瓦礫と砂の同窓会
ろんぐたいむのうしい
単純な形容として、落ちてきたという言い方はその物体に相応しくはないと。
軽やかでありながら、しっかりとした肉体の重みによる音をたてつつ。自分たちのほうに向かってくる、人影を見てモアはひとり考えている。
「……………」
三、二、一メートル、やがて大きな人の影は地面に。
元々は地下室の床があった。しかし今は崩壊の限りが尽くされていて、辛うじて残されているとすれば砂塵と幾つかの瓦礫その他。
沢山の異物が転がり落ちて、きっともう二度と本来の役目を果たすことは叶わないであろう。
残骸にまみれた地面の上に、一人の人間の影が伸びる。
「あなた、は……?」
よもやこのような場所に居るような人間が、どうして、何故に。
「こんばんは、あなたはどうしてこのような所に」
仮にモアが、この世界に稀と思わしきポジティブ思考の持ち主であったとしても、きっと目の前の青年の異常性を無視することは出来なかったであろう。
「……………」
沈黙、少女の耳に成人男性特有の喉の奥から響く、嵐の夜の風音の様な呼吸音が微かに聞こえてくる。
はたしてその音が誰のものだったのか。彼女の背後に構えている、ナナセによるものだったのか。
それとも、目の前、少女めがけて無言で歩み寄ってくる彼のもの。
「あの、もしもし?」
青年は真っ直ぐモアの方へと、無表情で近付き。
その動作の余りにも、度が過ぎると思えるほどの滑らかさ。
まるで町中の雑踏ですれ違う、ただそれだけの様な、異常ともとれる自然な動作。
「こ、こんにち、じゃなくて……」
無表情、その目に移るのは穏やかささえあったかもしれない。
モアは思わず、ここがいったいどういった場所で、自分がどのような女であるかだとか。
瞬間的に忘却してしまい、故に呑気に宵の挨拶までしてしまっていた。
思考を働かせるまでもなく、必要も介さぬほどに、モアは自らに一片でも油断を生んだことを。
「うぐっ……、ぐうう……」
気が付いたときには、自らの襟首を青年によって鷲掴みにされていて。僅かに、辛うじて呼吸だけは確保されている程度。
青年に首を絞められながら、モアは自らの怠慢と失着を、唇から洩れる唾液の雫に後悔を味わっている。
「……………………………………」
青年は、見た感じでは浪音……。そういう名で呼ばれる、イヌ科の特徴を体に宿した人種に見える。
年齢にしてみればすでに少年の日々は遠くへ。
そろそろ年齢の深みと苦みが、肉と皮膚の上に立ちのぼらんとしている。
似たような年齢の知り合いが近くに、確か何人かいた。
いくら思考回路が混乱を極めているとはいえ、こんな緊急事態に考えることがこんな事だとは。
唾液が唇の端から、顎へと伝うのを感じながら、モアは自身に深々と溜め息を吹き付けたくなる。
「質問を実行します」
青年の体から声が聞こえてくる。
それは酷く調子の外れている。少なくともこの国の言語を使用してはいる、それだけは許容できるが。
しかし、そうであったとして、むしろ見知った言語であると認識すればするほどに。
青年の声はあまりにも、むしろ不快感を感じさせるほどに、音色が崩れて不協和音の域に足を踏み入れかけている。
「質問に答えてください、あなたにはその義務があるとわたしは主張する」
ケロケロと、とても生存本能に適していないカエルの求愛行為みたいな。
不気味なリズムの声で、青年はモアの首を締め上げながら、何かを追及しようとしている。
「質問に答えよ。事象についての究明を私は求める、縫い取りの線はすでに真珠の領域を超えた」
「な……なにを?」
それでも、全く聞こえないという訳ではない。
だからこそ余計に、モアは青年の発する言葉の並びが不可解と、意味不明以外の何も思考できそうになかった。
「このような戯曲の不協和音は受け入れざる沈黙と照準。酒の一滴は泥の雫に永年に敗北を続け、我々はこのままだと本懐の崩壊をきたす芳醇は枯れ果てるであろう」
口元を重苦しい、防毒マスクのようなもので覆っている。
青年は紫苑の花と似たような色の左目で、じっと少女の体を射抜くように睨みつけていた。
「質問に答えてください」
「お、落ちついて、まずは」
「質問に答えてください」
そろそろ脳への酸素の供給が足りなくなってきた。
さらに、いつの間にか首へと伸ばされている指の圧迫感は。どんどんと強さを増していっている。
「お願い……やめて、離して」
「質問に答えろ」
自身の感情の動きにも気づけていないのか、青年は相手の要求を聞き入れようとせずに。
「拒否は認めない、さもなければ殺害をする」
顔色と同じような色の眼帯を右目にはめている、青年はいよいよ決定的な意思のもとに言葉を使い始めた。
瞬間に、彼の体は巨大な水の塊に押し流されるかのように、横倒しで吹き飛ばされていた。
圧迫されていた指から解放される。モアが地面に落ちると同時に。
「はいだらあ!」
傍観を決めこんでいたはずの、何故か今になって攻撃を開始した。
暗闇に近い、辛うじてお互いの存在感を察知できる程度の空間。
そこでナナセによる、青年への容赦ない追撃が行われようとしていた。
猟奇的な雰囲気の、赤い鋭利なヒールが青年めがけて放たれる。
けり落としが彼の頭蓋骨を破壊しようとする。
機能不全を起こした眼鏡では、視界は良好とは言えない。
だがナナセの攻撃は、その様なハンデも感じさせないほどに。他の、それこそ前身の肌を駆使した感覚の鋭利によって、むしろ視覚を必要としないほどに研ぎ澄まされいた。
かすむ世界、だが獲物は確実に攻撃の先端へと向けられている。
あと、二秒ほどの差でナナセは相手の体を破壊できた。
「………………」
だがそれ以前に、青年は横倒しになっていた姿勢から起き上がり、すぐさま体制を整えながら安全区域まで退避しようとする。
「チッ」
外れた、逃げるつもりか。
そうはさせないと。
ナナセが武器を強く握りしめたのが、モアの体がようやく地面の上に落ち着くのとほぼ同時。
少女の耳に、金属と別の金属が激突する、爽やかさすら感じさせる摩擦音が炸裂する。
「いきなり初対面の人の首を絞めてはいけないと、ママに教えてもらわなかったんですかあ?」
最初こそ不意打ちを決めれたとしても、少なくとも突発的な能力においては、青年の方が勝っていたらしい。
ナナセは、決して油断ならぬと。
顔がよく見えない相手へ、全身に緊張感を張り巡らせながら。
肉の筋をがたがたと痙攣させつつ、相手への挑発は忘れないよう努めている。
「どうしたんです? せっかく素敵なご挨拶をしたのですから、名前くらい名乗ったらどうです」
硬直した肉に、奥歯がぎりぎりと摩擦する音が鈍く低く反響する。
ナナセの持つ薄い刃が白く輝き、青年の顔を。
先ほどの不意打ちハイキックよって、顔面に装着されていたガスマスクは剥がされていた。
しかし依然として顔は見えない。表情が判別できないことは相手の動向を知る選択肢が一つ減ると同等である
だが分からないものは分からないとして、ナナセは早々に諦めをつけた。
それ以上に、そんなことよりも、彼の胸のなかでは水に一滴の墨を垂らしたかのように。無数の場景がゆっくりと広がり、瞼の裏の暗闇に瞬いては消えている。
例えば、例えば、だ。
今、仮にこの腕の力を弱めたとしたら。自分はこの、水墨を練り固めたかのような剣で切り裂かれるのだろうか?
ナナセはそんなことを、決して、限りなくありえないことを考えては。次々とイメージを否定していく。
どうしてこのようなこと考えるのか、ナナセは不思議に思う。
下らぬタラレバに思いをはせているのは、ナナセは自身の内に生まれた思考に違和感を覚える。
「どうしたんですか、さっきまであんなにべらべらと話していたのに」
戸惑っているのだと、一応挑発の体を意識する。
言葉の裏でナナセは、自身の感情に納得を無理やり塗り固めた。
いつもと違う、普段の戦いとは大きく異なる。だからこんな事を考えているのだと。
まさか、この期に及んで目の前の相手を着ることにためらいを抱いている。だとか、そんな事など。
ナナセには到底、自身にあたかも人間らしい抑制力があるなどと、とてもじゃないが信じることは出来そうにない。
「……………」
ナナセが迷いを適当に丸め込んでいる。
その間にも青年は沈黙を保っていた。
静けさは一秒、時間を経るほどに。有るはずの無い体積を、窪みにたまる雨水のように増加している。
呼吸は苦しくなる一方で、しかしナナセは体のなかで新芽が空気を吸い込むかのような。
新鮮とも言えてしまいそうな、心持ちが生まれつつあるのを自覚している。
そしてそれは相手も同様であると、彼らは言葉を必要としないままに。何故か、いわゆる信頼的なものによって、限定された共感を生み出しかけている
はたして、どう形容したものか。
刃の触れ合いと震えに彼らはいつしか互いの感情を、一種のテレパス的な直感で共有していた。
「……………」
青年が呼吸をする。力の流れが変わった、ナナセはすぐさま刃を翻し、まずは再び体制を整える必要があると。
やはり相手も同じ事を考えていたらしい。
靴の底が砂塵を食み、乾いた摩擦音が地に這う
「……」
ナナセは刃を構え直し、内側に滞っていた空気を一旦吐き出す。
瞬きを一つ、瞬間的な暗闇の後の世界。
そこには正根の姿が、墨色の両刃を構えている腕の緊迫感はまだ存在していた。
「なんなんでしょうね、一体……」
ナナセは考える。
一連の動きに無駄らしいものはほとんど感じられなかった。
自身の攻撃力の至らなさもあったであろうが。
しかし、それ以上に青年自身のポテンシャル、経験の層はかなりのレベルに達しているものであると。
刃と刃の触れ合いから、肉の緊張が地に染み入る水のように。
互いが互いの脅威を、一本の細く伸びる蜘蛛の糸に似た形の意識で同調をしている。
「謎だ」
短く声を発している。
ナナセが呟いた言葉を、やり取りを彼の後方で見守っていたモアは、てっきり彼自身の感情についてのコメントだと。
そう思っていた、それは勘違いであると訂正の必要性も解らぬままに。
ナナセは今、自身の白く輝く刀身の向こう側にいる人間に関して、それ以外のことは何も考えられないでいた。
「君は」
まただ、この感覚は彼にとってすでに、人生において何度か経験した出来事。
己よりもはるかに優れたもの、強いもの、美しいもの。世界をより色めき立たせる、面白い存在。
存在に出会った時の衝撃は電流よりも早く、胸の内の心筋は瞬く間に炭と化し。後に染み入る感情の水分が、炭と溶けてやがては劣等感の濁りを生み出す。
どろりどろりと、夜よりも暗く深い濁流は呼吸を奪うほどの閉塞感があり。しかし同時に、乾いた体に滑り込む冷水の様な、諦めと。
それら全てを凌駕するほどの、太陽よりも熱く燃え盛るのは好奇心であった。
沈黙が彼らの、武器と武器との間に次々と累積していく。
「あら?」
内に滾り滞る感情の波、気配に圧倒されてついつい呼吸を忘れかけそうになっている。
モアはふと、上から降り落ちてくる光源の変化に気付く。
上方でどこかが、本来の形を保てずに崩れていたらしい。
大粒の霰の如く、瓦礫がいくつか落下してきた。
それでもなお、武器を構える彼らの動向は変わらず。
しかし周辺による変化は、彼らの意識とは関係なしに起きている。
「光が……」
この地下空間より遥か上、かつてはこの場所に居たであろう。
少年、だったもの、から発せられる光。
炎のように揺らめき、圧倒的な量はまるで災害じみた存在感を放っている。
赤い光が、崩壊した天井だった割れ目。
その隙間から彼らのいる場所を、人間の目でもそれとなく見ることのできる程度には、明度をもたらしていた。
「明るくなった、わね」
そろそろ沈黙に耐えきれなくなってきた、モアが場違いなまでにそのままの状況報告をしている。
しかしどの道、彼らにはその言葉は聞こえていない。
聞くことができなかった、耳をかたむける余裕など、欠片も持ち合わせていない。
「あ、あれ、あれあれ?」
集中力に亀裂が走る、一度生まれた崩壊はもう二度と繕えず、後はもう崩壊を待つのみ。
「君は」
だが構うものか。
武器なんて物騒なものを振り回す必要などなく、違和感の正体は勝負の始まりの時点で決まりきっていた。
「ああ、そうだったね、うん」
ナナセは武器を下ろす。雨上がりの傘のようにそれを持て余し、それ以上に顔面の肉に気まずさが溢れかえろうとしている。
「久しぶり、何年ぶりかな? ティーンエイジャーだった時以来だから……。君は、」
あまりにも相手の変化が少なすぎる。
同時に自身の変わり様に、ナナセは自分自分を意外に思うほどに懐古の情に包まれていることを、ひとり静かに意外に思ってた。
浪音の方々は、全体的に肉などのたんぱく質を好む傾向があるそうです。




