あんまり美味しそうじゃないけれど
いただきます。
ルーフは夢を見ていた、未だに夢を見続けいていた。
夢見心地であった。
「あったかいな………」
体のすぐそばに、吐息のにおいがわかるほどに、毛穴から漏れる汗のかおりがわかるほどに。
ルーフは今、女に抱きしめられている。
女の体は熱く柔らかく、優しくて、ルーフは上質な羽毛布団に包まれているような。そんな快感を、無意識の甘い園へと身を沈ませようとしている。
女が何かを言った、ような気がする。
声の音色は美しく、響きはグランドピアノの白と黒の残響をはらんでいる。
野郎には決して生み出すことのできない高音のメロディーが、ルーフの耳の奥にはめ込まれている、薄くて小さい膜を直接撫でてくる。
女はルーフを強く抱きしめていた。
まるで少しでも腕の力を緩めたりでもしたら、少年の体が跡形もなく溶けて、バラバラに消滅するかと。
そんな恐怖を、不安を。
女はそのまま、タプタプとした夏祭りの水風船の様な冷たさのある、両の腕でしっかりと彼の体をその場に固定している。
女はもう一度、ルーフに向けて何かを離しかけていた。
優しく、きっと母親というものが自分に存在しているとしたら、こんな感じなんだろうと。
ルーフの頭の中で甘く、手放し難い空想の世界が次々と広がっていった。
女がまた何かを話している。
それがいったいどのような言葉で、彼女が相手になにを求めているだとか。
ルーフにはすべて、女の胸の中で目を閉じている彼は、もうすでにその答えを知っていた。
知っていて何故、ここまで優しくしてくれる相手の望みを叶えてやらないのか。
どうしてそのような酷い、最低な真似が出来るというのか。
理由は、意味は、ルーフは考えてみる。
確かに何かしらの理由があった様な気がする。
だがかつて脳内に存在していたはずの言葉は、今目の前に果てしなく広がる赤黒い空間の前に、刹那に輝く流星程度の意味しか持たない。
まあいいか。何でもいいや、どうでもいい。
「嗚呼………」
優しいあたたかさだけを体に満たそうとしている、ルーフはもうそれ以上何も考えたくないと。
そう思いながら、もう一度目を閉じて。
ついに、己に優しくしてくれている女の体を、その身に受け入れようとする。
と、その時に。
「………ん?」
あともう少し。
あと涙一粒ほどで、彼の体のなかには完全なる優しさと、強い思いやりの熱だけに染められる。
その手前で、どこからか冷たい風が吹き、彼の右頬をするりとかすめた。
「何が、誰だ………?」
自分と、そして女以外の存在を認識した。
途端に、彼の意識は新しい情報に上書きされる。
ルーフの意識は胸の内にこんこんと湧き上がる欲望のままに、ひたすら自由のきく部分をうごめかせる。
「誰だ、どこにいる」
声はひどく小さく、風になびく一本の雑草ほどに無意味でしかなく。
「誰なんだ………っ」
しかし、どうしようもなく、声はまるで耳元を飛び交う羽虫の羽音のように。
とても腹立たしく、せっかく作りかけていた美しい、甘い夢見の国を崩された。
今までの優しさの空間はあっという間に、波打ち際の砂の城のように脆く。
簡単に崩れ落ちてしまった。
「うるさい………、うるさい………!」
声はまだ響きを失っていない、残響は消え去ることなく。
むしろ時間が経てば経つほどに、ルーフの内層で音色が重なり合い、累積した廃棄物の様な存在感を確立しようとしている。
「頼むから黙ってくれ………! こんな所まで、どうしてお前は………!」
ルーフは許されざる訪問者に、礼儀と礼節を欠いた異物に、生れ落ちた怒りと苛立ちをそのまま。
ありのままにぶつけようと、しようとした所で。
「お前………お前って………」
まさに爆発の勢いで、膨張をしようとしていた。
言葉はしかし肉を得ることもなく、カラカラと残骸を喉の奥に転げ落とした。
言葉はすでに用意できている。
なのにどうしてもルーフはそれ以上、相手に対して何かを言うことができなくなっていた。
理由は明確であった、しかしあえて口にする程でもない、あまりにも下らなさすぎる。
「あいつの名前って、なんだったっけ?」
だが疑問は欲望と同じくらいに固定を拒み、望むものはただ一つ。
永遠にも近しい長い期間の、延々と続く動作と変形。
「あの、馬鹿みたいに胡散臭い、あの………」
「魔法使いの名前を、知りたいのね」
ルーフの喉から絞り出される声に、女の声がそっと重なり合う。
「やっぱり駄目なのね、貴方はきっとわたしだけのものにはならない。………わかりきっていた事だわ、あなたは最初から、ずっと、一人のひとを愛し続けることなんて出来やしない」
女は多分、おそらく、声の雰囲気からして笑っているようであった。
クスクスと笑っている。
まだ腕は少年の体を捕えていたものの、しかし声が増えるほどに圧迫感は減少の一途をたどっていた。
「最初から、そう………最初からだった。初めて貴方に会った時も、私の気持ちはきっとこれからも変わらない。そして、同時に貴方の心もきっと、これから先もずっと変わらないのでしょう」
変化を望んでいる。
腹が減ったら食物を求めるように、疲労を感じたら睡眠を摂るように。
ルーフは単純にそれだけを望んでいる。
「あなたは変われやしないわ、ずっとそのままよ」
体の半分を握りつぶされた幼虫のように蠢く、少年の体を腕の中に捕らえたまま。
女は唇に微笑みをたたえて、ルーフと言う名の少年の願いを否定する。
「貴方はもう呪われている。呪いは永遠にとけない。貴方は永遠に、その命が何かしらの終わりを迎える、その瞬間まで。ずっと、ずっとずっと、ずうっと、呪いを宿して生き続けるのよ」
歌うように、我がままで融通の利かない幼子をそっと、優しく諭すように。
女は男に体を寄せて、唇が触れそうになっている、その寸前で。
「否定は許されない、昨日は永遠に帰ってこない。一度選んだ選択は、その後の時間に影響を与え続ける」
吐息が数少なく許された空間を、ふるふると揺らめかせている。
「呪いは消せない、最後に迎える結果が訪れるまで、呪いはあなたと共に在り続ける」
口の中の粘膜、その下に流れる体液と血液、それらが混ざり合った。
においを、ルーフは鼻と口のなか、気管支の全体で感じ取っている。
涙が止まらない。
自分が泣いていることに気付いた頃には、ルーフの心の中には無数の言葉の塔が乱立していた。
「嫌だ………」
塔の中の一部、瓦礫が風雨にさらされてポロリと崩れ落ちるように。
こぼれた涙と共に、ルーフの唇は言葉を発している。
「ずっとこのままだなんて、絶対に嫌だ」
声が喉を、唇を通り過ぎる。
後に広がる視界、彼の見ている世界のなか。
そこでは一人の、体に何も見に着けていない。
しかし、ある程度のごまかしがきかない程度に美しい。
一人の、灰色の瞳を持った女が、男の腕に首を絞められている。
指はなけなしの体力全てを使い果たそうとしている程に。伸び晒した指が内側の肉を食み、ミリミリと圧迫の中で白い皮膚が赤みを増している。
「呪いから逃れたいのですね?」
ぎゅうぎゅうと皮が、肉が、その奥にある空洞が全部丸ごと圧縮されようとしている。
女の唇からひゅうひゅうと、嵐の窓の外の様な音が絞り出されている。
「貴方は呪いから逃げることを選択しました」
唸り、掠れ、潰れる。
その中で女は、自らの首を絞めている男に話しかけている。
「選びましたね? この選択は正しいですか?」
正しいか、正しくないか。その問いかけが外層のものではなく、己が内層にだけ向けられたものであると。
考える、思考が納得に追いついて、言葉や意味を得るよりも早く。
確かな理由が、ルーフの体のなかに炎をともした。
「………………」
はて、はたして、女はまだ笑っていただろうか?
ずっと抱きしめていた腕はもうここにはいない。
解き放たれた熱は空気に触れた途端、世界の冷たさと溶けて混ざり合い、元の形を失っていく。
「承認しました、しかし、否定に代償は避けられない」
女は残念そうに、少しだけ悲しそうに。当たり前の事実を、丁寧に彼に伝えると。
彼女は、そっと優しく男の足に唇で触れ。
歯で皮を圧迫する。
皮の間から血管が破られ、血液とその他の浸出液が歯を濡らす。
一回の咀嚼もしないように、彼女の口はひとくちで太ももを包み込む。
ぼっきり、べきべき。
付け根、基本的な関節よりも少し下。少し成長した人間の、小指程度の長さだけを残して。
………………………… ………………… ……………… …………。
はて、はたして。目を逸らすべきだったのだろうか。
それとも、かかわったすべてに責任をもって。なにより、己のかつての記憶と整合性を合わせるためにも。
全てを受け入れるべきだったのだろうと、キンシは後悔をしていた。
だが同時に、自分はそのような選択を絶対に、限りない絶対の確率の中において選べやしないと。
自分はそんな優しい人には慣れやしないと、あの女の人のようには慣れやしないと。
地獄の業火でも、実態がある炎でも何でもない。
怪物の、加工肉と何ら変わりのない触手に体を固定されたまま。
その腕に一人の、幼女の姿をした魔女を抱えている。
キンシと言う名の魔法使いは、少年の姿を。
そして、少年の体を噛み砕いて、飲み込んだ怪物の姿を。
残された一つだけの眼球で、ずっと見続けていた。
視界が開けた、自分の体を阻害していたいろいろの事が全て。
丸ごと、きれいさっぱり消失した。
解放感に驚くよりも早く。
メイは自分の体に空気の、重力の重さがあることが何か、とてつもなく奇妙な出来事であると。
体の重さに戸惑っている、それでも倒れるほどではなく。
だからこそ、メイは目に移る出来事をずっと、終わるまで見守ることができていた。
「約束です。僕はそうすると決めたんです、美しいものを、僕の手が届く範囲の全てで守ってみせると」
地面がものすごく揺れている。足場となっていた怪獣の肉体が、全ての支えを失って崩壊を起こそうとしている。
「そのためには、僕は貴女の大事な物を奪わないといけない」
揺れ動く世界の中で、キンシと言う名の若い魔法使いが話している。
視線の先、残骸の上にはいくつかのものが転がっている。キンシはそのうちの一つに話しかけていた。
一つは、とても大きな、灰の塊なのだろうか? とても醜く、しかしとろりとしたゼラチン質が艶々と雨水に濡れている。
その下に何か。
メイがそれに気づき、瞬間的な忘却によって体を動かそうとして。
しかしそれでもどうしようもなく、肉体に累積した疲労感がそれを許そうとしていない。
揺れる世界のなか、彼女の視線の先で魔法使いが唇を動かしていた。
「すみません、どうかいつか、許してください」
左手には武器が握られている。奇妙な形をした、槍に似ている。
左手に握られた、武器の穂先は真っ直ぐ下に向けられている。
「さようなら」
武器の、かすかな曲線を描く先端が肉に突き立てられる。
怪獣が、兄の体に覆い被さっている、柔らかそうな肉の塊に刃が刺さる。
「( )」
灰色の怪獣は何かを言ったような気がする、だがメイにはこの声は聞こえなかった。
必要な物、生きていくために必要な物をすべて否定された。
怪獣はもう存在を保つことは出来ず、体は塵のように消滅する。
その様子はまるで、燃え残った灰の山が風に吹き飛ばされているのと。とてもよく似ていた。
「お兄さま」
ようやく二本の足で立ち上がる。メイはズキズキと痛む頭に眩暈を覚えながら、ようやく会えたたった一人の人間に。
愛する兄に手で触れる。
「あ」
そこで気付いた。
灰色が全て溶けてなくなる、塵一つ残さず消えたその後に。
メイは、兄の右足がなくなっていることをしる。
まるできれいさっぱり切り落としたか、それとも何か巨大な生き物に食い千切られたか。
いずれにしても、彼女は彼の右足があった、もうそこには何もない空白を。
言葉もなく、じっと見ることしか。
今は、ただそれだけしか出来ないでいた。
ごちそうさまでした、食べられなくはなかったです。




