右手と右頬に意味不明
おんるぐぁるりべんか
刃の感触は今でも思い出せる。
ルーフは自らの手の中に、感触を再生していた。
刃物、金属の結合と集合体が織り成す重さ。
手の平に吸い付く木製の柄、筋を描いて滴り、やがて手首に雫を垂らす。
ポタポタ。
ポタポタ、ピチャン。
液体は汗と交わり、しかし体内に回帰することなく。静かなる拒絶の中で、肌の上を滑り落ちていく。
水分が落ちる音、人の体に会ったはずのものが、溢れて零れて地面に落下する。
ルーフの耳はその音を聞いている。
水分とその他の、内臓的な成分が大量に含まれた液体が落ちる。音を聞いていた。
落ちている、音は耳を這い出て、顎の骨を振動させ、そのまま眼球の奥へと沈み込む。
「………泣いているのかい」
言葉が聞こえてくる。
音を、男の声以外にはあまり想像のいたらないような音色。
それにルーフの理解が追い付くよりも早く、肌の下の神経が異物の正体を情報として確信する。
「………」
ルーフは涙を流していた。
目を閉じたままに、瞼の裏の暗闇はいつしか彼に現の狭間を、現実交じりの夢を垣間見させていたらしい。
夢見心地の浮遊感、フワフワと現実逃避に使っていた時には理解できなかったこと。
こうして、他人の声によって本物の、リアルに引き戻された。
それがいみじくも必然的に、ルーフは己の夢想をより明確に判別できるようになる。
「嗚呼、嗚呼、嗚呼………」
開きかけたまぶたの隙間からは、まさしく傷口から血液が溢れだすのと同じように。
涙が、あとからあとへと止めどなく流れて、落ち続けている。
言葉も発せられない、ただひたすらに感情が涙と言う排出物を形成し、肉体に許容しきれない要素を吐き出している。
きっと今の自分の顔は、血と汗と涙と鼻水にまみれてグシャグシャの、マヌケな意味不明になっているに違いない。
予想は容易にできる、そのうえで、それでもルーフは泣くことを止められなかった。
涙は止まらない。
全身の水分は決定的に不足している。もうすでに呼吸の合間に触れる空気ですら、喉の奥の粘膜にヒリヒリと焼けつくような痛みをもたらしていた。
このままだと己の体は緩やかに、しかし確実に全ての水分を失い、やがては夏の日の下に駆れる雑草のように。
枯れ果てて、誰にも認識されぬうちに崩れて消えるのではないか。
そんな予感がする、ルーフは強迫観念の太い鎖に首元を締め上げられている。
このままでは、このままでは、このままでは。
「………うう」
だけどルーフは泣くことを止めない。
体の本能はくびきのように最悪を回避しようとしている。
だが思考は都合をすべて無視し、叩き潰して涙腺を締め付け続けている。
涙と嗚咽の間、ルーフは消え入りそうな声で名前を。
「………メイ、………メイ」
ルーフは妹の名前を呼んでいた。
虚ろな目のなか、涙を大量に含む眼球。その下にぽっかりと開かれている唇は、一人の女性の名を呼んでいる。
こんなにも水分に満ち溢れているはずなのに、眼球はまるで大量の砂塵を叩き付けられたかのように。
視線を、筋肉と粘膜を僅かに摩擦させるだけで、激烈な痺れと痛みが顔面から全身にかけて駆け抜けていく。
「泣いてはいけないよ、我が子よ」
このまま延々と、独りよがりに涙を流し続けることができたならば。
もしかしたらルーフにも、少なくとも彼にとっての救いはあったかもしれない。
「君にはまだ、………やるべき使命が沢山残されているのだから」
「使命………、使命だって?」
気がつけば自分の肩にそっと、しかし静かに確実に、力強く手を置いている。
右側の耳元で囁いている、ルーフは男の顔を見ないままに、硬直した体からなんとか言葉を捻り出す。
「こんな………、俺に一体、何ができるっていうんだ? こんな………俺なんかに」
皮肉もあてこすりもアイロニーも何もない、ただ単純にルーフは疑問に思っていた。
「一体これ以上、何を? 何をしようっていうんだ」
もうすでにするべき事は全て、概ね終了しているのではないか。
ルーフは単純にそう思っていた。
信じていたかった、そういった方が本心に近しいかもしれない。
だが男の方は、この空間の方は少年の諦観を一切許そうとしなかった。
「何を言うか。計画はまだ始まりの一歩を踏み出したに過ぎない、我々の道はまだ先の先へと伸びているのだよ」
計画、また計画。そればっかりだと、ルーフは体に残されたすべての水と気力を使い果たしてでも。
この悠然たる男に最大限の罵倒と罵詈を吐きつけたかった。
「さあ、時は満ちた!」
男はルーフの歯ぎしりなどまるで聞こえていない風に、あるいは意図的に無視をしているかの如く。
彼の肩から手をはなして、魔法陣の残骸の上で両手を大きく広げる。
「宴を始めよう、晩餐だ、食餌を行わなくては」
車輪の音が近付いてくる。
彼の声に反応している、車輪はどうやら魔法か魔術か、あるいはそれ以外の何か。
もしかしたらただ単に、音声認識の電動で動いていたのかもしれない。
いずれにしても車輪は、その上に乗せられている水槽は男の命令に従い、一切の反論もせず彼の言葉に無言の服従をしている。
それはつまり、水槽の中身もまた言葉に従い、彼らの元へと歩み寄ると同様の意味を持っている。
「( )」
水槽の内部、透明な液体は円柱の中にたっぷりと注がれていて。
中身に詰め込まれている小さな体、人間の幼生体と形がとてもよく似ている。
「ミッタ………」
ルーフは焼けつくような痛みをほんの一瞬、ひと時だけ忘れて、水槽の中の子供の名前を口にする。
何というか、ずいぶんと久しぶりのように思われる。
「( )」
水槽の中の子供は、まさか本当に少年の声を聞いたわけではないにしても。
しかし偶然はセクシャルハラスメントのように嫌らしく、ルーフとミッタの視線がひと時、タイミングの先端にて交じり合う。
「時を同じくして、このように素晴らしく状態の優れた転生者が現れたことに感謝をしなくては」
一体誰に、神にでも祈るというのだろうか。
灰色の視線に耐えきれなくなった、ルーフの琥珀色の瞳孔は流れのままに男の唇へ。
そこから発せられる台詞に視線が注がれる。
「さあ、我が子よ」
思考の空間はごくごく短く。
男はすぐに少年へ、椅子の上に縛り付けられたままの彼へ、優しげな笑顔を向けてくる。
「君には今から、この異世界人を、………彼方の肉体を食べてもらおう」
「………」
頭の中で一眼レフカメラのフラッシュが炸裂したのではないか。
そうでなければ、逆に唐突な嵐が雷鳴と共に轟いたか。
「………は」
何でもいいから何か反応を、リアクションをして。
馬鹿にして笑い飛ばすでも、大いに恐れて涙を流すでも、あるいは余りの狂気的展開に絶句するなり。
何なり、何かのリアクションをすべきだったのだと。
無感情、節減のような静けさに満ちている心の中。
コップ一杯の白湯を零してしまったかのような後悔が、ルーフの胸の内に解けて消える。
「何を言って………?」
だが空白はすぐに終わりを迎えて、次の瞬間にはしおらしく、いかにも人間らしい反応を言葉にしようとしている。
ルーフはそんな自分に違和感を覚え。
それでも今だけは言葉を止めてはならないと、直感めいた思考だけで体を動かしている。
「そんなこと、それってどういう意味」
なけなしの期待を、まだ己の内部に希望的観測が残されていた。
「しかして、そのままの意味さ。我が子よ」
だが男は、少年のすがるような思いなど関係なしに、計画の主張を淡々と言葉に継げるだけだった。
「君はこの怪物を食べるんだ。喰べるんだ。捕食するんだ。食事をするんだ。食べ物として、口に入れ、歯で肉と皮と骨を、内臓の一欠けらも残さないように。血液もすべて飲み干して。一つ残らず食べるんだ。残さず食べるんだ、よく噛んで食べるんだよ。我が子よ」
男は懇切丁寧に、まるで一たす一の計算を、アイウエオの読み方と書き方を教えるかのように。
男はルーフに、相手の食べ方を丁寧に教えようとしている。
その瞳には何の疑いもない。
当たり前のこと、朝ご飯にトーストと目玉焼きを口の中にいれる。
それと同じくらい、同党かつ同様に、男はルーフに食べることを推奨してくる。
「何を言っているんだよ………」
だがそれらの全ては、ルーフにとって何の意味も為さなかった。
「訳わかんねえよ………どうしてそんな、そんなことになるんだよ」
理解できるはずもなかった。今まで以上の不可解が、未知なる恐怖が彼の全身を震え上がらせている。
「出来る訳ないだろ! そんな………っ、人間がそんなことを───」
男が当たり前のように笑っている、ルーフにはそれが理解できなかった。
出来るはずもなかった、こんなことを許してしまえば、今度こそ自分は。
自分は、自分?
一体どうなるというのだろう、その選択をした後の世界はどのようなものなのか。
それはルーフには分からないことであった。
分からない、想像することもできない。
少年の良心が、いかにも物語の主人公らしく反旗を翻し、その途端にからの全身からは大量の魔力が。
そしてついには、彼は完全無欠の無敵のパワーによって全ての敵を討ち滅ぼし、平和な世界を。
………なんてことはない、彼はただ考えることができなかっただけだった。
気がつけば自身の体が横倒しに、椅子ごと地面に叩き付けられている。
殴られたのだと、右側から爽やかな熱量を感じるところによれば、男の腕が自らの頬を全力で横薙ぎにしたのだと。
地面の上、右側だけになった視界のなか。
遥か頭上にて拳を握りしめている男の姿を見て、そして遅れて来訪した頬の熱さで。
ルーフは一ずつ状況の情報を拾い集める。
「愛しい我が子よ」
振り上げた拳の熱など、まるで最初から存在していなかったかのように。
男は、少年と同じ名前を持つ男は穏やかそうな笑顔を浮かべて、無音で指の圧縮を解いている。
「ああ、君は本当に愚かだ。愚かで………だからこそこんなにも愛しいと思うのだろうか」
とても愛情など感じられない、一体これのどこに愛なんて、人間らしい感情が伴っていると。
そんな主張が出来るのか、ルーフにはまるで理解することができなかった。
夜中にかけて自己嫌悪に満ち溢れている。




