赤色の枝を圧し折りましょう
れっつくらっぷすぶらんちずおぶざれっど
咀嚼音が聞こえる。唾液と汗と、涙や鼻水もあったかもしれない。
幾つもの体液の香りが一つの場所に集中している、
いや……、流石に歯の音は聞こえなかったか。
何にしても、いずれにせよ体のなかに「それ」が触れた瞬間にはもう、事象は開始を起こし始めている。
「目を逸らしてはダメ」
少女は、モアという名前で呼ばれている彼女は、事象からひと時も目を離さないよう。
瞬きの一回ですら惜しむように、その場所を視認し続けようとしている。
「目を逸らしてはダメ、あたしは見続けなくちゃいけないのよ」
彼女は、この場における己の役目を果たそうとしている。
事象を、肉眼によって、肌によって、耳によって脳によって。実体験を記録する、それが少女の役目で、それ以外に理由は存在していない。
とは言うものの、建前を頭で理解してたつもりであったとしても。
それでも、だからと言ってあの光景が許容できるものだとは。
そのような思考に割り振れるほど、彼女はまだ己の内に異常性を見出せてはいない。
「しっかりしてくださいよ、モアお嬢さん」
気が付かないうちに、彼女が意識をしていない間に、その体からは基本の活力さえも失われていたらしい。
ふと顔を上げればナナセの顎が。
少女の体を片手で支えている男性の顔が、揺れる金色の前髪から垣間見えている。
「こんな所で倒れていたら、今後の展開に不安をきたしてしまいますよ」
彼なりの、モアに向けての発破のつもりだったのか。
「それにしても壮絶ですね、あの子もさすがに、ここまで酷い思いはしなかったんじゃないでしょうかね」
だがどうにも、どうしてもその声音は、言葉づかいは緊張感に欠けていて。
目的も行動の方針もよく見えない、いまいち没入の感覚が掴めそうにない。
「こんなすごいもの、生きているうちに何回見れるかどうか」
ただ一つ、それとなく明確なのは、彼はこの状況を否定しようとはしていない。
それだけは少女にもなんとなく察せられた。
「すごいかどうかはどうでもよくて、重要なのはこの後の問題よ、ナナセ」
名前の部分にことさら気持ちを、おそらくは相手に通用しないそれを、じっくりと込めながらモアは短く息を吐く。
「このままだと救援を待たずとして、殿下の精神はゴミ捨て場の雑誌よりも悲惨な状態になること待ったなしよ」
集団より離れた位置、混乱に乗じて二人は部屋の隅、出入り口にあたる場所に体を並べている。
「いいえ……、むしろもうすでに手遅れかも」
彼女にしてみれば、予測はなんのごまかしも含まれていない、心からの杞憂であった。
自分が、こんな安全区間でいくら心配しようとも。
意味などないと、他でもない彼女自身が訴えかけている。
「最悪の事態を考慮して、やはりこちらから先に行動を開始するべきではないかしら」
それらの声、紛うことない正真正銘の心情の一つ。
彼女は声を無視して、片っ端から否定を叩き付け、近くにいる自らの部下に同意を求めようとした。
「いいえ、それには同意できません」
しかし男性は彼女の意見を受け入れず、否定をしている。
「彼に内包されている物語は、まだその起爆スイッチに手を触れた、それまでの状態でしかないのですから」
ナナセと彼女に呼ばれている、男性は視線をじっとその場所から逸らさない。
「何を言って……?」
形容の意味するところが理解できない。
とりあえず男性の方を見ていれば、彼に話しかけていればあの光景を見ずにすむ。
己の本心に彼女が気付く。
それよりも早く。
「あ、そろそろ始まりそうですよ」
デパート屋上のダンスショーの開幕を伝えるかのような、そのぐらいの軽快さで。
ナナセが言葉を発する、ちょうど同じようなタイミングにて。
「うう ─── う、ああううー」
モアの耳に。
与えられた仕事さえも全うできず、大事な約束を破って。
目を逸らしている。
しかし視界は意識で遮断できたとしても、音だけはどうしようもなく拒絶することのできない。
「あがぐ、ぼぐ、ご、ぐ」
少年の声が聞こえてくる。
モアとナナセ、二人の人間にとってのクライアント対象に当たる人物。
彼の周りでは音が途切れることはない。
地面に椅子ごと横たわる格好で、彼に一人の男性が話しかけている。
「───。………───」
少年とは異なり、男性の体にはまさしく余裕と安全が満ち足りている。
小声で、囁きかけるように話しているため、モアのいる場所からでは声は到底聞こえそうにない。
男は笑顔で、右手にフォークのような道具と、左手には。
あれは、白い皿のように見える。
まさか本当に、陶器の皿を用意したわけではないだろうが。
しかし器具の色合いは、視覚的にも絶大な効果を発揮しているとは確かで。
円形の中心にバランス良く配置されている。
柔らかい物体たち。
切り取られた欠片の幾つか艶めきと液体の筋は、まるでそれらしい一つの作品にも、見えなくはない。
「………───!」
男性は笑っている、そうすると口元にえくぼがポツリと影を描いている。
彼は少年の口元に運んでいたフォークを一旦離し、先端にまだ残っている欠片で皿の上の汁を掬い取る。
沢山の細胞の集まりによって構成されている、少しだけ粘性のある汁はフォークに纏わりつき。
捕らえきれなかった雫が、欠片の表面をつたってポタポタと、皿の上に吾亦紅の様な模様を描いていた。
男は口元に悩ましい微笑みを湛えたまま。
まるで愛しい人に美味しい、デミグラスソースたっぷりのハンバーグステーキを食べさせるかのように。
フォークは口のなかへ挿入され、ねじ込まれた先端から滴る液体が少年の口の中に。
味が広がる、彼は肉の欠片を認知する。
彼には自由がなかった、逆らおうとしても、それ以上の新しい欲望が彼の体に膨れ上がり。
膨張は止めどなく、やがて臨界点すらも越えて。
「あ」
ついには彼の、ルーフの体のなかで一つの限外が破壊された。
「あ、あ、あああ、ああああ、ああああああ」
唇を中心に、肉体の全てが拒絶のために動いていた。
受け入れるわけにはいかない、今はただ耐えて、後からどうにかして。
拒絶をしなくてはならい、するべきであると。
肉が唇に触れて、内側に入り、歯と舌の上に味が広がる。
もうすでに逃げ場など存在していないと自覚していながら、しかしルーフはまだ信じていた。
瞬間の前、まだ彼は自分が信じるべき、望む姿であることを信じ、信頼を置いていた。
前、だがそれは過去でしかない。
過ぎ去った過去は二度と取り戻せない、昨日は永遠に失われたまま。
後、最後に人間らしい意識が連続を保っていた。
自らの意思で口の中の者を、他人の体のなかに入っていたはずの、「それ」を。
飲み込んだ、ルーフは味に。
味に、確かに、否定などできない。
喜びを感じていた、美味しいと思った。
思考は脳の内側から芽生え、表層にあらわれた瞬間に意味も理由も全て薙ぎ払う。
「うあ、うああ」
真っ新になった感覚。
卵の殻を割った瞬間、羽毛にも包まれていない雛の肌はこのような感覚を味わうのだろうか。
何時か故郷を襲った大寒波、目が覚めて窓の外を見た時。
一面の雪景色を目にした、あの時の感情。
ルーフの心はそれらを上回るほど。
どこか爽快感を覚えるほどに、一つの強烈な痛覚によって完全なる統治がなされていた。
「いい、いいい! 痛い、痛い!」
額の上に巨大な塊がある。
集団にやられた、燃え盛る金属の塊よりも厚く。
そう思えば、圧縮された二酸化炭素が敷き詰められた箱に、顔面をぶち込まれたかのような。
暴力的な冷たさ、しかしすぐ後にまた懐かしい熱が蘇っては消えて。
繰り返しは止まらない、痛みの種類は膨張宇宙の広がりに匹敵するほどの増幅を続ける。
永遠に終わらない、痛覚の連続はルーフの体から時間の感覚を奪った。
「いやだ! たすけて、いたいよ!」
永遠とも思える、信じてやまなかった。
しかし実際にはほんの十秒にも満たぬ短さ、少年の意識を置き去りにして、体の感覚は痛みの発生源を。
顔面、前頭葉の辺り、額から痛覚の根源たる衝撃が発生していると。
少し離れた、無意識に近しい何かが冷静に判断をしている。
額、そこに刻まれている痣から熱が発生している。
熱の量はまさしく炎そのもので、あまりの激しさに体のなかから虚構の冷たさを生み出そうとしている。
思えばそれは防衛本能だったのだろう、秒針の後ろに取り残された無意識が悲しげに溜め息を吐いていた。
「もえている! もえて、からだが………体が!」
やがてルーフは、本当に自身の体が本当に燃えていることに気付く。
虚構ではない、フィクションも誤魔化しも、守られるべき安心など何処にも存在していない。
自らの体に炎がまとわりついている。
熱は彼の肌の上を滑り、炎は勢いを一切失わないままに。
「溢れる………溢れる!」
言葉が自分のものであるか、それとも他人の口から放たれたものなのかすらも判別できない。
いつしかルーフの体は地面から離れ、暴発する熱に巻き上げられる塵のように。
彼の体は痛みを伴う熱の塊に纏わりつかれ、重力もない、空中にぶら下げられている。
何かが崩れる音がする、木が破壊される音。
椅子が壊れたのだと、見るまでもなく音だけで分かった。
自分の体はついに椅子から解放された。燃え盛る炎の量についぞ耐えきれなかった、哀れな残骸がバラバラと床に散乱する。
「嗚呼………我が子よ」
皿とナイフを解剖台の上に置いて、自らの同じ名前を持つ人間が嬉しそうに瞳を潤ませている。
「美しいな、まるで古代から現世に名を残す彫刻のようだ」
宙ぶらりんに、汗と鼻水と、後は涙と血も混ざっているかもしれない。
これのいったいどこか、熱の塊によって構成される。さながら温度によって作られた巨木。
枝を四方八方に伸ばしている、四肢は枝の一本一本に完全なる支配をゆだねている
赤々と、分泌物が乾燥したものを積み上げ、練り固めた。
先端が手首に、腕に肩に食い込んでいるのをルーフは目で確認する。
これの、どこが。
この汚れきった赤色が、一体どうしたら美しいと呼べるのか。
ルーフは自分と同じ名前の人間にまるで、一切共感が出来なかった。
あつくて溶けそうです。




