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もういないのだ

「その必要性は、ないわ」


 右手を、まるで弱々しく挙手でもするかのように。


「それよりも、いまは話すべきことがあるのでしょう?」


 室内にいる人間の注目がひとりの幼女へ、メイの元へと集中する。


「はて、それはまた……意外だな」


 それまで悠々とした様子で、背もたれに体を預けていた。

 モティマはゆっくりと体を起こしつつ、腹の前で指を一本一本と開放していく。


「メイ……、君ならば、他でもない君なら誰よりも、彼の処遇について知りたいと。てっきりわたしはそう思い込んでいたものだが」


 男性魔術師は丸い耳を少しだけ震わせながら、その瞳には紛うことなき疑問が浮かんでいる。


 自分が想定していた事柄から少し外れた、予想外の動作に対し、はたしてどのような反応をしようか。


「本当に、質問を拒否しても構わないのか?」


 戸惑っている訳ではない。

 モティマは至って平静に、目の前の事象に対して冷静な対処を続行しようとしている。


「ええ、かまわないわ」


 だとするならば、自分に出来る事などせいぜい限られている。

 仮にここで不必要に動揺して、エネルギーを無駄に消費したとして。


 果たしてそれに何の意味があるというのだろう。


 と、メイは自分の中にある疑問を、苦し紛れであることを自覚しながら、胸の中で静かに握りつぶすように肯定する。


「今はまだ、あの人のことは知らないままでいい……。そう決めたから、私がそう決めたのだから」


 じっと他人の視線が、決して交わることの無い好奇心が、刃物の鋭さのように自身の意識を侵そうとしている。


「あの人……お兄さまと、私はもう……」


 初めの内の限られた間こそ、気丈で気高い振る舞いを維持できていた。

 実際に、外見上では何一つとして変化は訪れてはいないように見える。


 モティマか、あるいは別の魔術師がこの場に遭遇したとして、その目に移るのはひとりの幼女の姿。


 愛すべき幼さをまだ体に色濃く残す、か弱い人の体しか視認できないのだろう。


「メイさん」


 だが、それによって得られる安心は、無関心による平穏は他人にのみ許されたものでしかない。


「メイさん、貴女は」


 ゆえに、幼女の姿をした彼女の隣。


 幼い肉体の、その内装には魔女としての欲望を秘めている。

 女性の隣にいる少女には、彼女に対して他ならぬ特別な心情を抱いている。


 魔法少女には、とてもじゃないがメイの表情、吐息や唇の動き。

 それらの情報だけで、本来ならば見えるはずの無いものが。決して他人とは交わるはずの無い、感情の形と呼ぶべきもの。


 魔法少女はなにか、なにかを魔女に言葉を与えるべきではないか。


 強迫観念に駆られ、真皮の内側から熱いものが膨れ上がる。


「あら、なにか言った? キンシちゃん」


「あ……えっと」


 だが膨張は破裂を起こすことはなく、あとに残されたのは実体のない収縮による冷たい空虚だけだった。


「何でも、ありません」


 視線を逸らす、キンシの目の奥に一人の人間の、男性の姿が思い出されかけて。

 しかし映像は酷く不明瞭で、ノイズはやがて忘却という形をもってイメージを枯渇させた。









 イメージが生まれて、生まれた瞬間から次々と死んで、跡形も無く消滅する。


 しかして、生温かく穏やかな平穏は彼には。

 ルーフという名の少年には、永遠に許されることはなかった。


 いつだったか、まだ自分の意識もろくに確立されていなかった。幼い自分に、ルーフは寝ている時の自分について考えたことがあった。


 それは例えば寝顔だったり、うっかり変てこな寝言を言ってはいやしないか。といった感じの、とるに足らない些細な不安から始まった、ような気がする。


 眠れなかった夜、うっかり寝る前に、………あれは心霊写真の特集テレビだったか。

 無駄に演出が派手で、内容にしてみれば記憶に微塵も残らぬほどに軽薄な。


 要するにあまり面白くなかった、つまらない番組でしかなかった。


 だったのだが、それでも幼かった、まだこの世界の仕組みも理も、何ひとつとして考えようとも思わなかった。


 純粋だった心には、やたら赤色が激しい古印体の文字が恐ろしくて、恐ろしくて仕方がなかった。


 恐怖は幼子の心に強く残り、それは本来安息を求めるはずの宵闇を、あまねく全て異形の不安へと塗りつぶしていった。


 だから、眠れない不安を何とかして、幼心なりになだめ落ちつかせようと。


 そういった感じの試みの最中で、ルーフはやがて眠っている間の眼球について考えるようになった。


 はて、なんと考えたのだろう。

 記憶はすでに鮮度を失い、枯れ果てたイメージは不明瞭で灰色のノイズまみれになっている。


 思い出はだいぶ失われてしまった。


 いや、もしかしたら、他でもない自分自身が忘却を望んでいるのだろうか。

 まだ嘘に怯えることのできていた日々、虚ろな恐れで杯の内側を満たすことができていた。


 もう二度と手に入れることは叶わない、自分には永遠に許されることの無い安寧。


 もしかしたら、自分はそこから目を逸らしたいだけなのかもしれない。


 触れることのできないものに対する、憎悪にも近しい渇望の念を少しでも忘れていたくて。


 だからこんなどうでもいい、自分の過去回想へと無理やり思考の流れを変えようとしているのだろうか?


 現実逃避、ここまで来て逃げてばかり。


 もうそんな必要性はないはずなのに、自分にはもう逃げる意味など残されていないはずなのに。


 ルーフは継続する暗闇と痺れるような熱の中で、ニヒルに口角を上げそうになる。


 下らない、嗚呼下らない。

 舌打ちでも一発決め込めたかったが、口のなかはまるで(にかわ)を流し込んだように自由がきかない。


 口のなかだけではない、全身がまるで乾燥した水糊を塗り込めたかのように。皮膚は引きつり、関節は錆びついているがのことく軋む。


 これで完全に動くことができなかったとなれば、まだ諦めがついたかもしれない。


 石みたいに動けなくなれば、そうでなければ植物でもよかった。


 人間以外の何かになってくれれば、まだ救いがあった。


 とにかく、ルーフはもう二度と人間として生きていきたくはなかった。


 あの日、あの窓の無い部屋の中で人間性を自らの腕で破壊しつくした。


 あの瞬間から、ルーフという名の人間は自らの生命への価値を完全に喪失していた。


 そのはずだった、だからこうして逃げて。

 あとはもう、誰かが勝手にこの人生へ終わりを与えてはくれないものかと。


 今なら言える、それが自分の望んだ結末でった。


 そのはずだった。だったのに、


 だったのに、嗚呼………どうして。


「………」


 瞼はまるで温泉水を注入したかのように、薄いはずの皮は不自然な厚みと重みで眼球を圧迫している。


 暗闇は継続されたまま、しかし肉体の重みなどお構いなしに、意識は瞬く間に覚醒へと歩を進めていた。


「………」


 瞼はまだ閉じたまま、ルーフの眼球は自らの肉の裏側を見ていた。


 見ている、という言葉を使うのにはどことなく違和感を覚える。

 見ているという事はつまり? 瞼を閉じている状態では意味が通用しないのではないか?


「ああ………あああ………」


 静かなる肉体の下、意識は嫌に鋭さを増して。ひらめきの後ろに蘇った記憶が、唐突にルーフの頭の中で光景を蘇らせる。


 そうだった、そうであった。あの日、幼かった自分は結局眠ることができず、だから眼球についての哲学的思考をするわけもなく。


 幼かったルーフはそのまま、地下の研究室にこもる祖父の元へ。

 そして、必ず彼の近くにいる一人の女。


 ルーフにとって、自らをそう名乗る少年にとって、この世界で何よりも大事な人間へ。


 会いに行った、そうだったのだ。


「ああ………嗚呼………」


 思い出すことができた、記憶はさして重要な意味を持っている訳でもなく。それは単なる日常のうちの一つ、過去の情報でしかなかった。


 そして同時に、それは今のルーフが何よりも求めている物でもある。


 体の渇きよりも、肉と骨の痛みよりも。

 この世界の全てを犠牲にしてでも、きっと自分はその日常を求め続けるであろう。


 確信が一つ、腹の中に深く根付いている。


「そうだったな、そうだったんだよな」


 確信はやがてリアルへ直結する。


 蘇った記憶は点と線を次々と結び、やがてルーフという名の少年そのものを。 

 

 彼だけが持っている、他には一つもない情報の塊を展開していった。


「俺は、俺は死ななかった。死ぬことは出来なかった」


 やがて無意識の肉塊は、個性にまみれた一個の存在へと成り果てる。


「誰も俺の願いを叶えてくれなかったな………助けてくれなかった」


 ルーフはもうすでに、完全に目が覚めていた。


 瞼は依然として閉じられたまま、その気にさえなればいつだって、容易に開眼できそうであった。

 

 後はもう、目を開ければそこにはいつも通りの、何も変わっていない世界が見えるのであろう。


 簡単なこと、なにも難しいことなどありやしない。


「………」


 だが、どうしてもルーフには、そうすることが出来ないでいた。


 いや、これではまた言い方に語弊がある。


 したくない、何もしたくない。これが今の、現在に生きているルーフの内層の、そのほとんどを占める欲望であった。


 他にもっと大切な、いくつかの考えるべき事柄が残されている。その事はちゃんと理解している、つもりなのだが。


 それでも、どうしてもルーフは瞼を開ける勇気を出せないでいた。

 

 彼は恐れていた。


 見ることが怖かった、瞼の裏のあたたかい暗闇から眼球を開放させて、一瞬でも本物の世界を見てしまったら。


 そうしたら、自分はルーフという存在を認めなくてはならない。

 

 やがて訪れる、夜をこえた時から全ての生き物がそれとなく実行している承認。

 

「嫌だ………」


 だけど今のルーフには、なんて事もないはずの行為すらも恐怖そのものでしかなく。


「このまま………このま、ま」


 ならば選ぶべきは。

 

 瞼の裏の、体液の色が透けて見える黒色のまま。


 ルーフの体は再び、意識を手放しながら甘い、焼き菓子のように軽くて甘い眠りのなかへ。


 身を浸し、完全に染まりきろうとしていた。

 その所で。


「うえうえーいく! あっぷ! きゃもん!」


 蘇りかけた眠りは、とんでもなく素っ頓狂な男の声に。


 どうにもこうにも、聞き覚えのある他人の声によって、脳天からペシャンコに圧殺されることになった。

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