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葡萄酒にこの身を沈めた

葡萄ジュースは乾くとベタベタする。

 キンシは彼女の肩に手を置いて。

 そのまま握りしめるように、だが決して薄い肉を侵害しないよう、キンシは細心の注意を払っている。


「僕には貴女の苦しみを理解することができません。そして、当然のことながら、彼の苦しみを知ることなど、到底不可能でしょう」


 魔法陣はすっかり擦り切れて、焼き切れて、元の形をすべて使い果たしている。


 メイとキンシ、彼女たちは何を言うでもなく、しばしくすぶりの残る残骸を眺めて。


 少し時間が経って、キンシが再び口を開く。


「それでも、僕たちは彼らのために出来ること、この手で実現できるすべてのことを実行しなくてはならない」


 呼吸は静かで、口は滑らかに動いている。


 だがメイは、いま自身を懸命に慰めようとしている、この魔法使いの心情について考え。


「ごめんなさいね、私がとりみだしても、どうしようもないわよね」


 そこで芽吹いたのは、彼女自身にとってもあまりにも意外に思えるほどの、軽妙なる同情心であった。


「ごめんなさい、とりみだしてしまったわ」


 メイは笑顔を作ろうとする。だが顔面、そして全身の筋肉が痺れて、感覚は全て遠い所に乖離(かいり)

してしまっている。


 笑おうとして、しかしそれすらも上手くできずに、ただ唇からは中途半端な空気だけが漏れ出ている。


 キンシは彼女の体のあたたかさを手の平に、どうにも表情を直視することができない。


「僕が言いたいのは、その、悲鳴をあげたってかまわなくて。なので、だからそれでメイさんの元気が取り戻せられるのならば」


 どうにかして冷静さを取り戻したい。

 だがそれはキンシにとって、とても困難を極める行為であって。


「ありがとう、私はもうだいじょうぶよ」


 だがそれもどの道、彼女にとっては無意味な行為でしかないと。


 彼女たちは他の誰にも言われずとも、そんなことは百も承知であった。


「さあ、だから、その手をはなしてくださいな」


 メイはいつか、故郷で彼と話していた時の口ぶりを思い出して、キンシに崩れかけの微笑みを差し向ける。


 キンシはそれ以上何も言えなくなって。本当はまだ言葉も足りず、唇の端は重ねられる無言と後悔によって、歪みを濃くしている。


「この魔法陣はまだ、完成されつくしていない。だから、ここで私が役にたたなくてはならないの」


 まるでこれから、彼女はさらなる苦しみの業火に身を沈めんとしているかのような。


 そんな感じの必死の形相で、制止の手を伸ばしてくるキンシ。


 丸々と見開かれている瞳の輝きを横目に。

 メイは胸の内に刃物で皮膚を深々と、赤く切り裂いたかのような爽やかさを覚える。


「大丈夫」


 まだ下げられていない、魔法使いの指先には、その左頬に刻まれている模様と同様のそれが。


 手の甲から指先の爪まで、まるでその肉体を一時も逃すものかと、その様に絡みついている。


「私はもう大丈夫よ」


 兄の額に刻まれている、あの模様と同じ質感のある。


 メイはいつもそれを見る時、心に潮騒のような音色を感じていた。その事をふいに思い出す。


「あなたは少しおめめを休ませて。私はお兄さまをさがさなくては」


 気丈に視界だけでも確保しようとしている。

 だがその奥にある疲労感は今にも爆発し、意識の消滅と共に肉体を現実から切り離さんとしている。


 その視線、片方しかない、欠落した眼球を背にして。


 メイは起き上がった体を、自身の意思で、それ以外の何ものでもない意識で運ぶ。


「あ、まだ入っちゃダメよお」


 大人の女性の声、今回の魔法陣制作の一端を担っている。


 若々しい女性の魔術師、エリーゼが慌てて幼女に声をかける。


「危ないから、情報のノイズがとても激しいのよ。ねえ? センパイ」


 ちょっとした不手際、不都合程度の軽々しさのままに、エリーゼは先輩魔術師に話しかけている。


「ああ、うん、そうやんな……」


 後輩に話しかけられた、エミルと言う名の男性は床に背をくっつけていた。


「大丈夫ですか、センパイ?」


 今更ながら、先輩魔術師のただならぬ疲労感に、エリーゼが戸惑いを色を見せている。


「ああ、オレは大丈夫やって、……ウン」


 息は絶え絶えになっている、どうやら情報の検索は難航を極めているようだった。


 もしかしたら、とメイは予想してみる。もしかしたらエミルもまた、キンシと同じものを見てしまったのかもしれない。


「うん、ちょっと厄介なことになっているから。大人しくしていて……」


 エリーゼは経験したことのない状況に困惑している。


 だがメイは、今更こんなところで彼らの言うことを素直に受け入れるつもりなど、毛ほども持ち合わせていない。


「いいえ、私はあなたの願いを叶えるつもりはない」


 魔術師たちがその言葉に、魔女の宣言に何かしらの反応を示そうとする。


 それよりも早く、素早く彼女は散り散りになった魔法陣に膝をつけて。


 手を伸ばし、指の間に刻印のにおいを感じて。


「あとは私が、すべての整理をつけます」


 顔を近付けて、メイは使い古されて欠けた魔法陣に接吻をする。


 チュ、唇から奏でられる湿った音が、魔法陣の上空に手輝く透明な玻璃(はり)の輝きにキラキラと震えている。


「メイさん」


 何をしているのか、しようとしているのか。周囲の人間が彼女に疑問を抱いている。

 空間の中において、キンシだけが直感めいたものを働かせる。


「止めろ!」


 瞬間に彼女の体が燃え上がる。


 エリーゼが驚くよりも早くに驚愕と、とても許容できない光景に対して悲鳴をあげかけている。


 それと同時に、エミルがそれまでの疲労感などお構いなしに、体を起こして幼女の愚行を止めようとしている。


 だが炎は、魔法の炎は、人体の内に含まれているほぼすべての魔力を。


 すなわち、この世界において普通の健康な人間として生きていくために、必要不可欠な。

 

 そんな魔力をそのまま燃やし尽くさんとしている、炎は。

 魔女による炎は天井にまで達そうと。


 したところで、しかしその輝きは大量の水分によって阻害されることになる。


「あれ?」


 メイが違和感を覚える。

 とほぼ同時に彼女の体は水によって絡め取られ、瞬間にすべての自由を奪われた。


 水の中、息が出来ないと判断する暇もなく、彼女は液体の中であぶくを吐く。


 音も聞こえない、だけど視界だけは嫌にはっきりとしている。

 彼女の視界は全て、透明度のある赤色に染まりきっていた。


 これは一体。


 まさか自身の罪状が今になって、大量の赤い水と言う実体のもとに、断罪を執行されようとしているのだろうか。


 メイはそう考えたが、それはただの思い込みでしかなかった。


 彼女の体は、十秒と待たぬうちに水分から解放される。


「けほ」


 水であることには変わらない。その証拠に、体はそれに触れたときと同様の冷たさを訴えている。


 だが不思議と、呼吸には何ら影響はなかった。しっかりと気管支の中にそれを取り込み、影響は灰にまで達していた、そう思っていたのに。


「キンシちゃん」


 前髪から、断絶された高等部の毛先から雫がぽたぽたと落ちている。


 水の粒が胸の間を滑り落ちて、体毛に滑り込み、へその中にじんわりと侵入する。


 体内からの熱を吸い込み、ぬるさを得る液体。


「キンシちゃん、どうして私を止めたの?」


 メイはキンシの方を、自らの体を捕えた大量の液体を生み出した、小さな若い魔法使いを見やる。


「……」


 左手を真っ直ぐ魔法陣の方へ、中心にうずくまる白い彼女に伸ばしている。


 キンシの視線はじっと、ひとりの幼い魔女に固定されていた。


「……理由なんてありません、僕にはそんなものはない」


 キンシは左手をそっと、出来るだけ音をたてないように降ろす。

 

「僕がそうしたいと思った、貴女に死んでほしくないと、そして彼にも死んでほしくないと。僕がそう思ったから、そうしたんです」


 魔女と魔法使いはお互いを見ている。

 睨む、ほどの攻撃性はなく。かといって傍観するほどの客観性がある訳でもない。


「ぼんやりしとらんと」


 しばし空間に空白が滲む。そんな空気などお構いなしに、オーギが今一番すべき事柄を指示する。


「なんかすごい反応出とるで、はよ集めんと消えんぞ!」


 子供が戸惑っている。そんなことに今は構っていられないと、大人連中は魔法陣に生じた反応に気を集中させていた。


「ああ、なるほど! 魔女による決死の魔力注入によってえ! 最後のパスワードごと破壊されたあ!」


 何故か興奮気味になっているエリーゼ。眼球が乾燥することもいとわずに、その目は大きく魔法陣の飢えに意識を固定している。


「余計なこと言っとらんと、はよスクリーン取れや」


 伸ばしかけた手は無事に空振りに終わった。


 そのことについての感慨を味わう余暇もなしに、エミルは後輩魔術師にするべき命令を下す。


「わかってますよお」


 センパイから支持されたエリーゼは、依然として爛々とした輝きを失わないままに。


 だが手つきは素早く、手際は正しく。女性魔術師は携えていたノートパソコン、のように見える機材を魔法陣の上空に向けて構える。


 柔らかいものが動く音がして、ノートパソコンに似ている道具、ちょうどロゴらしきものが刻印されている位置。


 その辺りから一つ、テーブルテニスの弾ほどの大きさがある、青色の目玉が生えてくる。


 と同時、部屋の中に強烈な光が明滅して。


「……」


 しばしの沈黙。


 エリーゼはノートパソコン、に見えるが、絶対にそれ以外の何かであろう。

 道具とにらめっこをする、その後に。


「やった! 成功しました、やりましたよセンパイ」


 女性魔術師はあくまでも純粋に、魔術の成功を喜んでいる。


「そうなれば、早よお検索をかけろ。油断するなよ」


 エミルもまた起きた事象に対して動揺を隠しきれていない。

 だがすぐに平常心を作り直して、平坦な言葉づかいの中で後輩に後の指示を渡す。


「さて」


 これでおおよその目的は果たせた。

 

 一応を遥かに超えたレベルにて、魔術師たちの仕事は完成に近しい状態にまで到達することができた。


「まずは何より、何にかけても、協力に感謝すべきところ。なのだろうが」


 エミルはしっかりとした足取りで魔法陣の中心へ、そこにうずくまったままの魔女に接近する。


 キンシが軽快に身を動かそうとした。が、エミルは視線でそれをやんわりと制する。


「しかし、君は……貴女はそれを望んでいないのでしょうね」


 エミルは大きな、成長をし尽くした体を曲げて。大きな手を彼女に、メイと言う名の魔女に差し伸べる。


「さあ、次は貴女の願いを叶える番だ」


 メイはその手を取るべきか。


 迷い、だが答えはすぐに自身の腹の内に存在しない水音をたてて、一石を水底に沈めている。


「そうね、私は魔女。自らが望むすべてを手にしないと、まんぞくできない」


 メイは手を伸ばす。

原材料は魔法d94d9.

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