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338/1412

最悪二人だけにするべきなんでしょうけれど

夜中の眩暈。

 彼女たちは大量の血液の中に体を沈めている。


 水分は一切の空白を許容することをせずに、体から肉を支える重力を瞬間的に削ぎ落としていく。


「……息が……」


 突入の衝撃によって、メイの体はキンシの腕からふんわりと乖離しつつある。


 顔に、唇に、喉の奥に鉄と塩分の生臭い味が満たされる。


 生き物、とりわけ陸上に生活圏を置いている生物としての当然の反応を。


 メイは液体の中で両手と両足をバタバタと、喉の奥から溢れる空気をできるだけこぼさないようにしていて。


 だが自身の抵抗はすべて無駄だと、キリキリと痺れるような圧迫感が訪れる。


 訪れる、そのはず。

 だったのだが。


「……。……あれ?」


 メイは赤色のなか、眼球が害されることもいとわずに、そっと閉じていたまぶたを開いてみる。


「メイさん」


 赤い岩石で構成された砂漠、そこに巨人が息を強く吹き付け荒らしほうだいにしたかのような。


 鮮烈な朱色のベールの重なり合い。

 その中でキンシの青白い手の平が真っ直ぐ、メイへと伸ばされているのが見えた。


「大丈夫です、ここは普通の、僕らが暮らしている空気のなかと……そう変わりはないのです」


 フワッと曖昧でありながら、しかし現状の説明にはこれ以上となく情報に満ちている。


「なまあたたかくて、息苦しくて……。でも、どこかなつかしい……」


 キンシの手を取るよりも早くに、メイの頭の中で再び記憶がひらめく。


 故郷、自分が、メイと言う名の女が自己を形成した。

 あの場所。


 ここのにおいは、あの部屋のにおいととてもよく似ている。


 彼が、兄が生まれて初めて人を殺した場所。


 ここはあの場所にとてもよく似ている。なにもかも、類似性も共通点も何一つとして含まれていないが。


 だが、ここは間違いなくあの人の一つの人生が終わり、代わりにもう一つの選択が始まった場所であると。


 彼女はそう、信じたくて仕方がなかった。


「かなり広い揺り籠です、あまり長居していると、こちらにもあまりよろしくないです」


 キンシは必要最低限の、必要と思わしき情報を断片的に彼女へ伝える。


「トゥーさんの鼻もあてにできませんし、どうにかして彼の体がある場所を見つけ出さなくては」


 かなり、ものすごく不明瞭な視界のなかで、キンシはぎゅっと目を凝らして液体の密集に視線を巡らせる。


「それにしても酷いノイズです……! これじゃあ彼の意識が残っているかどうかも……」


 キンシと言う名の魔法使いは不安を抱いている。


 目的の対象物、一人の少年の安否は事の最初から懸念すべき案件ではあった。


 だがこうして怪獣の、彼であったはずの、今も彼には間違いない内部にいると。


 もうすでに、不安自体はキンシの内層でとうの昔に、とっくに許容できる範囲を遥かに超えてしまっていた。


 彼はもう駄目かもしれない、もしも人間性を失っていたとしたら、その時は。

 その時は、自分はどうするべきか。


 キンシの左手の内側に、じんわりと油を大量に含んだ汗が滲みだす。


「心配はひつようないわ」


 魔法使いの肉体から漏れ出る、生き物としての生臭さを確認しながら。


 その体から膨れ上がる熱の量を、メイは片手でそっと制する。


「この空気、このにおい、私はこの場所のことがよくわかる」


 魔女の迷いもためらいもない、一瞬には無感情とも取れる宣言。


 キンシは言葉の意味を考えるよりも早くに。


「ま、待ってください、メイさん?」

 

 そっと赤色の靄を進み始めた彼女の背を追いかけることに意識を割いている。


「お兄さま……」


 地面と言うべき、地面らしい足場はどこにも無い。


 海岸の砂浜よりも柔らかく、しかし底なし沼ほどの許容はなく。


 ふーかふーかとした感触が、キンシの長靴からその下の足の裏へと、生温かい浮遊感をもたらしている。


「お兄さま……」


 メイは迷いなく、まるで何かに導かれるように赤色の砂嵐の中を進み続ける。


 何か、それがいったい何なのか。考えるまでもなく、キンシの頭のなかでは一人の少年の姿が、ずっと脳裏に映像を焼き付けている。


 少年の体は夏の影のように伸びている。

 しかし首から上は陽炎のように揺らめいていて、正体は酷くあやふやだった。


「お兄さま……? お兄さま……!」


 ああ、そういえば、自分はあの少年の素顔を一度も、まともに見ていなかったんだな。


 キンシがそんな、どうしようもなく下らない発覚を舌の上に転がしている。


 と、そこでメイの白いワンピースがフワリと揺らめく。


 レースをあしらった薄い裾は、暗い赤色の中で彼女の感情の揺らめきを。そのまま反映してるかのように。


 骨のような輝きが膨らみ、次の瞬間にはメイは一目散にとある方向へ体を動かしていた。


「メイさん、待って……!」


 いきなりのアクションに戸惑いつつ、キンシはそれでもメイの姿を見失わないように歯を食い縛る。


「お兄さま、ああ……っ!」


 ここは異常なる空間。

 少しでもうかつな真似をすれば、己の身がどうなるか何一つとして保証は効かない。


 そのような、大体にしてそういった意味を、魔法使いがメイの背後から叫びかけているのが聞こえる。


 だが魔法使いに何を言われようとも、たとえどのような者に呼び止められたとしても。

 

 今、心の臓を鉄鎖で締め付けられるほどの痛みに苛まれていながら。

 同時にそれを、薔薇の薫香に満たされるほどの甘みと同等として捉えている。


 矛盾はしかし、図りを均一に保つこともせず、彼女の内層では圧倒的に瑞々しい喜びが勝っている。


 だが歓喜の表情は一秒と固定されることはなく、メイの眼窩は信じ難い光景への慟哭に痙攣する。


「(   )」


 兄が、兄が赤色の怪物に襲われている。


 巨大な、蛸のように見えるし、あるいは百足(むかで)のようにも見える。


 もしかしたら、メイの視界が勝手に既存の生物と照らし合わせているだけで。

 実はそれは、なんの生物でもないゲル状の塊でしかなかったのかもしれない。


 確実と言えることはその生き物が、血液よりも鮮やかに輝く赤色であること。


 そして、生き物は兄の体に纏わりつき。その体を、皮と肉と、骨も眼球もすべて残さず食い尽くさんとしていること。


 それだけが確かで。

 それさえあれば最早、行動に迷いなどあるはずがなかった。


「お兄さま!」


 メイはあらんかぎりの力を振り絞って、しかし己の思い通りに動いてくれない体に苛立ちを募らせ。


 ついに、ついに求め続けてきた男へと手を伸ばそうと。


 したところで。


「う……ぎ?」


 真っ直ぐのばした右の腕、柔らかく色素の少ない体毛に包まれた人体の一部。

 そこに大量の、強烈な痺れが走り。


 そう思っていたら、皮膚の感覚から脳に大量の痛みが走る。


 痛覚の正体が熱であることに気付くのが少し後。

 

 瞬きを一つすれば、衝撃にこらえきれなかった弱さが、涙と言う実体となって目頭から溢れだした。


「なにが……これは……?」


 何か、何者かの力によって、自分の体が拘束されている。

 何本もの触手、それらは全て魔力を有している。


 力は愚かにも近付いてきた異物を、一番大事な物に近づけまいと。触れ合う場所から炎のような熱さを膨張させている。


「うっ、うう……」


 体が熱い、いや……熱いどころではない、今すぐここから逃げないと、全身が焼け爛れてしまう。 


 肉体が、生命の危機を感知して必死の警報を打ち鳴らしている。


 逃げたい、だが思うほどに彼女の体は反骨の硬さに盛り上がる 


「うああ! うああああ!」


 メイの頭のなかは怒りだけが存在している。

 伸ばした腕を阻害されたことへの、荒れ狂う怒りだけが感情の中で存在を可能にしていた。


「離せ、離せ! 邪魔を……邪魔をするなあああっ!」 


 願いは、本望は、彼女にとってこの世界で何よりも大切なものは。


 もうすぐそこ、あと少しの場所にあるのに。


 肉が焼かれる、皮膚が圧迫されて内部の体液が青紫色に滞る。


「メイさん!」


 やっと体に追いつくことができた。


 キンシが青ざめた顔でメイの体を、背後からきつく締め上げるように抱きついた。


 腕のなか、彼女の体を媒介にして、怪獣の触手から放たれる熱が表皮から皮下組織へ、めらめらと拷問をもたらそうとしている。


「落ち着いて……このままだと貴女の体が……!」


 彼女の、メイの細い右腕が焼け爛れ、焼き尽くされて炭も残さず灰になる。


 キンシのまぶたの裏で空想の情景が、リアリティのあるイメージとして浮かんでは消えてを繰りかえす。


 怪獣による触手は揺り籠の内部、己が完全なる領域において、人間による最悪のイメージを忠実に再現しようとしている。


 熱い、熱そう。

 誰かがそう思うとほぼ同時、あるいは手前の現象だったか。


 メイと、キンシの体を取り巻く触手はやがて、本物の業火と同等の意味を持ち始めていた。


「メイさん! 離れて! このままだと……」


 このままだと、どうなるというのか。


 考えを巡らせている、選択の上に朝日も一本で括られた刃物と、同様の重みを。

 キンシは左目の奥、もうすでにそこには本来の眼球は存在していない。


 あるのは偽物の眼球、しかしキンシは確かに肉の、柔らかい粘膜が圧迫されるような痛みを。

 燃え盛る炎の熱とは別に、無意識に近しい領域ではっきりと、克明に認識していた。


 どうしてここが痛むのか、かつての己の罪状の証が、よりにもよってこのような状況で

 

 否応なく、キンシの脳内で罪の意識が。


 普段は日常の中に溶かし込んでいる、数々の過ぎ去った時間と空間が蘇ろうと腐敗した指を伸ばそうと。

 

 嫌だ、嫌だとキンシはどちらかの目に涙をにじませる。

 重く、苦しい。逃れるように反らした視線の先、赤色の靄を意味もなく滑る。


 その果てに、キンシはひとり生き物と目が合った。


 それは腕の中で、もうすでに叫ぶ力も失いかけている。しかし、それでも愛する男をこの手に取り戻す。


 ただ一つの願いを決してあきらめない女性、彼女がずっと見続けているもの。

 

 それと同じものを、たまたまだったのか、それとも必然的な行為でしかなかったのか。

 いずれにしても、キンシは怪物と身を寄せ合っている彼と、残された目玉で視線を交わしている。


「……」


 キンシは彼の、少年の名前を呼ぼうとした。


 彼に助けを求めるつもりだったのかもしれない。

 だが溢れかけた声は音を得るよりも早く、喉の奥に押し潰されて消滅する。


「………」


「(   )」


 少年は怪獣に抱きしめられている、怪獣は少年を抱きしめたまま、視線だけをキンシの方に向けていた。


 何を伝えようとしているのか、魔法使いは考えようとした。

 だがすぐに、その様な考察は無意味であると論を結ぶ。


 怪獣は彼しか見ていなかった。

 何も見ていない。

 何も聞こうとしてない。


 そこには言葉が存在していないと、記憶とかつての経験がキンシに直感を刺すように与えた。


 ああそうだ、そうなのだ。キンシは炎に焼かれる幼女を抱きしめがら、眼球を万力の如く圧迫されながら。


 たった一つの、あまりにも真実味に欠ける事実に気付く。


 怪獣は、かつては美しい灰色の輝きを放っていた。


 誇り高い生き物は、そのあまりにも広すぎる心に、自らの体を怪我した男ですら許そうとしている。


「(    )」


 許して、優しくする。心を一つ殺しても、殺されようとも、彼女は。


「ミッタさん……貴女は……!」


 キンシは悲鳴に近い声をあげそうになって、しかしどうにかそれを唇の内側だけに留めて押し殺す。


 彼女は、かつては小さく無垢で、人畜無害な形を選んでいた。


 彼方と呼ばれ、また冥人(みょうじん)とも呼ばれる。


 しかして今は、まさに怪獣そのものになっている。


 彼女は、ミッタは、きっと彼女にとっての始まりから、時間の末端たる現在に至るまで。


 彼女は彼の事を、一目見て恋に落ちた。

 RomeoとJulietもあまりの下らなさに黄色いカーネーションを一束叩き付けるであろう。


 そんなくだらない恋のために、ミッタと言う名の彼方は。

 化け物はひとりの少年を、見るもおぞましい生命を、自分だけのものにしようとしている。


「ふ、ふ」


 炎はずっと燃え続けている、もうすでに許容できる感覚の領域は越えつつあった。


 腕の中にいる幼女はあと少し、絹糸が一本切れればあっという間にシャットダウンを実行しようとしている。


 だが、まだ彼女は意識を手放してはいない。

 紅緋色の目は、じっと視線を固定している。


 それは彼女の、魔女として生まれた彼女の、なけなしの意地。


 メイと言う名の女の最大の毒であり、武器であり、あるいはせいぜい剥がれかけのネイル程度の意味しかない。


 嫉妬心、好きな男をほかの女にとられたくない。

 ただそれだけが彼女を、業火の苦しみの現実と心を繋ぎとめている。


「ふ、ひひ」


 彼女の、懸命な努力を。見苦しい足掻きを、まさに身近に感じ取っている。


 感情に触れながら、キンシは口で呼吸をしている。

 空気だけを循環させている。


 そのつもりだったのだが、やがてそれだけで無いことに、キンシ自身が気付くのがほんの少し後のこと。


「ひひ、ははは」


 音は遅れてやってくる、自分がいま口を大きく開けて笑っている。キンシはぼんやりとその事を考えている。


「ははは、あはははは!」


 面白くて仕方ない、全く持って愉快だった。


「あはははは! あははははは!」


 何ということだろう。女は愚かにも、自らをエゴイズムだけで支配する男を愛している。

 何ということだろう。女は愚かにも、自らの体を汚し侮辱した男をいまだに愛している。


「あはははは! あはははは! あはははは! あはははは! あはははは! あはははは! 

 あはははは! あはははは! あはははは! あはははは! あはははは! あはははは!

 あはははは! あはははは! あはははは! あはははは! あはははは! あはははは!」


 全く持って愉快、愉快。

 実にすばらしく、都合よく、ジグソーパズルさながらのピースの余り具合。


「あ……ああ」


 見開かれた目、右か左かどちらかは判らない。

 とにかく涙を一粒こぼした後。


 キンシはゆっくりと、熱さも冷たさも解らなくなった喉の奥、唇を開いて言葉を。


「気持ち悪いですね」


 呟いたかどうか、声は小さく不明瞭で要領を得ない。


 だが、声は音として、ちゃんと相手に伝わったらしい。


「……仮面君」


「………」


 彼が口を開いた、音声を発するための器官はおおむね、全てが本来の機能を喪失している。


 だが、それでも少年は言葉を、決して自分を愛さない相手に向けて。

 

 少年は、ルーフと言う名の少年は、キンシに向けて話しかけていた。


 キンシは、まさか彼の言いたい事をテレパシー的に察知しただとか。そのようなことは一切なく。


 ただ、二人の恋人の板挟みになっているさなかに、のうのうと部外者とお喋りをしようとしている。


 彼に向けて。


「やれやれですね」


 決まりきった、すでにお決まりすぎていて、言葉にすればするほど贋作感が増す。


 そんな台詞の後に。



「おい! この肉情ド腐れハーレム後宮逆さでばネズミ野郎ーっ!」


 キンシは叫んだ。



「嗚呼………」


 ルーフの耳に、離しかけた相手の、新しい自身の呼び名が遠く響いてきた。

終わりが近づいてきました。

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