君のハートにダイビング
ででいきいとでいすぼでいとうゆあはあと
残響が消え去るかそうでないか、それよりも早くに動き始めたのは触手のほうであった。
「うぐ」
魔力か、それに類するか値するかの供給源は、概ね計画通りに無事に破壊が完了したのだろう。
その事実がキンシに油断を、やらなくてはならない事柄の一つを終わらせた。事実ゆえの優越感を生み出してしまったのかもしれない。
「キンシちゃん!」
キンシは死にかけの蛙のような声を喉からこぼし、触手に体を絡め取られた。
キンシの体に手を伸ばしながら、メイは無意味だと理解していながらも、手を伸ばさずにはいられない。
その体が祭事の火祭りのように掲げられている。
何本もの鮮やかな赤色の筋が、一つの人間の体へ密集をしていた。
「ぎゅ、げっ……」
こんな相手に、このような大量の触手をもっている生き物なのだ。メイは思わず人の体から、頸椎ごと脳味噌が捩じ切られる惨劇を予想してしまい。
するべきではないと分かっていながらも、目を固くきつく閉じてしまう。
「うっ、うう」
だが、よりにもよってこんな所で、よもや自分が何を恐れる必要があるというのだ。
メイが自身の間違いを即座に叩き潰す。
そして目頭と目尻が裂けることもいとわないほどの勢いで、両の目をカッとこじ開けている。
開かれた視界のなか、キンシの口から叫び声が膨れ上がってきたのがほぼ同時。
引き千切れる音。
柔らかい髪の毛を引っ掴んで、そのまま乱暴に断絶したかのような。
ブチブチと音が鳴り響く、その後にキンシの体が地面にどさりと転げ落ちてきた。
「しつこい」
武器を握るまでもなく、実際には体を絡め取られた時にうっかり落としてしまっていたのだが。
とにかく体から、一刻も早く無礼なる触手を引き剥がしたいと。
キンシはただそれだけの欲求のままに、指先の力だけで自らの体を苛む異物を排除しようとしていた。
「気持ち悪い、キモい! 触るな!」
いつもの軽々しく、いまいち中身の伴っていない、作り物めいた言葉づかいすらも忘れて。
キンシはとにかく体に纏わりついてくる敵を、一本でも多く裂いて潰すことに集中力を割いていた。
「やっぱり……」
頭の中で得られた確信を意識の中に追いつかせるよりも早く、メイは魔法使いの元へと駆け出している。
やはり、怪獣の赤い触手はキンシを重点的に狙っているように見える。
それこそまるで人の意識を保ったままかのように、攻撃が段々と人間らしい猟奇性を増幅させているような。
先ほどからずっと、魔法使いと怪獣の戦闘場面を第三者の視点から見続けてきた。
魔女が不安の中で、思いついた予想を確かめる余裕もないままにしている。
「?」
と、ふと足元に違和感を覚える。
先ほどからずっと魔女の頭の中の大部分を占めている、兄の気配とはまた異なるそれ。
「きゃあ?」
それが何で、誰であるかだとか。
メイに気付かせる暇もなく、彼女の前方の地面から刃物のきらめきが破裂していた。
「と、うー………」
名前を呼ばれかけている、青年は小さな魔女の方を振り向こうともせずに。
彼の右手に握られている、宵闇のアスファルトの様な色彩の刃が真っ直ぐキンシのもとに伸ばされる。
「げ、がはあ」
そろそろいい加減に、腕の力だけではどうにもならなくなっていた。
頭の悪いしらみ潰しじゃあどうしようもないと。
キンシがそのことに気付いた頃には、触手はついに決定的と言える領域まで圧迫感を強くさせていた。
そこに青年の刃が、黒色の輝きが赤色の粘膜をバッサリと。
何のためらいも、迷いもなく切断されている。
「あ、あ、ありがとうございます。トゥーさん」
床にぼたりと崩れ落ちる。息も絶え絶えとなっているキンシが、青年の名前を呼びながら彼に簡単な礼を送る。
「例はいらない」
トゥーイと呼ばれた彼は、体中に怪獣の体液を多量に付着させている。
「必要ない」
しかし空から落ちてくる雨粒が次から次へと、赤色が体内に浸透するよりも早くに色を洗い落としている。
青年は彼女たちの様子を短く、しかし確信が行き届くまでに確認を終えるや否や。
すぐさま脚部に力を注ぎ込み、トゥーイは武器を握りしめたまま血液と、雨水に濡れる足元を駆け抜けていく。
「え、え? トゥ!」
いきなり彼がここに登場したこと以上に。
先ほどの轟音の正体だとか、後はどうして怪獣はキンシのことを執拗に狙うだとか。
メイには色々と気になることが、余りにも沢山ありすぎていた。
「彼の意識がトゥーさんの方に逸れました」
絞殺の危険性から脱した、恐怖心を抱く素振りもないままにキンシがメイの元へと近付いてくる。
「怪獣、と言うよりは……彼方さんたちは、魔力が多いものに強く惹きつけられる習性があります」
思考を置いてけぼりにされたままに、ぼんやりとしてしまっているメイの手を、キンシは優しくそっと握りしめる。
「最初に狙った獲物よりも、もっと大きいものが来たんです。相手もきっと混乱している事でしょう。その間を、絶対に逃さないようにしなくては」
指の力が強くなる。
このまま握りつぶされるか、メイは少しだけ期待してみたが。しかし、そんな期待が実現されるはずもない。
「このまま一気に駆け抜けます、離れないで、僕の手を離さないでください!」
あたたかい、温度と湿度に包まれている。
人間の手の平、それ以外の何ものでもない感触が指から指へ、彼女の脳へと伝えられる。
足元ではバシャバシャ、チャプチャプと。それが体液なのか雨水なのか、判別もつかないほどに混ざり合っている。
「水の量が……」
足元を目で確認するまでもなく。
足首の薄い皮膚から骨へと染み入る冷たさが、メイに物事の推進を感覚として自覚させていった。
「増えてますね、水源が近くなってきているのでしょう」
そういうものなのだろうか。
理屈以上にキンシの言葉には何一つとして虚偽の臭いが含まれていおらず、メイはただ手を光るままに足を動かすことに専念していた。
じゃぶじゃぶ、ぴちゃぴちゃ、べちゃべちゃ。
どれくらい走ったのだろう、正直もう体が限界であった。
骨はギシギシときしみ、筋肉は悲鳴をキリキリとあげ。皮膚の上からは止めどなく汗が、ダラダラと滲みだしては小さな水球を幾つも滴らせている。
だけど、そうして肉体が限界へと歩を進めるほど。思考から在るべき理性が溶け落ちるほど。
それほどに、メイの頭のなかでは一つの確信めいたものが。
宵闇が近付く群青の空、月の光にも誤魔化しきれない一番星のきらめきのように。
手を伸ばさずにはいられない、熱い信念が何処からともなく発生し、存在感を誇張していた。
「お兄さま」
肺は今にも破裂するのではないか、喉の奥はきっと焼きごてを押しつけられている程の熱を帯びている。
そうであっても。
メイはその言葉をいう時だけは、一瞬でも体の痛みを全て忘却し、腹部の底から甘い喜びがプックリと湧き水のように溢れだしている。
「…………さん、メイさん!」
名前を呼ばれている、他人に自分の名を呼ばれたことに気付いた。
その時にはすでに、自身の体は疲労の臨界点へと達していて。
動きを止めた瞬間に、内に留まっていた疲労感が熱量と共に全身を弛緩させていた。
「しっかりしてください、メイさん! 目的はもう目の前ですよ」
崩れ落ちかけている魔女の体を支えながら、キンシは彼女の耳元に必死の呼びかけをする。
「核が、揺り籠が見つかりました。きっとこの中に彼が……!」
キンシはメイの背中を丁寧に支えながら、眼前に存在する巨大な物体へと視線を固定している。
彼女たちが見ている。そこには一つの集合体が存在していた。
赤い。核であり、揺り籠と呼ばれている、まるで心臓のようにドクドクと脈を打っている。
「やはりそうでした、意識の集中するところに心は存在する。さあ、あともう少しです」
ついにたどり着いた、やっと見つけた目的。
しかしメイはそれを前に気絶寸前になっている。だがキンシは彼女に構うこともなく、言葉を終えると同時に駆け出す。
水の音が激しく連続する。
水位はすでに膝下にまで達しており、とても普通の人間では走行どころか歩行もままならぬレベルに達していた。
「キンシちゃん……」
しかし魔法使いはそのようなものなどまるで関係なしに。むしろ普通の地面の上を走る時以上の軽快さで、水の中を。
中を進む、やがて音が少なくなってきている。
「あれ……?」
米俵のように抱え上げられているメイは不思議に思い、足元に目を向けてみる。
「ああ、水のうえを走っている?」
キンシの長靴は水に飲み込まれることもなく、靴底はプールの水面のように静かな表面に触れては離れてを繰り返している。
「魔法使いの秘儀、二級レベル難易度、です」
一応技名があるらしい。
だが方法の一つ以上に、メイには気になることが一つあった。
「トゥ……は」
抱え上げられている視点からでは、自由のきく視界は限定されてしまっている。
それでもメイは、青年の姿の安否に突き刺すような不安を覚える。
これは、きっともうすぐ会える人物のことも。関係していることに、魔女はまだ気づいていない。
「彼は大丈夫です」
アメンボのように水の上を走っている。
キンシはメイの小さな体を片腕に抱えながら、走る呼吸の合間に言葉を発している。
「彼は……あの人は、この町で誰よりも……彼方さんと戦うのが上手、ですから」
声にはやはり迷いは存在していない。
人が嘘をつくときの、ある種のフィクションめいた造形美など。
そんなものは一切含まれていない、真実と確信のゴツゴツトした岩肌の様な不恰好さ。
だだそれだけが存在をしている。
「……!」
キンシはそれ以上の言葉を必要とせずに、魔女の体を抱えたまま深く息を吸い込み。
足の裏、長靴の底に意識を集中させる。
ぱしゃん、軽やかな音と共に赤黒い飛沫が周囲に飛び散る。
下方で水滴が波紋を描き、揺らめきが互いに暗く重なり合っている。
上昇の重みは瞬間に通り過ぎ、次に彼女たちの体は落下の手前、無重力に全身を包み込まれている。
右腕の熱さを腹部に感じている、メイは左側の聴覚で金属の音を感知した。
目を動かせば、キンシの左手に槍が握られている。
武器は指のなか、体の一部と変わらぬほどに馴染み。
「……」
息を吸い込む、穂先は下に向けられている。
攻撃の意識は鋭く、濁流のような激しさを。
「あんだらあ!」
謎の掛け声、獣のいななき程度の意味しか有していない。叫び声の後に、キンシは真っ直ぐ槍を目的の場所へ。
核へ、揺り籠へ、心臓のようにドクドクと波打つ肉の塊へ。
ただ一つ、一人の少年に会うために彼女たちはその内部へと体を、意識を沈める。
気圧の変化にとんでもなく弱いのでした。




