その眼鏡はきっと曇っている
かなり顔がベトベトに汚れたため、このまま取引先へ顔を合わせる訳にもいくまいと。
「ほら、キンシちゃん……」
メイはため息交じりに、ワンピースのポケットから一枚のハンカチを取り出した。
「お顔がそんなによごれちゃって……。ほら、こっちむいて」
清潔そうな、フチに繊細でささやかなレースが施されている。
白色を基調とした布を、迷いなく己の汚れまくった顔面に差し向けようとしている。
キンシは一瞬その厚意を素直に受け止めかけて。
「いえ、いえいえっ。わざわざそんなことは、しなくても大丈夫、です」
差し向けられた白い布をやんわり、とまでスマートにはいかなくとも。心底慌てふためいた様子で、大げさに拒否をしようとしている。
「こんなの、こうやって拭えば大丈夫なんですよ」
中途半端に振り上げた腕を、そのままの勢いに顔面へとぶつける。
「あああ? そんな雑に、だめよキンシちゃん」
暗い色の長袖で顔面をゴシゴシと、土まみれのじゃが芋にするような扱いで洗浄を。洗い清めるとも言い難い、雑な扱いをしている。
メイの制止を、しかしキンシは受け入れないままに。
「しかし、あんなにもアクティブな事をするとは、いやいや、はやはや……予想外でした」
布に摩擦されて若干表面が荒れている。
だがその表情はどこか満足げで、震えるような歓喜のの雰囲気さえ匂わせていた。
「生態系の下層に位置する弱者、被食者であればと。僕の内層に限定されたみみっちい価値観で、矮小なる勝手をしていましたが。しかし、やはり彼らもれっきとした異形の国のもの」
すっきりとしてしまった、キンシは裸の顔面に笑顔を浮かべている。
「もしもゴーグルがなかったら、僕の皮膚はべろりとひと撫で……」
喜びはいつしか恍惚へと。
しかしそれらの感情は、丸ごとすべてメイには受け入れざるものであった。
「やめてちょうだい……。これからお仕事なのに、怖いこといわないで……」
虚空を漂うハンカチをどうしたものかと。
しかしまだそれをポケットにしまわないままに、メイはすでに若干疲労感を感じながら少女の顔を見やる。
「……ゴーグル、その……予備とかはないのかしら?」
まさか移動中、公共交通機関の内部で備品を喪失する事故に遭遇するとは。
「ああ、あれですか? あれは……まあ、全くの痛手ではないと言えば、それはまた違うものになりますけれど……」
さっぱりと寂しくなった、目元に手を添えつつ。
キンシは喪失にそれとなく、薄ら寂しい無意味な思いを馳せてみた。
「もともと貰い物のようなものでしたし、どうしてもなくてはならないって程のものでも、ありませんし」
無頓着とまで割り切れないまま、しかし起きてしまった事象に対する感情の付け所に迷っている。
「ですが、しかしながら……このままだと、色々と問題が多すぎますね」
迷っているのが、心情的な意味とはまた別のところ。
実状的な意味を有していると、メイが気付くころにはキンシはすでに諦めを一つ結び付けていた。
「仕方ありません、これを使っちゃいましょう」
胸元、上着のジッパーを少し下に提げる。
厚手の布の内側には小さな暗闇が広がり、キンシは若干戸惑いがちな手つきで服の内側をまさぐる。
内ポケットをさがして、内部から一つの道具と摘み取り。
そしてそれを顔に、音をたてないままにそっと装着する。
「……うん、ちょっと違和感がありますが、これで視界に支障はきたさないでしょう」
確かめるように周囲へ視線を巡らせる。
首を左右に少しだけ動かしている。キンシの目元はすでに裸ではなく、そこには二つの若干大きめな丸いレンズが固定されている。
「ふつうの、魔法っぽくないメガネも持っていたのね」
果たして魔法らしい視覚矯正器具がどのような物であったのか。
もしも例えるとしたら、それはほんの数分前まで少女が着用していたそれであると。
メイはひとり勝手に考えを巡らせながら、唇はどこか別の生き物のように現在へと意識を伸ばしている。
「うん、うーん? えっと……そっちのほうが、その……私は良いとおもうわよ」
慰めるつもりだったのか、それともニューバージョンにポジティブな感想でも述べようとしていたのか。
メイ自身にも感情と言葉の正体がつかないままに。
ただ一つ確かなのは、新しいファッションに慣れるには、それなりの時間が必要であるという事だけであった。
「これも……、……知り合いから貰ったものなんですけれどね。昔はサイズが大きすぎて、とても顔に装着出来そうにもなかったんですけれど」
そう言いながらも、やはり若干寸法が合っていない。
キンシはそっと、左手の指で細くシンプルな金具の位置を調整する。
「こんな感じに、メイさんも基本、彼方さんに出会ったらあまり油断しないようにしてくださいね」
経験者は語る、とはまさにこの事か。
あまりにも鮮度が高すぎる警告に対し、メイは思わず苦笑いを浮かべそうになる。
「そうねえ、あんなに無害そうなのでも、異星人みたいなことをされたら困っちゃうものね」
割と本気に、今はなきゴーグルの存在が無かったらどうなっていた事だろうと。
今更恐怖で腹の内を冷やしている、メイにキンシはさらなる持論を並べていく。
「見た目もまた、彼らの危険性を判断するうえで重要なポイントとは言えますが。しかし……僕としては、それはあくまでも、数多くある基準のうちの一つにすぎないと、そう思います」
丸いレンズの下でゆっくりと瞬きをしながら。
まるでそうすることによって、少しでも早く眼球を新しい環境に馴染ませようとしているかのように。
「基本、デフォルトとして、僕ら人間は彼方さんに対して常に、ある一定の緊張感を保つべきなのです」
やがてまばたきの連続は緩慢に、開かれた瞼の間からは真っ直ぐな視線が伸びている。
「決して交わることはない、別の世界のものたち。触れ合うことは、もしかしたら出来るかもしれませんが。そうであったとしても、同じになることは不可能なんです」
たゆたう視点、そこには何も映っていない。
窓の外、延々と連続する地下の壁に点は固定され続けている。
表情には緊張感は感じられず、もしもその口角を少しでも上げたら、微笑みへと変換出来てしまいそうな程。
それ程に味気なく、無色透明な感情。
「それは……」
あまり鼻は高くない。いかにも鉄国に生息する人間らしく、顔の造りは素麺のようにさっぱりとしている。
思えばその正体も、出自の事も、何ひとつよく分かっていない。
メイは少女に何かをいようとしかけて、喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「それは……さっきまでディープなスキンシップをしていた人には、あまり言われたくないわね」
その代わりという訳ではないが、口をついて出た皮肉に、キンシは気まずそうな笑顔を浮かべた。
「すみません、つい興奮してしまって」
言い訳をしながら頭部をがりがりと掻きむしる。
だがすぐに、瞳の奥には羞恥心以上に深い色合いを帯び始める。
「どうしても……。僕はどうしても、彼らの生きている姿に強く執着せずにはいられない、ようなのですね」
自分の事を語っている。
そのはずなのに、言葉のリズムはどことなく、誤魔化しきれないほどに要領を得ていない。
「どうしてそんなに、あの化け物たちに興味をいだけるのかしら」
会話を途切れさせたら、あとに残るのはただの待機時間だけ。
時間に少しでも意味を持たせたかった、などと崇高で確固たる意志があったと。
そういう事ではない、メイは自身に確信を抱いている。
「あんなに意味のわからない、人を襲うこわい生き物にたいして、あなたはまるで素敵なものにであうかのように。いつも瞳を輝かせていて」
だが、せっかく暇な待ち時間なのだから、少しでも有意義なことをしてみても。
特に悪いことでもないはず、これはただの質問文であると。
「キンシちゃんって、変わっているわね」
メイはそう信じたかったが、しかし自分の言葉に信頼を置けないのもまた、確定的なことであった。
「変わっている、か」
キンシはもうすでにメイの、魔女の方は見ておらず。
眼鏡の奥の視線は地下鉄の窓の外、暗闇へと注がれている。
「変わっていなければ、そうでなければ、だれも魔法使いなんてやろうと思いませんしね」
魔法を使える、それを使って怪物を殺している。少女の声は相も変わらず明るくて、何も考えていない、中身の無い空虚だけが広がっていた。
「あ、えっと……そう言えば、なんだけど」
結局訪れてしまった、形容しがたい気まずさの立ちのぼる沈黙。
数分の圧迫感にも堪えられず、メイは諦めたかのように無難な内容を声に出していた。
「私たちが今日、これからむかうのって、一体どういう場所なのかしら?」
本来最初に聞くべきところに帰り着いた、といえば聞こえだけは良い。
本当のところを言えば対して興味もない、どうでもいい内容のはずであった。
だが、キンシの方はメイの思惑などまるで解することもなく。
「ああ、そうですね、そうですよね。メイさんにとっては、今日の取引の場は少し……、いえ、かなり足が重くなるような案件になりますよね……」
先ほどまでの、どこか投げやりな口ぶりとは大きく異なり。
途端にキンシは視線をメイの方へと定め、独り勝手に頭の中で納得を積み重ねている。
「なんと言ってもナナセさんの職場……、えっと、おそらくは彼に関係している、彼の雇い主が所属している所の本拠地、本陣と同様ですからね」
どうやらキンシは未だにナナセが、自らをそう名乗る、かなり奇怪なる男性がメイに働いた暴行について、強く憤りの念を抱いているらしい。
「これはしっかりと気を引き締めていかなくては。いえ、決して楽観的に気を緩めていただとか、その様なことはありませんけれども」
さっきまで自分の趣味全開で、完全なる個人的世界に入り浸って。その結果に備品喪失の被害をこうむった。
起きた事実への矛盾をメイが頭の中で、しかしそれ以上にきっと表情にもくっきりと浮かび上がらせている。
それを意図的に無視する器用さを持ちあわせないままに、しかしキンシは自分の感情の勢いに身を任せている。
「そうです、そうですよ。これから向かうのは灰笛城、魔術師の方々の根城。うっかりしていたら僕のような、こんなチンケな魔法使いは、あっという間に魔力のそこがつくまで搾取され放題ですよ」
鼻息を荒くして語る、メイはとりあえず少女の様子が通常に戻りつつあるのに安心を覚える。
「そんな……、怯えるほどのことでもないでしょう?」
とはいえ、魔法少女のあまりに真剣な様子に、メイはしおらしく一抹の不安を覚えていた。
「だってあそこは、普通の──」
彼女が言いかけた言葉をさえぎるように、キンシは左の拳を握りしめながら力説をする。
「いえいえ、いーえ。そうやってほわほわほんわかと過ごしている、無害そうな人をピンポイントで狙って、あの人たちは魔法の仕様権利をジワリジワリとせばめていく……」
珍しく、キンシらしくなく他人を一方的に貶している。
魔術師と城に抱いた怯えもとっくに通り過ぎて。
それよりも、メイが目の前の魔法少女に意外性を見出しかけていたところで。
「……と、オーギ先輩が前にラーメン屋でそう言っていました」
別段そんなこともなかったと。メイは何故か少しだけ肩を落としていた。
「ねえ、トゥーさん。あなたも聞いていましたよね?」
なぜか他人の主張を張り切った様子で復唱している。
少女に同意を求められたトゥーイは。
「記憶には確認できます」
特に表情を動かすわけでもなく、自身と、魔女の体に左右を挟まれている。
少女の意見に、確認に関する言葉においてのみ、短く同意を表していた。




