パン屋の親父はドン引きする
夜ですね、深夜がやってきます。
かなり特徴的な、雑音なのか不快音なのか、よくわからない程度に印象的な。
そんな感じの歌声であった、
にもかかわらず。残響が全て空間に溶けて消える頃には。
不思議と人々の心に彼の肉声のイメージは跡形もなく、まさしく音と共に消滅を行おうとしていた。
「// …………」
空気を吐きだして、トゥーイは口を閉じたまま下を。手に持っている皿に目線を落とす。
「あ」
エリーゼか、あるいはメイだったかもしれない。
皿の上に生じた変化、いつの間にか出現していた一粒の球体に、小さく驚きの声があがる。
「発生を確認」
トゥーイが声を発する。それは今しがた口、そして喉の奥から捻り出した肉声とは異なる。
首をぐるりと囲む発声装置、そこから出されるケロケロと音程の狂った。機械的な音声である。
彼が言う、それは皿の上にある。
メイは最初、ガラスの球が皿の上に乗せられていると、そう思っていた。
ほぼ限りなく平坦な陶器の皿の表面に、完全に近しい球体が、転がることもなく静止している。
「違う」
だがそれは勘違いであると。
皿の上でプルンプルンと震える球体の姿を目にした時、メイの脳内ではいよいよ意味不明が花開こうとしている。
「魔力……「水」の凝縮? そんな物を作って、どうするつもりなの?」
エリーゼが何かしらの、専門じみた意見を声に出していた。
が、事象の変化は魔術師の意識を遥かに超えて。
「展開を実行します」
皿の上の水球は、青年から下される命令から全く時間を含むことなく。
一気に卵ほどのサイズから氾濫を起こし。
皿一杯、フチからはみ出て、濃い色合いの液体がボタボタと音をたてて、魔法陣の上に零れ落ちる。
使用済みですっかり擦り切れた、しかし文字列はまるで渇きをいやす獣のように。
垂れる水分を一粒も残すことなく、しゅうしゅうと吸い込み。
皿の上、もうすでに小型のバランスボールを少ししぼませた、その程度まで膨らみ上がっていた水の球。
魔術師は瞬きをして、その内部に確認できたもの、人の赤ん坊よりは大きい影の存在の是非を確認する。
球は躊躇うことなく、「ゴプゴププ」と音をたてて膨らみ続け。
やがて、然るべきと言うように、皿の上で大量の水分が破裂する。
エリーゼは驚くよりも早く、衣服への汚染を恐れて腕を前に構えた。
が、彼女が危惧した衝撃は訪れず、あとに残されたのは無音。
せいぜいあるとすれば、外で吹き荒れる雨のうっすらとした気配のみ。
「びっくりした」
エリーゼが目をぱちぱちとさせている。
「出てくる」
彼女の横にいるエミルは、現象そのものにはなんのリアクションをせずに。
視線は真っ直ぐに、トゥーイの皿の上に出現した異物へと注がれている。
「x3w,3sfbkgd6//////」
皿の上で声がする、何か肉の塊らしきものが音を出している。
人の声には違いない、でももしかしたら獣じみた雰囲気も、あったように思われる。
「y? アれ、ナんか視界がいきなり暗く……?」
ゼリー状になっている、皿の上の球だったものの残骸にまみれて蠢いている。
「起きてください」
戸惑うそれ、人の声と気配を持つそれを、トゥーイは特になにか確認することもなく。
無感情そうな手つきで、湿っている魔法陣の上に肉の塊をゼリーごと、ぼったりと落とす。
「ア痛?」
ゴロンと転がる、それは地面の上を転がるほどに、本来の形を世界に主張し始める。
「アれえ? ナに、コこ何処よ」
決して丁寧とは言い難い扱いに、少し体を痛めたらしい。
その「人間」と思わしき声を、紛れもなく口の中から発している。
生き物は床の上を、小さな裸足でヒタヒタとさまよい、パチパチとまばたきをしながら視界を確立している。
「オや、オやおや? コこは灰笛伝統の飲食店、オよび手前の栄えあるオーナー、「綿々」ではないですか」
ぐるりと首を動かして、唇はプカプカと開閉している。
「事前の連絡もなく、いきなりお呼び立てして申し訳ありません。シグレさん」
シグレと呼ばれている、その生き物がそう言った名称で呼ばれて、魔法使いたちはそれを当たり前としている。
「あれが、あれは、」
エリーゼが、魔法陣から少し後ずさりをして。
誰に向けるでもなく、ほぼ独り言に近い形で疑問を呟く。
「人間には見えない、あれは、えっと? なんて言う動物だったかしら。なんか、ウパルだか阿保ドンペリみたいな感じの……」
「ウーパールーパー、だな」
何とか両の足で直立してはいるものの、今にも目を回してふらつきそうになっている。
エミルはそんな後輩魔術師の様子を横目で見ながら、彼女の事実報告に淡々と補足をいれる。
「もしくはアホロートルとも言う、な」
魔術師たちがこちらをじっと見ている。
「オや、オやまあ」
人の注目を浴びている、人の体を持たぬ。
人であって人非ざる、人でなしな彼は現実をそれとなく理解し始める。
「セっかくパン生地の調子が良かったのに、トんだ災難だな、コれは」
「あなたはシグレさんと言うんですね」
軽い自己紹介の後に。
エリーゼは子供乗せほどの大きさしかない彼と、視線を合わせるために膝をおもむろに屈折させる。
「初めまして、あ……私は灰笛城公認魔術師のエリーゼと申します」
「アへえへえ、ドうも」
いきなり距離感を詰めてくる若い女性に、シグレはほとんど無に等しい鼻の下を伸ばしている。
「コんな若い女の子が城専属の魔術師だなんて、イやあ、ヨの中いつの間にか進んじゃっているんだねえ」
なんとも年期を感じさせる、あからさまに人間らしいお世辞の言葉。
「ええ、私のほうも自らの立場を信じ難いものとして、重々受け止めていますよ」
エリーゼは、まさしくこの瞬間にすべての外面を発揮している。と言った感じに、穏やかで人畜無害そうな笑顔を口元に湛えている。
「ところで」
口元を穏やかに曲げながら、だがその上にある左右の目玉は愉快さの欠片も宿していない。
「あなたは、一体、どういった人物なのでしょうか?」
目の前にいるのは魔術師、それもこの灰笛の魔導関係の管理を担う。いわば自警団の総本山に属する者共である。
「ウん? ボく? ボくはこの通り、……ッても初めて会ったからパン屋のことは知らないか。ア、ボくこの灰笛でベーカリーやらせてもらっているんだけどね? ゼひ、ヨろしければ今度いらっしゃって──」
「シグレさん」
きっと彼には慣れきったことなのだろう。いかにもそれらしい語調で、上手い具合に論点を逸らそうとしている。
そういった試みをしようとしている。
だがキンシは、温度の低い声音で彼の言い訳を中断させる。
「この人たちは大丈夫ですよ。えっと、この大丈夫はつまり、貴方の生活圏に害を及ばせるようなことは心配なくて。ああ、でも城の直属魔術師であることは本当のホントではありますけれど……」
キンシは確証もない安心と、継続性に欠ける安全を何とか説得しようとして。
結局うまくいかずに、言葉が行方をくらましかけている。
「別にあなたが何者でも……たとえ」
エリーゼは一拍、短い呼吸を間に挟み。
「城の登録も済ませていない、ノラ冥人であったとしても。当方は、つまりアタシ達は何も見ていない。ってことで」
エリーゼは、早くも堅苦しい口調に負担を感じ始めているのか。割とすぐに社会人らしい言葉づかいを諦めていた。
「要するに、この夜が終わればあなたとアタシは会っていないことになる。何も知らない、赤の他人よ」
言い訳など無意味でしかなく、結局は立場の保証されている人間の言うことこそが、人間の現実に最も意味を持たせる。
と言うのが、世の心理らしいとキンシはこっそり思う。
「シグレさん、そういう訳ですので」
真理をしみじみと噛みしめる暇を持たせずに、キンシが早速相手に要求をしようとする。
「マあまあ、ソんなことを慌てなさんな。ナにが起きているのか全然知らないけど」
魔法使いの声を、今度はシグレの方がさえぎる。
「コっちはいまからご飯食べよって時だったのに、イきなり色々と要求されてもねえ」
普通に考えてみればもっともらしい反論を、あくまでも真剣そうな様子で魔法使いに主張している。
「ですが、貴方ともあろう方がまさか」
イヤイヤ、と子供っぽくジェスチャーを作っている。
両生類の姿を形成している、男性と思わしき彼にエミルが低い声で話しかけた。
「人間でもなく、怪物にもなれず。化け物の海岸線に留まり続ける。貴方ともあろう方が、そんな人間じみたことを言うべきでしょうか?」
言葉だけを見てみれば、異形のものを見下す人間畜生の戯れ言とも、とれなくはない。
だが声には全く卑下が含まれていない。
あるとしたらそれは米一粒程度、それ位の感情しか込められていない。
「ご冗談を、貴方はそんな人間らしい存在ではないはずだ」
あとに残されている、仮面の下の晴天の空と似た色彩を刻む瞳に浮かんでいるのは疑問。
どうして相手がこんな所に、こんな姿で存在している。その事に対する疑問と、静かな驚愕。
彼はそれだけを考えている、それ以外は特に何も考えようとしていない。
「ウん、ンん……?」
じっと自分を見下ろしてくる、視線の方向はシグレにとってはすっかり慣れたもの。
他人に見下されることに慣れきっている、ずっとそうして生きてきた、許容し観念しきっていた。
「ナんだろねこの人、ズい分と熱く語るじゃないか」
退くよりは退かれる方、と思い込んでいた彼にとって、魔術師の視線はどうにも居心地の悪いものであった。
「ああ、失礼。少し熱くなってしまったな」
視線の対象に嫌気を向けられて、エミルは咄嗟に弁解を口にする。
「いや、知り合いに貴方と近しい、あー……っと、似たような症状の奴がいましてね。つい昔の、あまり思い出したくないことが蘇りかけて……」
取り繕うような笑みで唇を曲げている。
彼を見て、シグレはますます不可解さを深めている。
「ナんだかな、ヘんな時に呼ばれて変な人に会わされるとは」
悩む彼に、足音がそっと近づく。
「謝罪は尽きることはありません」
見るとトゥーイが、下方にいる彼の視線と目線を交わらせることないままに。
「エディターは悩むことに継続を架し続けているそれが存在の真相を深く深く。完璧な輝きを得るその時までに鯨は許容しなくてはならないのでしょう」
真っ直ぐ、誰も何もない所を眺めながら、何か言葉を発声させている。
「アあ……ごめん、ナんて?」
だがそれは例によって、限定された人物以外にはまるで理解できない。
ほとんど無意味な音の連続でしかなかった。
米かパンかの論争を重ね続ける。




