車内で騒がないでください
場所は変わって電車の中
「これはまた、先日のお話と似たようなものになってしまうんですけれど」
地下鉄の扉は固く閉じられている。
外部から響く空気の流れ、唸りが車内のあちこちに反響している。
音の集合体のなか。
キンシが隣にいるメイにきちんと聞こえるよう、若干声を張り上げていた。
「なあに?」
今度はわざわざ体を傾ける必要性もないと、メイは座席に背中を密着させたままの格好で少女の声に返事をする。
「また、自分のことがなにか、フシギにヘンなんじゃないかって。そういうはなし?」
しかし内容が安易に想像できてしまう話題というものは、どうしてもぞんざいな気分を抱かずにはいられないもので。
チロリと瞳をこちらに向けてくる、メイの視線にキンシは気まずそうな笑みだけを浮かべている。
「まあ、そんな感じなんですけれども?」
自分の事のはずなのに、いまいち要領を得ない口ぶりになってしまっている。
メイは視線を少女から外し、頭の中で考えを一つ。
別に移動中は暇なのだから、だとか。同じ話を聞くほどに、はたして自分がそこまで来ように好奇心を操れるものか、だとか。
「べつに……そんなテツガク? じみたことばかり、考えなくても……」
迷いながら、しかしせめて悩める少女に自分から少しでも、何かしらの助言をすべきなのだろうか。
だとか。
色々。考えながら、メイは何となく指先を自分の横。座席の、人の体の間に生まれた隙間に落ち着かせようと。
したところで。
「うえ?」
本来ならば布の、サフサフとした繊維の感触を掴むはずであった。
若干爪が伸び気味の、指先の下にブニュリと柔らかいものが触れた。
「ひゃああ? な、なにこれっ!」
とても触れてはいけないもの、なにか危険なものにうっかり手で触れてしまったものかと。
周りをはばからず大きな声をあげて、振り上げた指の先に見えたものを確認して。
「おおお! これは……!」
腕力のままに振り上げられた、キンシが座席から身を起こして彼女の指先をそっと包み込む。
「メイさん、落ちついてください。大丈夫ですから……」
まるで何か、掛け替えのないものを。大切なものを見るかのように、キンシはゴーグルの下で目を細めている。
「だいじょうぶって、なにがっ?」
しかしキンシがいくら紳士的な挙動をしたところで、メイの動揺が消え去る訳では、あるはずがなかった。
「な、な、なにもないところから、いきなり! ナゾのおぼろ豆腐が?」
何故自分がおぼろ豆腐なる食品の事を、その形、色合いや感触の事を知っていたのだろうか。
たぶん、というかどうせ、自分の中にある別の記憶が。
と、考える暇もなく。
その謎の白い、柔らかくて滑らかな表面をしているように見える。物体は段々と、容赦なくメイの指に吸い付こうとしている。
「いやーっ? 動いてる、動いてるうう……!」
その頃合いにはすでにここが公共の場であること、しかも列車内というそこそこに密閉された空間であること。
状況を理解し始めている、それでもメイは周囲の白い目線などお構いなしに。
悲鳴を押し切ることもできないままに、指先から伝う未知の感触にすっかり怯えきっていた。
「そのまま……! 動かないで……!」
キンシが口元に柔らかく笑みを浮かべている。
彼女の動揺、あるいはほかの乗客のささやき声。
ありとあらゆる、認識すべき現象をほとんど頭の中から除外しながら。
キンシは手袋に包まれた指を、真っ直ぐメイの指の間に絡ませる。
「お、おおお? 食いついてきました」
未知なる異物に対する恐怖で、すっかり緊張しきっている。
ビクビクと震えるメイの指先から、白く柔らかいものが別の指先の方へと移動する。
「これは花虫……、彼方さんの仲間のうちの一つ、ですよ」
かなた、と驚愕で精度をかなり鈍くしているメイの聴力に言葉が届いてくる。
「かなた、って……まえにわたしを食べようとした、あの大きな化け物のこと……」
メイの脳内で記憶が瞬間にひらめく。
あれはもう、何日も前のこと。初めてこの都市、灰笛に訪れた日のこと。
普通、だなんて、そんな言い方も出来そうになく。
とにかく色々な事情があって、ここに訪れた。その日にまさしく、メイはこの場所で巨大な怪物に捕食されかけた。
理由もなく、意味もない。
ただ獣の本能にまかせるまま、メイの体は怪物の体内に取り込まれようとされて。
なのにどうして今、こうして身をビクビクと震わせていられるかというと。
「そうなんですよお、この小さく柔らかいものも、ちゃんと彼方さんとしての機能を保有していましてね」
すっかり興奮が高まった様子で、座席の上で張り切りながら指先の物体をメイに見せようとしている。
キンシと自らを名乗る、魔法使いの少女がたまたま。本当に、たまたま捕食現場に遭遇して。
いかにも魔法使いらしく、都合よく怪物の腹をかっさばいて、哀れな獲物を救助した。
といった感じの、バックグラウンドがメイの頭の中を通過して、そのまま過去のぬるま湯へと沈み込んでいく。
「ほらあ、ほらほらあ、見てくださいこの曲線。美しいとまではいかなくとも、決して我々には生み出せないであろう造形。実に興味深いと思いませんか?」
悲鳴をあげれる熱量も失った、ぼんやりと布製の座席に身を沈ませている。
メイの目の前で、キンシがささやくように指先の「それ」に意識を注いでいた。
「しかしながらですね、前にもお話したかもしれませんが。花虫というのは、彼方さんの生態グループのなかでも、とりわけ重要な位置に属していまして」
メイの指から離れた、花虫と呼ばれる生命。と思わしきものは、今はキンシの手の上でプルプルと震えて大人しくしている。
「こういった体格の小さい個体が増殖することで、これより上に存在する、上位の個体に栄養源を行き交わせるですよ」
つまりは、食物連鎖的な場合に当てはめたとして。キンシの手の甲でじっとしている、このくすんだ白色の豆腐が、巡り巡って別の怪物。
例えばメイを丸呑みにしたあの、巨大なオタマジャクシの化け物の食糧になる。
「ええ、そうね……。前に、事務所の初心者けんしゅうで教えてもらったとおりね……」
記憶が通り過ぎた空白。
うっすらと寂し虚ろになかに、メイは暗記した単語の連なりを思い出していた。
「でも、なんでそれが、こんな場所に?」
驚愕はすっかり体の中から抜けきって、虚脱感の中で魔法少女の興奮を眺めていた。
「理由は解しませんよ、彼らの考えていることは、僕ら常人にはとても理解し難いものですからね」
メイが、どこか憐憫さえ匂わせる視線を送っている。
そんな事など一切構わず、キンシはわくわくが抑えきれないと言った様子のままに。
「ですが、こういった人の往来が多い場所だと、人間の体内から発する独特な魔力の匂いに釣られて、こういった個体がひき寄せられる傾向が、確認されているそうでして」
手の甲にいたそれは体の底面を、多分その辺がが足の役割を担っているのだろう、軟体生物のように緩慢な動きで。
少女の手から手首へ、上着に包まれた腕の辺りまでトロリトロリと移動を。
目的も意識も確認できなさそうな、いたって単純な移動を行い続けている。
「そんな……羽虫みたいなもの、なの、かしら……?」
どう見ても、どう肯定的に捉えたとしても。とてもじゃないがこの世の、この世界の理に受け入れられそうにない。
メイが心の奥底、だれにも見えない部分で嫌悪感を確かに湧き立たせている。
彼女の感情など露知らず、キンシは腕の上で動きを止めたそれに微笑みを送っていた。
「羽虫というより、役割的には芋虫に近しいかもしれませんね。プックリと小さい栄養源、みんなスナック感覚でばくばくと食べまくります」
「へええ……」
嫌悪の後に、今度は憐れみと少しだけのもの悲しさ。
「でも、そんなに大事なものなら、こんなところに放置するのもダメなんじゃないかしら?」
少女の手首よりも少し体に近い所、腕の始まりの辺りで動きを制止させている。
メイが、自分でもらしくないことに驚きながら、依然として謎ばかりの生物の心配を口にしている。
「その辺は大丈夫ですよ。これらは大体、その辺を跳んでいる綿毛のように、気が付いたときには消えていなくなっていますから」
メイの心配にキンシはいまいち説得力に欠ける、だがそれ以上の説明もしようが無い事柄を発している。
「そうじゃなくて……そのまま腕のうえに乗せたままだと……」
不安が全くなかったと言い切ってしまえば、それは中途半端な嘘になる。
とはいうものの、確証があった訳でもない。
だだなんとなく、メイはその瞬間にその生き物に対して。
少女の腕で、まるで何かに対して構えているかのように、体の動きを止めている。
怪物の仲間に、魔女は新しい形の怯えを感じていた。
「あ」
小さな驚き。
声を発したのが少女か、あるいは魔女のほうであったのか。
どちらにせよ、腕の上に会ったはずのおぼろ豆腐が、次の瞬間にはキンシの顔面に跳びかかっていた。
その事実は変わり様がない。
「キンシちゃん!」
いきなりのアクション。
まるでどこかの、ゴシックホラー映画に出てくる架空の生物のよう。
そんな、そこまでの不気味さはなく。
どうしようもなく間抜けな状況になっている。
理由を考えるよりも先にメイがキンシを。
なにをすべきなのか、思いつけないままに、とにかく手を伸ばそうとして。
「………」
当然と言えばそれまで、魔女よりも早くに行動を起こしていた。
キンシの背後からトゥーイの腕が伸びてきて、そのまま指は彼女の顔面に張り付いていいた白色を引っぺがした。
「s-2444--」
ペッチャリと床に叩き付けられた。
丸くて小さい怪物の仲間が衝突の勢いのままに、空中へ実体を溶かして消えていった。
「先生」
背後から羽交い絞めをするかのような恰好で、トゥーイはキンシの顔を見下ろしている。
そこには無表情などと、とてもそのように好意的な感情は含まれていそうにない。
もしも彼に言葉が許されいるとしたら、それこそ場所を考慮することなく、しんねりとした説教が実行されていたに違いない。
「ありがとう、トゥーさん。危うく顔面を捕食されるところでした」
青年に顎を包み込まれている。
少女は瞬きをゆっくりと。
「あ、キンシちゃん……」
目の動きが見えている、その事実が胸の内に落ち着く前に、メイは視覚で得た情報を言葉にしている。
「顔は大丈夫だけれど、ゴーグルは食べられちゃったわね」
灰色の、奇妙な形をしていたゴーグルは、花虫の肉体ごと完全なる消滅を果たしていた。
後に残されていたのは傷一つついていない、血色の悪い素肌。
少女の顔面はなににも守られておらず、右側の眼球が不安定に視覚情報を集めようとしている。
「なんてこった」
裸の顔面がいかにも愚鈍そうに、ポカンとした表情を空気に晒している。
「あのゴーグル、結構良い物品でしたのに。残念です」
大して残念がっている風でもなく。
キンシの表情には、興奮の後の鈍く痺れるような解放感がにじみ出ていた。




