夕焼け色の羽毛
ふやふやでフワフワなんでしょうとも。
モアと言う名で呼ばれている、少女は語る。
「肉体に魔方陣、それに類するものが生じる。と言う症例はすでに幾つか見て来たけれど、あそこまでハッキリと出てきているものは、久しぶりに見たわね」
少女の言葉、それにハリという名前ということになっている、男性らしきものの声が返答をしてきた。
「しかしあんな所にあるとは、盲点でしたよ」
男性のように低い声は、しかしどこか浮ついていて、少女然とした雰囲気さえもまとっている。
「まさかあの仮面が、そして無駄に長ったらしい乾燥昆布みたいな前髪が。全部おでこの魔法陣を隠すためのアクセサリーだったとは。いやはや、まったく」
場所が場所でなかったら、なんて事は関係なしに。
ハリと呼ばれる人間は思わず天を仰ぎ、「オーマイガー!」のポーズを作りそうになっている。
「盲点盲点、見落とし太郎、ですよ」
そう言いながら、ハリは自信よりも少し前の位置に立っている、モアの後姿に笑いかける。
「太郎でも次郎でも、なんでもいいけれど」
彼の軽口はともかく、そんな事は心底どうでもいいと言った感じに。
「けれども……。もうそろそろ動ないと、本気にマジにヤバいんじゃないかしら」
二人は部屋の隅に構えている。
傍から見れば二人の、年の離れた男女が談笑している風にしか見えない。
「いえいえ、モアお嬢さん。まだ、まだまだですよ」
しかし前方の少女に話しかける、男性の唇にはただならぬ緊迫感が漏れ出ている。
「結果はまだ、過程すらも起きていないのですから」
彼、そして彼女の視線の先。
「ぎゃあああ、ぎゃあああ、ぎゃあああ」
そこでは一人の少年が拷問されていた。
正確に、無感情に事実に基づいたとしたら、それは拷問とは少し異なる行為ではあるのだが。
しかしそこにどんな事情があったとして、それとは関係なしに、少女にとってそれは異常なものにしか見えなかった。
「ああ、見てらんない。めまいがしてきたわ」
口ではそのように、しおらしく少女らしく。
いかにも普通の人間らしいセリフを吐いている。
「早く終わってくれないかしら」
だけど視線はずっと、ひと時も逸らされることなく、行われている行為に固定されている。
「そうですねえ」
ここからは見ることのできない、少女の青い瞳。
ここからだと少年の悲鳴が、彼の肉体が傷つけられる様がとてもよく見える。
「もうそろそろだと思う」
その所、その辺りで。
部屋の内部で小規模な、不完全なる爆発が出現していた。
少年の悲鳴が止むか止まないか。その辺りの判別をつけることは出来なかった。
「あ、え?」
それよりも早く、少女の体は出現した暴風に晒され、さらわれていたのであった。
「うう、わ」
衝撃はどこにも吸収されず、モアの悲鳴は声になりきる前に次々と消滅をしていく。
音も、視界も奪われている。
「……っ!」
せめて視界だけは失いたくないと、モアは瞼の端が引き千切れそうになるほどに、青色の目を見開く。
赤色、まず最初に見えたのはそれだった。
赤色が目いっぱい、少女に見えるすべての世界の端々に満たされている。
その赤色は少年から発生している、少年の体から赤色が、まさしく爆発的に生まれ続けていた。
何の色か、モアには意味が分からなかった。
意味は分からなくとも、しかし、出現そのものは不思議と、異様なまでの冷静さで確認することができる。
モアの体が落ちる、だけどそれは本来の重力に則した速度ではなく、嫌にゆっくりとした。
ぬるい湯に着のみ着のまま身を沈めたかのような。モアは着用している衣服の裾がはためく、柔らかな音を聞きながらそんな事を考える。
「ああああ、ああああ、ああああ、ああああ」
少女が落ちている、そのすぐ近くで少年は爆発をつづけていた。
その体は椅子に縛り付けられたまま。
少年は、ルーフと言う名を名乗っていた彼は上を向いていた。
上を向いていて、赤みの強い瞳はどこも見ていない。
あまりの衝撃と痛みの余り、瞼を開いたまま気を失っているのだろうか。
ぽっかりと開かれている瞳には、彼自身の額から生じている無数の赤色。
赤色のように、そのように光っている、それは翼のようだった。
「────、────、────、────」
ルーフの喉はとうの昔に、稼働の許される範囲を通り越して。
もはや唇から発せられるのは、音としての体も保てていない空気漏れだけ。
「か………あ」
それでも彼は誰かの名前を呼ぼうとしていた。
記憶を動かして、脳細胞に電流を走らせる。
「あえ」
そうすると、すればするほど、彼の額から出現する巨大な翼は勢いを増していく。
今のこの体を、この部屋全体を支配している無重力的状況は、あの翼によってもたらされているものなのだろうか。
未だに地面と再会を果たすこともなしに、翼から生じる幾つもの先端にその身を絡め取られ。
すっかり体重を預ける格好になりながら、モアはひとり考察を深める。
あれは? あの翼は一体何なのか。
未だに体には衝撃の残滓が沈んでいる。
それでもモアは、何よりもまず視界だけは失わないよう、眼球が零れ落ちるほどに目を見開き続ける。
少女だけではない、この部屋にいるすべての人間が、今この瞬間にその意識の全てを少年の体。
体から、まさしく羽化のように発声を継続している翼に意識を捧げていた。
翼はうねり、しなり、幾つもの筋を縦横無尽にひらめかせている。
その問答無用に意味不明な光景は、不気味だとか滑稽だとか、あるいはおぞましいだとか。
ともかく、他の人間の皮下からありとあらゆる否定的な感情を呼び覚ます。
と、同時に。どうしてこうも……、そう人々は考える。
どうしてこんなにも、自分はこの翼から目を離すことができないのか。
その翼は赤色、いつかの夏の日に見た夕暮れの色と、どこかよく似ている。
鮮やかな夕焼けの輝きは、止めどなく成長するかと思われる。
だがこの世界のありとあらゆる物体と共通して、その翼もやがては動きを止めることになる。
「………」
止まったもの、瞬間にせいじゃくが部屋に満たされ、衝撃を失った人々の体には本来あるべき力が。
重力やその他諸々が戻り始める。
「い」
少年が、しばしの無重力と沈黙によって幾らか回復したのかどうか。
少年が口を開いて、声を出した。そのことに気付いたのは、この部屋の中でも数は少なかった。
「あぎゃ」
誰かが悲鳴をあげる、少年の声ではない。モアが声のする方に目を向けると、魔術師だか錬金術師だか、どちらかの誰か。
それが地面にうずくまっている、何をしているのか、確認をするまでもなくその周囲には別の赤色が。
つばさとは決定的に異なる、水分と粘度を含んでいる。人間の体液が飛沫となって、床の上に細やかな水玉模様を描いている。
「ひいい」
「ううう」
「わああ」
一つと錯覚していた異変は、実際には複数存在していた。
気が付くと部屋の中に、不特定多数の異変と悲鳴が弱々しく発出していた。
「これは?」
ようやく地面と体の再会を果たした。
しかし着地の仕方の都合が悪く、でんぐり返しの途中みたいな格好になっているモア。
彼女の横で、上から人間の体が落ちてくる。
男性のように見える、それかただのパンツスタイルの女性だったか。
どちらにせよ、その人間は体を翼に絡められて、まるで鞭の要領のまま床に叩き付けられている。
「あー、あー」
翼は荒れ狂っていた。
生まれた瞬間の柔らかさは既に失われて、まるで一つの生命が成長をするかのように、その全体は今や手の付けられないほどの攻撃性を発散させている。
「これは、また……」
モアが、流石に目の前で今まさに起きて、起き続けている事象に驚きを隠せないでいる。
「もう少し近付いて、……あっ」
そんな彼女の上に、一つ寂しげに宙を漂っていた翼の一本が、少し用事を思い出したかのように落ちてくる。
人生初替え玉。




