少年メタモルフォーゼは林檎色
緊急を要する事態でしょうか。
どこでもない、他でもないこの世界で。
メイは声を聞いたような気がした。
黄色いビニール素材のフード。
特に理由もなく、ただ何となく持ち込んだヘッドホンで耳元を固定している。
左右に備わっている聴覚器官のそばを、大量の風と雨水が通り過ぎている。
ごうごうと、獣の唸りよりも激しく力強い音色。
その中で、メイは確かに誰かの声を聞いたような、そんな気がしていた。
「キンシちゃん、何か………?」
下方で止めどなく流れる都市の風景。
暗闇に包まれたホームグランドを足元に、キンシは彼女の消えりそうな声に耳をかたむける。
「ん? どうしましたかメイさん」
じっと自分の顔を見上げてくる。
左右の両目は丸く見開かれ、ほんの少しの間虚空の中で揺らめいて。
「いいえ……何でもないわ」
口を閉じて、そのままその場に、翼の動きに振り落とされないよう身を屈めている。
「まだ到着しないんですかあ」
彼女のささいなる挙動に、キンシが違和感によって首をかしげている。
彼女たちから少し離れた所。
空を跳んでいるシグレの頭部辺り。
エリーゼがさして急いでいる風にも思えない声音で、シグレに問いかけている。
「ツたえられた目的地は、モうすぐそこだと思うけどー?」
翼を雄大に上下させていながら、シグレは質問主だけに聞こえる程度の音量で返答をしている。
「ジっ際飛んでいて、ナんだか肌がぴりぴりしてきたし。ショう直もう帰りたい、コのままUターンしたくらいでさあ」
「まあまあ、いまさらそんなこと言っても色々と手遅れですって」
どうしてその巨体で、しかもどう見ても非現実的な飛行形態で、人並みの会話が可能になっているのか。
だとか、その辺の事情については、あえて深く追求しようとしない。
魔術師たちは吹きすさぶ風にレインコートをはためかせながら、目的地の接近を地図で確認するまでもなく肌で実感していた。
「わざわざ確認するまでもなく、確かに目的の場所はもうそろそろですけどね」
「ずいぶんと確信的だな」
この移動方法はすでに経験済みなのか、オーギは地面の上にいる時と大して変わらぬ様子で。
遠くを見やる女性魔術師に質問をしてみた。
「前にも来たことがあるんすか?」
「んん、まあね。捜査の関係で場所自体には何度か足を運んだことがあったんだけれど……」
若い魔法使いの問いかけに、この場合においては虚偽を含める必要はなしと。
エリーゼはそう判断しながら、しかしどうにも語感に濁りを含ませずにはいられない。
「何だよ……歯切れ悪いな」
「うーん、なんと言うか、ねえセンパイ?」
オーギからの追及に、そして自身の内側に滞る違和感に対し、どうにも答えを見つけられないでいる。
「センパイ、どうでしょうね? アタシはさっきから鼻の先がムズムズして仕方なくって」
じっと視線を向けてくる後輩魔術師。
「いや……オレにお前の違和感の正体は解らないな」
至極まっとうな受け答えの後。
「ただ……違和感に関しての意見には、オレも賛同を送りたいところだ」
しかし、エミルの方も単純に彼女の意見を否定できないでいる。
「どうしたんです?」
彼らが話し込んでいる中に、会話の空気の変化を察したキンシが目敏く割り込んでくる。
「何か……、ふつごうでもでてきたのかしら」
キンシに伴われる格好で、メイが魔術師たちの姿を不安そうに見上げている。
「ああ、君たちも感じない? この違和感」
質問に答えるよりも先に、エリーゼはちょうど良いタイミングで参考対象が近付いてきたと。
「ほら、ビンビンに肌を刺激、ちくちくトゥクトゥクしちゃってる」
正体不明のジェスチャーで心情を表現しようとしている。
女性魔術師の挙動にメイが戸惑っている。
その隣で。
「違和感……ですか。確かに、何か得体のしれない空気の変化を感じますね……」
キンシが生真面目に問いかけについての考察を、頭部の聴覚器官をぴこぴこと震わせて積み重ねている。
「雨の匂いでしょうか? そう言えばこんなに宵が深いのに、ここまで雨が降り続けることもそうそうないことですし」
鼻先を空中の伸ばして、キンシは胸の内に生じた感覚の正体を掴もうとしている。
「特にあの辺り、なんだかものが腐敗して腐乱しているようなにおいが……」
どのような臭いなのか、形容するには情報があまりにも少ない。
それよりも指差した方向、爪の先端。
方角を追いかけるよりも早く、エミルの脳内に蓄積されていた土地勘が場所との整合性を結び付け。
驚くよりも、事実をそのまま伝えようとしている。
「あ」
気付いたのが誰が先だっただろうか、それこそまさしく、皆一様にタイミングよくその場所を見ていた。
その後に声をあげたのは、エリーゼがメイ、あるいはその他の誰かだったのか。
いずれにしてもそういった事実は、目の前で繰り広げられた事象の展開に何の意味も為さない。
「きゃああ?」
風とも雨とも異なる、あからさまに自然的な現象とは呼べそうもない。
前方、少し斜め左側から吹き付けてきた暴風に、メイは反射的に目を細めて全身の肉を硬直させた。
「ナんだあれ!」
まさしく現状の形容に相応しい、それ以外の感想など何も思いつかない。
そういった感じの驚きをシグレが叫んでいる。
「バく発……。タて物がいきなり大爆発をした……!」
シグレはたまらず翼の推進を一時停止させ、落下をしないよう空中でホバリング運動をしている。
バッサバッサと、主翼による上下の揺れが激しい。
およそ観察に適している環境とは言えずとも、それでも彼らはお構いなしに光景をしっかりと視認している。
「なんだ……ありゃあ?」
遠く、ギリギリ人間の視界に確認できる程度の距離。
街灯の光が通じていなければ、月光も星明りもない宵闇では何も見えなかったであろう。
限りなく無に等しい闇夜のなか、オーギは眉間にしわを寄せて焦点を定めようとしている。
「何か、赤く光っている……」
いかなる色よりも濃く深い、黒色を引き裂くように現れている。
「デカい……ものすごくでっかい、……あれは生き物なのか?」
若い魔法使いの言うとおり。
都市の暗闇から突如として赤色の、巨大な怪獣のごとき物体が出現している。
オーギはどうにかして、言葉と認識によって視界の中の者を形容しようと試みている。
「ワケわかんねえ……何だあの気持ち悪い、タコの化け物みたいなのは」
だが、同時にどうしようもなく。
彼は目にしている事物が。
赤く燃える、巨大な大樹のようにも、あるいは荒れ狂う炎の柱のようにも見える
あれが、あんなのは、自身の理解から遠く離れた領域の存在であると。
彼はそう直感していた。
そんな、こんな当たり前の事、誰に確認するまでもない。
意味不明、訳が分からない。
彼自身の冷静で冷酷なる無意識が、溢れる問いについて一つだけの解を導き出していた。
「どうにもこうにも、語るに及ばず、だわね。ねえ? シグレさん」
動揺する彼に構うことなく、エリーゼは他でもない彼の名前をゆっくりと唇の上に乗せている。
「どうです? アナタにとってはとても見覚えのある、身に覚えのあるものじゃないかしら」
もうすでに、すっかりドラゴンの搭乗に身を慣らしているらしく。
パンプスの靴底を軽快かつ軽妙に鳴らして、白い鱗を踏みしめながら。
エリーゼはシグレに、にこやかに話しかけている。
「どうです? アナタから見てアレは、どう見えているです?」
質問にどう答えるべきなのか。シグレは飛び続けながら息苦しく、体の疲労とは関係の無い迷いに苛まれている。
「ねえ、どうなんです? 同じ冥人として。大型の個体として、突然年に出現したあの巨大な、赤色の触手まみれの化け物を。ぜひともアナタからのコメントを……」
畳み掛けるエリーゼ。
そんな彼女に。
「コラ」
エミルが表情を浮かべることなく、わりかし強烈な拳を脳天に衝突させていた。
「これ以上、名もなき善良な市民を責め立てるマネをするんじゃない」
不遜なる後輩魔術師をジロリと見下ろしている。
彼の全身にはすでに、この後すべき行動についての予備動作と活力に満ち溢れている。
「そんな下らんことしてないで、急がんとこのままじゃ市民へ実害が及ぶぞ」
すぐさま手の平を後輩の柔らかい毛髪から離し。
拳は強く握りしめたまま、エミルはドラゴンの背中の縁へと足を進める。
「幸い……と言うべきか。この辺りは住宅も少ない、いわゆる廃材置き場ばかりが集まっている。……とは言うものの──」
「最悪の場合を想定して、的確で迅速な対応を。ですね」
先輩魔術師の背中に続く形で、エリーゼもいそいそと体を下方の風景へと運ぶ。
「あ、」
メイが次にまぶたを開けた。その時には既に魔術師たちは足を動かし、体をドラゴンの背中の外へ。
なにもない空中へ、暗闇と雨に染まりきった空へと身を投げている。
叫ぶ間も無く、あっという間に。
メイは消えていった彼らの姿を、視線だけでも追いつかせようとしていた。
「じゃあねえ、可愛いバードちゃん」
下に向けていた視線、メイは上から聞き覚えのある女性の声が落ちてきたことに、意識を追いつかせられないでいた。
「あらためて、こちら側から君たちに出来たことは、あまりにも少ないと思われるけれど」
魔術師たちは背中に光る翅を。
昆虫の背中に生えているそれと、とてもよく似た形状の魔術を使いながら。
当然のことながら、魔術師たちは魔術を使って都市の寂しい上空を飛んでいる。
「いいえ、そんなことはありません。貴方たちの協力がなければ、僕たちはここまで辿り着くのに一度の雨の巡りだけでは足りなかったでしょう」
要するに時間短縮の役にたったであろう、その旨の礼をキンシは魔術師の二人に簡単に伝える。
「ありがとうございました」
深々と、雨に濡れた黒い頭を魔術師に向けて下げている。
「いいのよいいのよ。アタシ達にとっても有意義な取引であったことには、変わりないからあ」
トンボの成虫みたいな、薄い浮遊用魔術をパラパラとはばたかせて。
「それじゃ、アタシは仕事行ってきまーすっ!」
なんとも楽しそうに、愉快そうに若い女性の魔術師は都市の風景のなかへ、軽やかに滑空していった。
「一般市民の安全を第一に確保、か」
女性の声が下方に溶けていく。
その様子を眺めながら、オーギが無表情に呟いた。
「魔術師様も大変だな。まあ、俺らはこれからもっとメンドくせえことをするつもり、らしいけどな」
言葉を耳に、魔法使いたちは互いに示し合せるまでもなく。
挑むように、牙をむくように、彼らは巨大な赤い怪獣に目を向けていた。
時間がない。




