で、ルーフは今後起きるかもしれない可能性について思考を巡らしてみた。


 もしも。今のところ匂いだけではいたって普通の果物で、しかし、もしも実際に舌で触れて、味蕾が反応した時。


 その時に、ルーフ自身にも予想していない反応が、何かの事象が起きた場合。

 どうなるのだろう。


 はたして一体何が起きようというのだ、ルーフにはまるで解らない。

 一切の予想もつかなかった。


 ただ、この先で自分が何かをして、それがこの野郎共の判断基準に引っかかった時。

 その時は、自身がいかなる事情を持ちあわせていたところで、相手には何の意味も為さない。


 それだけが、何ひとつとして確証の無いルーフの思考の中で、圧倒的で唯一の確信を有している。


「………」


 などと、色々と考えているさなかに、林檎はルーフの口の中でシャリシャリと咀嚼されていた。


「美味しいですか?」


 表情をほとんど変えることもなく、ハリが確認をしてくる。


「えーっと………」


 さてどう答えたものかと。

 何気なく選んだ言葉が、次の瞬間には自分の喉笛を引き裂く結果へと導きだされるかもしれない。


「まあ、フツーに美味いな………」


 割と危険な状況に置かれているはずなのだが、しかしルーフは自分でも意外に思うほどに、あっさりと答えを口に出していた


「それは良かった、良かったですね」


 それまでも笑顔を浮かべていたことには変わりないが、ハリは閉じていた唇の隙間から前歯をニッと覗かせていた。


「まだ沢山あるので、どんどん食べてくださいね」


 ハリは右手に持っている白い、清潔そうな皿をルーフの方へと差し出す。


 いつの間に用意していたのだろう、あるいは最初から準備していただけで、ルーフの視界がそれを確認していなかっただけなのだろうか。


 いずれにしても皿の上には沢山の林檎が、赤い表皮を兎の耳に見立ててカットされたものがたっぷりと乗せられている。


「オレも一ついただこうかな」


 エミルは気楽そうに、まるで今しがたの確認作業のあれこれなど認識していないかのように。

 何の迷いも違和感もない所作で、皿の上の欠片を一つ、前歯でシャリッと軽快に噛み砕いた。


「うん、結構美味いなコレ」


「そうなんですよ、ボクのおばあさんの実家の辺りの名産品でしてね」


 空気のメリハリがあまりにもはっきりとし過ぎている。


 ルーフはフォークの先端にあるものを全て喉の奥へと受け入れた後、腹の中に違和感が起きていないか。


 油断させたところで、いきなり眩暈や体の痺れが起きたり。突然の強烈な眠気に襲われたりしないか。

 

 想像力は領域を知らず、やがては被害妄想へ成長しかけた所で。

 考えただけではどうしようもないと、早めの抑制をかけた。


「それで………」


 ハリが皿の上の林檎を、三つ目にあたるそれを掴んで口に入れようとしている。


 ちょうどそのタイミングで、ルーフは意を決してベッドの外側にいる彼らに再び質問を試みた。


「俺は………、この場所でこれから、いったいどうなるんだ?」


 甘さはいとも簡単に体のなかから通り過ぎて、内部に込められている栄養素はあっさりと肉体の一部へと変換されつつある。


「この場所は、あの女は城だなんだと言っていたが………。でもどちらかというと、ここは………」


 咀嚼音がまだ部屋の中で継続している。


 ハリの口元から発せられている音。

 それを反響する天井と壁へ、ルーフは素早く視線を巡らせてみる。


 白色を基調としている、汚れがほとんど見受けられない。

 それはつまり、人が日常を過ごす上でほぼ必然的に発生する、生々しさを感じさせるにおいの気配だとか。


 そう言ったものがまるで感じられない。人のために設計された空間でありながら、この部屋の中には生活のための余裕が存在していなかった。


 ここは、ルーフは自分の記憶の内に含まれる情報の数々から、検索された答えを口に出してみる。


「病院、個室の入院部屋のように見えるんだが」


 ひとしきり、患者用ベッドの上から見える世界で確認できる。全ての情報を総合して導き出した答え。


「見えるも何も」


 やがて少年の、赤みが強い瞳の向ける先が自分の方へと戻ってくる。


 エミルは何事もなさそうに、今日の血液型占いの結果を教えるかのような気軽さで、少年の疑問を受け入れている。


「君の言うとおり、ここは病院としての機能を有している。その中でも特に、この部屋は最大レベルの機能が施された、特別な病室なんだよ」


 エミルは窓の方を見やる。


 施錠はなく、少なくとも内側からは、分厚いガラスを粉々に破壊しつくさない限り外部への接触は図れそうにない。


 窓の外を見ている、頑丈な造りでありながら、不思議と外部の音はよく聞こえてくる。


 ルーフは雨の音を耳に、エミルの背後に置かれている扉。

 

 今は隙間なくピッチリと閉ざされている。


 この病室において唯一と言ってもいい、外界への出入り口を、だれにも気づかれないよう。

 そっと、意識の底に沈む不安の中で確認していた。

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