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目覚めは何もないクソッタレ

 寝起きの、しかもとても安定を保持した体調ではないであろう。


 不健康そのものの他人の枕元で、このように非常識な大声を上げられるような。


 そのような異常なる人間の知り合いが、はたしてルーフにどれだけ存在していたであろうか。


 昔だったら、心霊番組と眼球の在りかたについて真剣に怯えることが出来ていた。

 あの時であったならば、そんな馬鹿みたいな人間の存在など、欠片も知る由もなかった。


 そのはずだった。


 だが、今は違う。

 現在のルーフは、この灰笛(はいふえ)という名の、世にも珍妙奇妙極まるおぞましい土地の空気を知ってしまった。


 今のルーフには、残念なことにあまりにも非常識な知人が、脳の許容範囲を遥かに超えたレベルまで増えすぎてしまっていた。


「あれ、あれあれあれれ? 起きないな、全然起きそうにないな。もう一回……」


 その中で、唐突なる騒音にヒリヒリと麻痺しているルーフの脳内に、いくつかの人物の映像が流れて。


 滑り落ちていく、その後に残された数少ない情報の数々。

 四人は三人に、やがて脳内にて実行される検索は、二つの結果に絞られようとしている。


「おはようございます! おはよー、おはよーございまーす!」


 残された選択。

 だがそれらに思考を働かせるまでもなく、答えはとうの昔にルーフの体のなかに生まれ出でていた。


「うるさい………」


 一つの選択を諦めて、別の道を選ぶ。

 瞼を開ける、あんなにも厚く重く熱を放っていたはずの肉と皮は、実際の行動の中においてはいともたやすく。


 簡単に眼球を空気に晒せられている。

 なんとも、あんなにもうだうだと悩んでいたのが、今更ながらに馬鹿らしくなってきた。


「あ、起きた。起きましたよ、やったー」


 開かれた目、覚醒はついに本当の形にまで成り果てる。

 それまで黒と鈍い赤に包まれていた世界は、途端に強烈な白色に支配された。


 光がいくつかある、その正体がいたって普通の蛍光灯であること。新品に取り換えたばかりなのか、いささか光度が強すぎる気もする。


「おはようございます。と言いましても、時刻はすでに(うま)の刻をひとまたぎしたところですけれども。いや、しかし」


 光による瞳孔の収縮が、明度の調整が一通り終了した。

 脈拍の微かな振動と共に、次第にクリアになっていく視界のなか。


 瞼と結膜に縁どられた隅々には、プツプツと黒カビのような暗黒がはびこり。

 おまけに全体的に紫がかったきらめきがキラキラと、羽虫のようにルーフの眼球を苛んでいる。


「王子、あなたにとっての世界が再び始まった、という点においては。やはり、おはようございます、と言った方が正しいのでしょうね」


 血液が圧倒的に不足している、夏の炎天下の下で水分不足を起こした時のような痛みが、体のあちこちで警鐘を発している。


「そうです、ええ、そうですとも」


 だが、たとえ体に錆びた釘が差し込まれていたとして。そうだとしても、ルーフはとにかく目を開けて、自分に向けて勝手に話しかけている男。


 奴の姿をこの目で、脳に他人の姿を確認しなくてはならない。

 たった一つの気力が、強迫観念となってルーフの体を現実へ引きずり出そうとしている。


「………お前は」


 声を発する。

 

 無意味に独り言をぶつくさと呟いていた。いや、もしかすると実際には、声と呼べるようなものなど一言も発してはいなかったのかもしれない。


 なんであれ、とにかくルーフという名の意識を再び取り戻した。その時間の上においては、それが初めての声。


「お前は………誰だ?」


 他人に向けて話しかけた、最初の会話であった。


「ん?」


 ルーフは体を少しだけ起こそうとして、しかしどうにも体を上手く動かせず、虚しく脱力させている。

 体の下でや若い反発が、嗅ぎ慣れぬ繊維の香りが鼻腔を刺激した。


 これは布と綿の感触、匂い。


 内部に潜むスプリングの反動がルーフの意識に、西洋式のベッドに横たわっている自身の姿を連想させた。


「どうしましたか王子様、なにか言いましたか?」


 ルーフの声に反応した、男の体がベッドの上に横たわる彼へと近付いてくる。


 靴の音、衝突音の少ない静かな音色の連続が数回。

 

 蛍光灯の光の下で、顔全体に影を作りながら男が少年の顔を覗き込んでくる。


 男の頭部は黒色に包まれている、滑らかでさらさらとしていそうな暗黒。


 最初は陰影による錯覚だと思い込んだが。

 しかし、次に瞬きをする時点ではすでに、それは単なる毛髪の色合いでしかないと思いが及んでいた。


 黒い髪の男、短く切られた毛先が人工の煌々とした光を透かしている。


 伸びかけの毛髪の幾つかが、頭頂部のうなじから春先の雑草のように伸びている。


 左右対称に生えている、和毛をたっぷりとたたえた聴覚器官が、ルーフの確信をさらに強く重苦しいものにしていた。


「───………」


 ルーフはもう一度口を開く。


 今度は問いかけなどではなく、自分をじっと見下ろしている他人の名前を、絶対に間違えないように呼ぼうとした。


 だが、発せられるべき音は何処にも存在せず。出てきたのはとても音声としての条件など満たしてはいない、ただの空気漏れのような雑音でしかなかった。


「えー、何ですか?」


 当然ながら男はルーフの言いたいことなど理解しようもなく、蛍光灯の明かりの下で少しだけ困惑したかのように笑みを浮かべている、


「ん、え? ああ、もしかしてボクのこと……。どうしてボクがここにいるってことを、お知りになりたいんですかね」


 死にかけの海獣のようになっている。

 少年の息切れをさえぎって、男は勝手に相手の求める話題を作り上げた。


「ええそうですよね、そうですとも。どうしてボクが、ハリという名の野郎がこんな所で、青少年の穏やかな寝顔を凝視していたのか。当然ながら、気にする所でしょうね」


 ハリと名乗る、彼は独りで話を進めようとしている。


 そんな男に対しルーフは何とか反論をしようと試みたが、やはり上手く声が出ない。


 喉がとてつもなく乾いていて、粘膜に蔓延(はびこ)る痛みはさながら季節外れの流行性感冒(りゅうこうせいかんぼう)に侵されたかのようであった。


「ですが、しかしてボクからあなたに語るべきことは、残念ながら特にないんですよね」


 覗き込んでいた体を起こし、ハリはルーフが横たえられたベッドからそっと体を離す。


「仕事で……今の上司のひとに君を監視……。じゃなくて、えっと……君が元気に目覚めたら、すぐに知らせろっていう命令でしてね」


 だらりと脱力した所作で、ハリは蛍光灯の明かりの下をゆっくりと移動する。

 

 ルーフはその様子をベッドの上から、どうにか首だけでも動かし。

 ゆるされる視界の範囲内に出来るだけ多く、長く留めていようとしていた。


「それで、病院の営業時間内は出来るだけ、例えば生理的な問題より以外において、ボクは王子を。あなたの寝顔を見続けていた、という事になるんです」


 ハリは室内を動く。

 ルーフが収容されている病室、そこに設置されているシンプルな椅子にそっと、音もなく腰を落ち着かせた。


「そういう訳ですから、あらためてボクはあなたにこの言葉を贈らせていただきましょう」


 椅子は若干脚のバランスが崩れているらしい。

 ハリは体を少しの間ガタガタと不安定にさせていながら、やがて足を使って無理やり体を固定させている。


「おはようございます、王子様。日はすっかり高く昇り、しかしてこの土地には青空は望めないでしょう」


 ハリはもはや命令は果たしたと言わんばかりに、リラックスした様子でいつの間にか用意していた一冊の書籍を。


 鮮やかなカラーのイラストがコピーされている、それが少女漫画とジャンル分けされる娯楽作品であると。


 ルーフがぼんやりと気付く、だがそれは決して己の疑問への解決に何の意味を為していないと。


「う、ううう………」


 ひとしきり勝手に話題を進められた。

 状況は、この現状に対する説明の一端ならば、確かにある程度知ることが出来たのであろうが。


 しかし、問題はそこではない。見当はずれも甚だしいところであった。


「俺が………、お前に聞きたいのは、そんなことじゃない………」


 鈍い痛みは呼吸すらも忘却の彼方へ捨て去ろうとしている。


 だが、ルーフはもう二度と、少なくとも今日という一日が終わりを迎える時までは。

 なにより、この眼鏡をかけたクソ野郎の前で、気絶するのはまっぴらごめんであった。


「んん……? それじゃあ一体、王子はボクになにをお聞きになりたいのでしょうか」


 どうやら続刊ものの第二巻らしい。

 きらびやかで夢見心地な「二」のデザインの、表紙を開いたままにハリがもう一度問いかけてくる。


「聞きたいことがあるなら、さっさとして下さい。答えられることなら、何でもこたえてみせましょう」


 つらつらと調子のよいことばかりを口にしている。


 その口調にどことなく既視感を抱きながら、ルーフは己の内側にこんこんと沸き立つ感情。

 それが怒りであり、苛立ちとも言えて。


 やがては憎悪へと収束する。

 岩石のような硬さを形成する、感情の激しさに身を任せて。ルーフはもう一度ベッドから体を起こすことを試みた。


「聞きたいことだあ………? ンなこと、埋め立て廃棄物よりも山の如し、だ………クソが………」


 まずは上半身だけでも。


 なにも難しいことなどありやしない。人生において、人間という生物としてこの世界に生まれ落ちた。

 経過した日々の中で、特に意識する必要性もないほどに繰り返してきた。


 当たり前の行為、だがどうしてもそれが出来ない。


 腕を動かせば肩関節に電撃が突き刺さり、腹部に力をこめた端から熱は地獄の業火と同等の意味を形成する。


「おはようございます………おはようございます………っ。こんなクソみたいな朝は、生まれて初めてだよコンチクショウ」


 血液の流れによって瞬いていた星々は、やがてその一粒一粒から濃い紫色の滲みを発声させている。

 

 血を含めた体液の不足は、少年の体からありとあらゆる活力を根こそぎ削り落としていた。

 

 つまりは要するに、とても体を起こす気になんてなれない。


 出来る事ならば世界のありとあらゆる事象を忘れて、もう一度眠りに落ちたかったし、肉体的にはそれが何よりの、最良かつ最善の選択であったのであろう。


「話をさせろ………」


 しかし、ルーフの頭の中でその選択がなされることは、この時間においてほぼ限りなくありえないことであった。


「はい?」


 ハリが、漫画から目を離さないままに返事を。

 しかし耳の形はしっかりと、病床の少年の方へと固定されていた。


「あの女と………お前の上司と話をさせろ………」


 ルーフは体が崩れ落ちないように、奥歯をひびが入りそうなほどに噛みしめながら。

 他人に声が届くうちに、望むべきことを己の肉声で伝えた。

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