さらば心の安息よ
永遠に戻らない。
少年は眠気に襲われていた。
なんと言っても体を読んで字の如く焼き切られ、火傷なんて呼ぶこともできない位に。その位に彼の体は明確な被害に晒されている。
「うう………、うう………」
本音、肉体の本能に付き従った願いをいえば、ルーフは今すぐにでも眠りの状態に身を沈めたかった。
眠って、全ての意識を何もない、本能と生命だけの暗闇に捧げたかった。
「おお、無知なる少年よ、我が子よ。ルーフよ、………君は知らなくてはならない」
だけど今だけは、そうする訳にはいかないと。
ルーフの理性が然るべき本能を、正しい生命反応を存在しない金槌で叩き潰している。
「とは言うものの、君はすでにその身をもってこの世界の仕組みに触れている。だとすれば………、あとに必要なのは簡単な事後報告だけ、………かな?」
そうでもしていないと、男の声を聞くことができない。
ルーフは、彼は目の前で笑っている彼の話を聞かなくてはならない。と、ルーフの中で強迫観念が鐘を打ち鳴らし続けている。
「彼の者たちは現在において、様々な名称で呼ばれている。広く一般に知られ、親しまれているのは………。えっと、なんだったかな………?」
男はどうやら、あまり学校の教師には向いていないらしい。
決して滑らかで解りやすいとは言えそうにない。
だが語調と雰囲気だけで、それとなく、それらしい説得力を可能にしている。
「まあ………名前なんてなんでもいい。そこに意味は無いんだ、………重要なのは存在が与える結果のみ」
どこにも焦点の当たらない、虚ろな視界の中心において男は語りを継続する。
「この世界において、決して美しいとも言えない不完全なる………、我々の領域において。彼らの存在が意味する役目、使命とは。………君はどう考えるかな?」
男はルーフに意見を求める。
言葉の格好はそのような形状を作っている。
だが、もう既にルーフは彼の、その行動が相手を考慮しているものではないと、薄々気づき始めている。
「物語においての、………彼らの意味は。幾つも会って、それらを一個の個別として語ることは困難を極める方法であり。ある意味では………無粋な手段とも言えよう」
そうであっても、今。
もしもこの最短で六十年にも満たぬ人生において、「決して眠ってはならない」と言う宿命を架せられる。と、すれば。
まさしく、今。この時が紛うことなくそうであると、男の声をバックグラウンドミュージックに。
ルーフは決意を、ただそれだけ、それだけは失わないように。し続けている。
「灰色の王国、我らが存在をする世界。そことは異なる、そこは魔法の存在しない世界。人にも、獣にもなれない、人非ざる者共の息衝く世界」
目を開けている時間の端から、一切の隙間も余裕も許すことなく。
眼球は受け入れざる痛みに襲われている。
「彼らの国へと辿り着くためには、どうすれば良いのか? 魔導の根幹はそこに機縁する」
男は少しだけ悦に入っていたのか、しかしすぐに視線を下に落として、吐息を一つする。
「と、個人的な見解を押し付けるべきではないな。この場合にいおいては、それは不必要だ」
綺麗に刈り込まれた、スベスベと整った顎のあたりを物欲しげに擦りつつ。
彼なりに無駄話をしてしまった、そのことを自覚の上で、男はもう一度語りを再開する。
「要するにこの話の重要なポイントは、まず、彼らは人間でありながら人間ではない。この一つの事実に集約する」
それはつまり、結局どちらなのだろう。
真正直かつ素直に、疑問を馬鹿みたいに声に出した、訳ではないのだが。
「つまり、体に組みこまれた魔力の遺伝子ゆえに、思考の崩壊が身体に具体として出現した。事実としてはすでに、この世界に幾つも起きている。………えっと、つまりは、風邪みたいなものだよ」
何か大層に、大仰な話をしたと思ったら。次の瞬間にはどうにも緊張感のかける、日常的な単語を使ってくる。
低い声、それはまだ会話と言う形状を断絶することをせず。
「だが彼らははたして、この世界に必要とされるのだろうか? 許容できない世界、現状においては、………彼らは大衆に排斥される側でしかない」
「その姿だと、色々と大変なこともあったでしょうな」
エミルはシグレに、世間話をする要領で話しかける。
「ソう、ウーん? ソうだったかな、ソんなこともあったような、ナかったような」
魔術師に話しかけられるという、まずその現実が受け入れられていないのか。
シグレは唇をぷかぷかと膨らませつつ、要領を得ない返事だけをしている。
「気になっていたんだけど、いまさら、こんなことを聞くのもあれなんだけれど」
世間話をしている大人と、大人に近しい年齢の彼らのやり取りを遠巻きにしながら。
メイが、ついに辛抱堪らんと言った感じに、たまたま近くにいたキンシに小声で質問を投げかける。
「ああ、そうでしたね、メイさんはまだこの事をご存じではありませんでしたね」
ちょっとした不手際を反省するように、キンシは魔女の要求通りに事情の説明を掲示する。
「つまりは病で、彼らと……そして、一応は僕らのこの──」
キンシは左手をいま一度彼女の方に見せる。
メイの目に映る、魔法使いの肌には相変わらず痣が、あからさまに不自然な模倣が表面に刻まれている。
「膚断の炎もまた、シグレさんのそれと同じでして……」
魔法使いは、どうにも人にものを教えるという行為に不慣れらしく。
それでも断片的に得られる情報によれば、つまりは。
「脳、つまりは頭の神経の異常。そこはちょうど魔力と、魔法を使うための器官でもあって。だからこそ、そこに異常が生じた場合、魔力もほぼ同様として異様な増幅を起こす」
らしくなくつらつらと語る魔女。
彼女の口ぶりに若干戸惑いつつも、キンシは都合よく要約してくれた事に対して、素直に感謝の念を抱いている。
「言うなれば精神ですね、思考能力の崩壊がそのまま魔力と直結して。特に、僕らのような魔法使いなどは、自らの健康状態にまで影響させちゃうんですよね」
困った困った、困窮ここに極まれり。
そんな感じに、キンシは左腕を隠しながら肩をすくめてみせる。
「そうなると、シグレさんもかつては魔法使い、だったのかしら?」
先ほどとは打って変わって、いつものたどたどしい口調に戻っている。
メイはそっと、気付かれないようにパン屋の主人の方へと目を向ける。
「うーん? その辺の事情についてはですね、僕よりもヒエオラさんに聞いた方がいいと思いますけども」
さして興味もなさそうにしている魔法使い。
一応近所に暮らしているのだから、もう少し関心を抱くべきではないのでは、ないのか。と、メイが心配している。
彼女の杞憂など気にも留めずに、キンシは調子よく説明を続行する。
「いやはや、しかし、エミルさんとエリーゼさんが理解ある方々で、助かりましたよ」
今後の予定について、やるべき予定をそれぞれの事情に上手く相談し合っている。
魔術師たちとウーパールーパーの彼の姿を見て、キンシはわざとらしく感動をする素振りを見せている。
「僕はもう、ここで少し一悶着をしたうえで、すべての責任を被るつもりでしたのに」
「そこまで心配するひつようも、あるかしら?」
メイは魔法使いの態度を大げさなものとして受け止めている。
「いやいや、いーや、その辺の事情に関しては、メイちゃんが思っている以上に厄介厄の介、なんだよね」
彼女たちの会話に、ヒエオラがいきなり割り込んできて。
「うわあ? ヒエオラさん、いつの間に?」
キンシなどは大げさにびっくりと体を跳ね上げている。
「そろそろ皿を返してもらおうと思ってね、大事な備品だし」
子供乗せに合わせて腰を曲げていたヒエオラは、なんて事もなさそうに顔を上げ。
「ほれ、返してちょ」
クイクイッ、と指を。キンシの近くにいるトゥーイの方へ、彼の手の中にある皿へと差し向ける。
「ああ、そうでした。トゥーさん」
キンシが彼に目を配る。
それと同時に青年も手の中に携えていたそれを、特に躊躇うこともなく渡そうとして。
「お礼、ちゃんとお礼を言って」
すんでのところで、キンシが慌てたように小声で注意をする。
「感謝します」
タイミング的にも魔法使いに言われた、その後に礼を伝えた格好になっているトゥーイ。
「はいはい、どうも、こっちも手伝ってくれて助かったよ」
ちょっとしたやり取りはさらりと流して、ヒエオラは青年の手から自らの所持品を取り戻し。
「自分としては、あまり細かく気にすべき事でもないと、考えちゃったりするんだけどさ」
皿を両手に持ちながら、視線をそこに定めている。
メイは最初、先ほどの魔力行為で備品とやらに不具合が生じたものかと、そう不安がよぎったものだったが。
「そりゃあ、昔あの人たちが皆にどんなふうに呼ばれていただとか、その辺の事を考えるとごま油の腐ったような感じになる、けどさ」
話を聞いている内に、どうやら先程の自分たちの会話の続きを展開したいらしいと。メイはヒエオラの次の言葉をそのまま待つ。
「やれ、悪魔と契約した罰だ罪だ。やれ、社会に不必要で不良で、劣等種だなんだ。そんな話も、昔のおじさんおばさん辺りが良くしていた。けどさ、今はこうして、ちゃんと症例の一つとして扱われている、訳だし」
何か後ろ暗い過去でもあるのか、あるいは単に会話に彩りを加えたいだけかもしれない。
いずれにしても少し空元気ともとれる彼の口調に、メイは若干戸惑いつつも。
「さっきからまるで、病気みたいないい方をしているけど、シグレさんの様な状態は他のひとに移ったりすることが、あるのかしら」
こちらももう躊躇わずに、質問でヒエオラが少し顔を引きつらせるのにも構わないでいると。
「その心配はありませんよ、冥人……と呼ばれる状態そのものに、遺伝性があるわけではありません。あれは単に、脳細胞の分泌物が不足したり、あるいは必要以上に増加したり。それだけですので、ウイルス状に伝染したり、は今のところ認められていません」
滑らかな口調、だいぶ前から繰り返し言い聞かされてきたのか。
あるいはその逆で、キンシ自身が他の誰か、他の意識にそうやって言い続けていたのかもしれない。
どちらにせよ、メイには理解し難いことであることは確かであった。
不治の病ほどではありません。




