ドラッヘ劇的ビフォーアフター
ひーめいどあぐれーどとらんすふぉーめいしょん
キンシの口から発せられたそれ。
空気を使い、声帯を振動させて、舌をうごめかし唇を開く。
一連の動作によって生み出された音の連続は、メイにとっては意味不明。
それどころか、なんの意味も持たない雑音、戯れ言のようにしか。それにしか聞こえなかった。
だが、彼女が理解を現実に届かせようが、いまいが。彼はしっかりと、確実にその言葉を耳にして。
「了解した」
シグレと言う名の男性は言葉を身に受け、自身だけのものとして、確定した。
そして。
彼の体から音が鳴る。
膨らむ、本当は音なんて鳴っておらず、それはメイが目にしている光景の成り代わりの余り。
音の無い変化が受け入れられず、しかし彼女の戸惑いなど関係なしに。
「uuu,uuaaaa---!」
シグレの体は、まるでその体内に大量のヘリウムガスを注入されたかのように。
風船のように、チューインガムのように、ウーパールーパーでしかなかったその体は。
せいぜい人間の幼年体程度の大きさしかなかったはずの、しらしらしていた肉体は。
もとより欠片もなかったはずの常識を、ただでさえあり得ないその実からさらに。
何か、何かしらこの世界の生き物としての、大事なルールですら。問答無用に、一切の例外も許容することなく、徹底的に焼き潰すかの如く。
「aaa--ii. フくらむ膨らむ膨らむー」
それでもどうにかして、全身を膨張させている彼の姿を常識的に捉えようとして。
メイは言葉を出そうとする、口を開いて、それとなく意味のある言葉を使おうとする。
「あ……」
なんて言おうとしたのか。
間違いなく彼女の頭が考えて、誰に命令される訳でもなく彼女は自身の声で話そうとしていた。
「あひ……」
だが、そのはずなのに、どういう訳かメイは自分が、自分でこれから何を言おうとしていたのか。
どうしても思い出すことができなかった。
忘れてしまったのだ。そもそも話せるはずもなかった。
何故なら、なんて理由なんて考えられないくらいに。
シグレの体はものの十秒すらも必要とせずに、あっという間に二階建てアパートよりも少し大きいか、そうでないか。それ位のサイズまで、自らの肉を増幅させてしまっていた。
こんなものを見て、こんな、あからさまに人間的ではない。
人間であるはずならば、出来るはずもない。ありえない光景を目の前にして、一体何の言葉が意味を持つというのか。
と、いろいろ御託を並べてみて。
結局のところ、つまり、メイは何がしたかったのかと言うと。
「あひゃあああ?」
あらんかぎりの悲鳴を、異常と非現実に対しての最大限のリアクションを。
雨風吹きすさぶ空気の音に負けず劣らず、全身全霊、全力をもって悲鳴をあげること。
ただそれだけであった。
「おおー、これはなかなかに」
エリーゼが雨粒に顔を濡らさない程度に、顔を上に向けて変化の成り行きを見守っている。
仕事柄、冥人という症例との付き合いが多い魔術師たち。
彼らはすでに、シグレの身に起きるであろう変化を影響を受けない程度の距離感を保ち。
魔法使い共よりは少し離れた所で、二人の男女は事の成り行きを見守っていた。
「まさかあれだけの大型が、どこの管轄にも認知されていなかったとは……。魔術師さんも意外と職務怠慢がヒドすぎると思いません? ねえ、センパイ」
エリーゼが皮肉半分、それよりも少し本音を多めにした軽口をはたいている。
「あー……、そうだな、そうかもしれないな」
しかしエミルの方は、そんな後輩女性のジョークに付き合えるほど、柔軟スマートな態度を作れないでいる。
「興味津々ですねえ、センパイ」
相手の反応を少し待って、是とすることの出来ないほどに空白があいた後。
エリーゼはエミルの視界に少し覆い被さる動作で、彼へ若干強引に話題をぶつけてみる。
「え? ああ、あー……っと、そうだな」
黙考へズブズブと身を浸しかけていたエミルは、彼の認識にしてみればいきなり視界に登場した後輩女性の姿に、目を丸くせざるを得ないでいる。
「やっぱり城お抱えの魔術師さんってのは、ああいうのを何人も相手したりとかするんですかねー?」
その上に覆い被さってくるのは、たまたまなんとなくエリーゼの近くにいたヒエオラの、あまり緊迫感もないのんびりとした声音であった。
「いやいや、あんなに大きなのはアタシ達でも、そうそうお目にかかれないわよお」
返事に遅れたエミルの代わりに、エリーゼが世間話をする感覚で、一般市民に業務の情報を小分けに伝える。
「ひとくちに冥人と言っても、個体によって症例は様々あるからねえ。アタシ達側も、それぞれの病状に合わせて、個別の対応をプログラムする。ってのが、本来の流れなのよ」
細切れに情報をそれとなく与え、決して本髄は明かさぬよう。
女性魔術師の瞳にはゆるぎない、静かな緊張感が灯っている。
「ふうん、そうなんだあ」
業務的な画策など露知らず、知った所で己の生活圏には一切の関係なしと。
ヒエオラはあくまでもゆったりとした様子で、魔術師の話に耳をかたむけている。
「なんだかそう言うと、本当に風邪とか腰痛とかリウマチみたいに、普通の病気みたいだねえ」
彼としてはほんの些細な軽口みたいなもの、会話の潤滑油的に発せられた戯れのつもりでしかなかった。
「その認識は正しくて、同時に間違いでもあるんだ」
だが言われた方は、エミルと言う名の男性魔術師はその言葉について。水が流れるのと同様のものと受け止めることは出来なかった。
「彼らの体、その身、脳細胞の神経に起きる事象は、未だにオレ達の理解の追い付かない場所から。いつも、どんな時だって、予想も予測も出来ない場所からやってくる」
赤い眼帯の上にさらに、暗い色の雨がっぱのフードに隠されて、彼の青い瞳は外部の視点からほぼ完全に遮断されている。
「だからこそ、他人の視点から限定的な、決めつけた範囲で物を語ることは出来ない。だが、それでも全体に共通していることは、ちゃんと幾つか記録に残されてはいるけどな」
見えない、そのはずなのに。にもかかわらず、彼の視点は分かりやすいまでに、視線の先は一つの肉体の変化の在りかたへと固定されている。
「どうしても彼らは、……あの人たちはその体から人間性を否定する傾向があるんだ。人として生きているなかで、どうしても自らの存在価値に疑問を抱き、やがては己の否定へと執着する。そういった傾向があって──」
「よーするに、もうこれ以上人間なんてやってられるかー! って気分になっちゃうんだよねえ」
小難しい言い回しになりかけて、それでもなお自身の言葉を止めようとしない男性魔術師。
頭上にクエスチョンマークを浮かばせている一般市民を気遣って、エリーゼはそれなりに信憑性のある要約でクルリとまとめる。
「魔法や魔術が、こんなものを作りたいって思いで出来ているとして。やっぱりあの人たちの姿も、そう考えてみると、魔法や魔術とあまり大差ない。なんて、アタシは考えてみたり、みなかったり」
いかんせんデリケートな話題、なんと言っても他人の健康状態について語るのである。
彼らが曖昧な言葉を、ソロソロ目に見えない何かにそっと気遣いをするような語りをしている。
その間に、話題の中心たる男性の体は変化をいよいよ決定的なものにしていて。
「うわあ? 背中がバクハツしそうよ」
魔法使いたちのそばにいる幼女の、ほとんど悲鳴に近しい叫びが雨音の隙間を縫って、魔術師たちのいる所まで届いてくる。
彼女が見ているとおり、そして叫んでいるとおり。
男性、の声を持つ異形の体は、次にエリーゼが目を向けた時点ではすでに三階建てマンションか、あるいはそれ以上のサイズへまで膨れ上がっていた。
「おおお、背中の皮が盛り上がって」
それなりに非難したにもかかわらず、その行動さえも無意味だったかもしれないと。
いつの間にやら、音が聞こえる程度の目前にまで迫ってきている。
艶やかな肉の塊を目に、エリーゼが実況中継のようなコメントを一つ二つ。
「ボコン、と芽が出るみたいにコウモリの羽みたいのが二枚でてきた……。あれ? 二羽って言った方がいいかな?」
言い回しの正誤はこの際関係なく、エリーゼが言うところの台詞は、何の脚色もされていない。
比喩表現など一滴も含まれていない。
彼女は見た、そのままを特に考えることもなく、ただ言葉にしていた。
「ウおおー! 解放感ハンパねー」
変化、この言い方は受動が過ぎたかもしれない。
「ヤっぱりこの姿だと、クう気も雨水も甘く感じるような気がするぜ」
それはまさしく変身であった。
とある安定した状態から、あえて別の形へと変異することを望む。
行為に何かしらの犠牲を伴おうとも、それが他から求められる命令文であったとしても。
最終的に、あくまでも己の意思で変わることを望む。
と言う観点においては、シグレの身に起きた結果はまさしく変身、それ以外の何に例えることもできない。
「終わりましたかあ?」
今回は当人と関係者その他の任意の上、ある程度最終形態は予測できるものであり。
だからこそ、自分たちは出来得る限りの冷静と平坦を保つべきである。
と、魔術師同士で言い合わせていたつもりはなくとも、無意識の内にそういった命令が取り決められていた。
「ええと、そうですねえ」
エリーゼの確認に合わせて、キンシが大きな声のままにシグレへと言葉を伝達させる。
「調子はどうですか?」
実際は伝達の厚意に大して意味はなく、それでもシグレは律儀にキンシの方へ返事をする格好を作り。
「ケっこう結構、バん事準備オッケイさ!」
大きく口を開いて、シグレと言う名の男性は己の体調について報告を行う。
開かれた口のなか、ずらりと並ぶ牙と牙の間。
ヌラヌラと、青色の表面に包まれている舌が覗いている。
その奥からシグレの声が、彼の音声が空気をビリビリと魔術師に向けて振動させてくる。
「そうですか、分かりましたあ」
変身の終わり。
確認行為を終わった魔術師たちは、互いに目線を合わせることもなく、目の前の現状に対して各々感想を。
「見事ですねえ、これはなかなかお目にかかれない症例ですよセンパイ」
「ああ、そうだな」
エリーゼが彼に笑いかけてくる。
だがエミルはそれに構うことなく、最初から最後までずっと、一人の人間の体に起きた変容を見続けていた。
「劇的だな。オオサンショウウオが……、あー……こういうのってなんて言うんやったか?」
それゆえか、それともただのど忘れだったのか。エミルが対象を形容するための言葉に迷っている。
「何でもかんでも、こんなのドラゴン以外のなにでもないですよお」
先輩魔術師が口を半開きにしたまま黙っている。
やはり沈黙を通り抜けて、後輩魔術師がそれ以上ない描写を言葉にしていた。
変身の後は肌がひきつる感覚があるそうです。




