さようならストーリー
日の落ちる影の中にナメクジがいます。
ああ、これは危ないな。モアはそう思った、思っていながらもなにも出来なかった。
出来るはずもなかった、なんと言っても彼女の体はつい先ほど、一秒ほど前にようやく地面との再会を果たしたばかり。
上も下も、正しい認識を取り戻してさえいない。
そんな彼女に、頭上方向より落下してくる巨大な、赤い羽根の塊を回避できる機敏さなど、発揮できるはずもなかった。
だとすれば、モアはそのままルーフの翼に圧殺されるなどと。そのようなことに、なった訳でもなく。
急に横腹になにか、小さく鋭く強い圧迫感を感じた後。
「ふっへえ、危ない危ない」
モアの体は、地面に転がっていた時の姿勢と、ほとんど変わらない格好のままに。
彼女はハリに抱えられて、赤い翼から回避を果たしていたのだった。
「大丈夫ですかあ? モアお嬢さん、脳味噌ぶちまけてませんよね」
大丈夫、の部分にどうにも許容し難い抑揚をつけて。ハリはモアに安否の確認をしている。
「ああ、うん、脳細胞は今のところ、たぶん大丈夫」
今のところ体に痛みはない。痛覚を忘れているだけで、実は、なんて可能性もあるかもしれないが。
しかし、今のところは大丈夫そうだと、モアは自分で診断を下す。
相手の安否を確認しつつ、その事に対して何かリアクションをするわけでもなく。
ハリは少女の体を抱えたままに。
とりあえず翼の被害が比較的少ないと思われるところまで、軽やかに避難をする。
「いやあ、いやはや」
それでも風の強さは依然として強く、いつの間にか心なしか、暴風の中に熱の質感が感じられるようになってきていた。
台風の前の空気に似ている、もったりとした風の中で、ハリはそれでも平然とした様子で風の発生に目を向ける。
「驚きました、まさかいきなり、それもこんなに急激に。破裂を起こすとは、こんな事は人生にそうそうないと思っていたのに。まさか、ねえ」
その目は驚いている。と同時に未知の事象に対する、隠そうともしない好奇心にキラキラと煌めいていた。
「ドキドキしますね、堪りませんね」
「そうね、アタシも胸が張り裂けそうよ」
男性の好奇心に若干の呆れを覚えつつ、しかしモア自身もまた目の前で起きている事象に対して、どこかときめきにも似た感情を抱いている。
そのことを認めなくてはならない、そう思いながら彼と彼女は翼を見る。
いつしか翼の暴走は一旦の収束を迎えて、だが依然として熱風は部屋中に吹き荒れている。
それはまるで温度と、そして質感を得た台風のようだった。
渦を巻く翼、羽根の集合体はまるで燃え盛る炎を形成する火花の数々のよう。
竜巻は回転を止むことなく、その中心にルーフの体はあった。
魔法陣、組織の主によって描かれたもの。
部屋の床の上にあったそれはほとんどが焼き切れていて、あとには炭のように燻る断片だけが残されている。
「………」
魔法陣の中心。少年が拘束されている椅子はそのままに。この、今この瞬間におきている事象を起こすために、集団が用意した機材は跡形もなく吹き飛ばされていた。
「………」
ルーフの周りには、体そのものの周りには、何も無い。
彼は黙っていた。さっきまでの声がまるで嘘のように、彼の体は脳天から足の爪の先まで静寂に満たされ、それ以外になにもない。
悲鳴はない、声もない。呼吸だけが彼の命の存在を証明している。
「ああ、ああ」
彼の顎の先がガクンと、下に落ちて首も曲がる。
しおれたヒマワリのようになっている、彼の体からはまるで、一切の生命力が感じられなくなっている。
「ああああ、ああああ」
モアとハリのいる位置からは見えない、誰にも見えない、そのはずの所。
いつかの誰かが座っていた、それとよく似ている椅子の上。そこで彼は、ルーフと言う名の少年は泣いていた。
涙が止まらない。
痛みによるものなのか、過去の罪に対する拒否なのか。あるいは単に、この許されざる現状に対しての憤慨か。
理由はなんでもいい、それはつまり、理由など無に等しいということでもある。
涙は、結膜の穴、涙腺より。涙は止まらない、ここまで泣いたことなど、彼にとってはとても久しぶりのことのように。
そう考えて、思い返そうとして、ルーフはふと思いとどまる。
久しぶり、そんなことはない。彼の中で記憶が、まだ新鮮さを失っていない、にもかかわらず、この都市にきてからずっと忘れていた。
そんな光景が唐突に、鮮烈かつ具体的な情景として彼の中で蘇ってくる。
「俺が泣いている、あの部屋の中で泣いている」
光景の中でひとりの少年が涙を流している。
白い部屋の中、机の近く、椅子は壊れてしまっていた。
「ナイフはどこだ、ナイフを隠せ、俺はナイフなんて使っていない」
光景の中の彼は手にナイフを持っている。
随分と時間が経過しているのか、刃の表面に付着している液体はすでに乾燥していて、黒に近い茶色に変色している。
「そんなつもりなんて無かったんだ、だって、殺されたくなんてなかった。死にたくなかった、俺は………俺は」
どうしてそんなことをしてしまったのか。
彼は記憶のなか、すでにここには存在していない光景について考えている。
「死にたくなんかなかった、死んでほしくなんてなかった………。だから、だから」
だから、言葉の答えはそのまま映像になっている。
記憶の中で、自分と同じ形の影は震えていて、その下にある肉はもう二度と動かない。
「殺したくなかった、誰が、誰が、殺したいだなんて思うんだ」
少年は怒っていた、悲しんでいた。それと同時に、心のどこか狭い、片隅で。
ルーフと言う名の少年は、涙をこぼしながら、なぜか笑いが止まらなくなっていた。
「わざとじゃなかったんだ、仕方がなかったんだ」
眼球と唇で、何ひとつとして感情が統一されていない。
彼は混乱しきっていた。訳が分からない、深夜の海をひたすらに泳いでいるかのような、暗黒が延々と目の前に広がっている。
「ああ、ああはは………」
そのまま、彼の体は生温かい海の底に沈もうとしている。
………。
「だけど、君はナイフを掴んだんだろう?」
だけど体が無意識に、温かく甘い世界に沈もうとするのを、男性の声は許そうとしなかった。
「君はナイフを掴んだ、その時に、答えは決まっていたんだ」
いつの間に。部屋の中の誰かがそう考える、それよりも早くに。
暮れる空と同じ色で、男性は少年のことを見つめていた。
「そこで君の、あの穏やかで美しい思い出はおわっていた。後はもう………物語は終わりに向けて進むしかない」
男性の指。年齢相応に節くれ立っていて、あまり血液の雰囲気を感じさせない、冷たい手。
だけど確実に、あの部屋に転がっている肉の塊とは異なる。生きている人間の手。
「さあ、目を逸らさないで………。胸の内、心の臓だけを研ぎ澄ませて、世界だけを見つめるんだ」
少年は、ルーフは、声のする方を、自分の頭を優しげに撫でている。
自分と同じ名前を持つ、大人の男性を見る。
「我が王よ………、今こそ君に与えられた使命を果たす時が来た」
何の話だ、ルーフはルーフの言っていることに疑問を抱く。
「君は、わたし達は、………罪を償わなくてはならない」
贖うべきは全て自分にあると、彼女はずっとそう信じてきた。
信じて、だからこそここまで、こんな所まで進むことができたのだ。
「私のせいだと、そう思いたかった」
弱々しく呟く。メイと言う名の魔女を、キンシは右の目でじっと見つめていた。
「そう思うことで、すこしでもあの人の、お兄さまの役にたっていると。私はそう信じて……」
メイは床にへたり込んでいた。
申し訳程度に清められた白いワンピース。
彼女の細く小さく、未熟すぎる肉体を中心に。
ヒラヒラとした裾が、開花したばかりの花びらのように広がっている。
「だけど、そんなことはなんの意味もなかった。無意味だった、私が……私が言いわけをして、それがいったい何になるというの?」
体全体から全ての力が抜けている。
ただ、それでもメイは口を動かすことを止めようとしなかった。
「無意味だった。お兄さまにとって私は、なんの意味もなかった」
「メイさん、そんなことはありませんよ」
キンシが、らしくないと自覚しているうえで、しかしそれ以上に何も言えないでいる。
「そんなことありません、絶対に、彼にとって貴女は大切な人だったでしょう?」
キンシは何か、彼女のための何かしらの言葉を必死に探している。
だがそんなのは、それこそメイにとってはなんの意味もなかった。
「私のせいで、お兄さまは罪をその身に」
メイは両手で顔を包む。爪が皮膚に食い込んで、それに構うことなく彼女は指の圧迫を。
顔を握りしめて、そのまま潰そうとする。
「私のせいで、私のせいで」
「メイさん」
キンシは彼女の、声をかけようとして、少し思いとどまる。
このまま自分が声をかけ続けたとして、ただ見続けていた自分に、一体彼らの何の役に立つというのか。
いくら言葉を重ねようとも、同情を塗り固めつづけたとして。
そんなものは所詮砂糖でこしらえただけの城壁、感情の雨が触れれば瞬く間に溶けて、跡形もなく消滅する。
だとして、だったら後に残されているのは。キンシと言う名前を持った魔法使いは考えて、答えらしきものはすぐに見つかる。
キンシは彼女の名前を呼んだ。
映像、まだ新しさの失っていない記憶の中で、確かに聞いた名前を呼んだ。
「はい」
意識するよりも早く、彼女はまさしく最初から決められていたかのように。
「どうしたの、キンシちゃん」
名前を呼ばれて返事をする、当たり前の行為をする。
視線がこちらを向いている。バラ色の瞳から放たれるそれを。目に見えない、だが確かに肌で感じ取ることのできる、キンシはメイにそれを見出す。
「ここで、こんな所で後悔していても仕方がありません」
目を逸らさないように、そのままキンシは彼女の肩に回している手の力を強める。
「後悔をしてはいけない、なんて僕にはとても言えません。でも、それと同時に、それ以上に、何もしないで泣き続けることの無意味さを、僕は貴女に主張します」
キンシは一回まばたきをして、瞼の裏の眼球で水分を沁みるように、じんわりとした痛みの中で吸い込む。
「ので、そのうえで。僕は貴女に、メイさんに次の行動をすることを強く、深く望みます」
気の沈むような日でした。




