助けて!
とは言うものの、爆風吹きすさぶこの異常事態において、心からの安心を満たせるほどメイの心は強靭でもなかった。
兄の、ルーフの声は今のところ生命力にあふれている。もしかしたら、耐え難い不安が幼女の心筋を掻きむしる。もしかしたらこの原因不明の理不尽な爆発によって大事な、何よりも大切な兄の身に深手が刻み込まれてはいないだろうか。
一度ネガティブなことを考えてしまうと、彼女の不安の歯車は回転の勢いを止めようもなく増していった。
自身の体の痛みも忘却し、メイは依然として土埃舞う店内を駆け出していた。
「お兄さま! いますぐそちらに向かいます!」
妹の自らの身を考慮しない行動に、兄は慌てて制止の叫びをあげた。
「止せ! 危険だ! 来るな!」
兄であるルーフの、巨大な獣に追い詰められたかのような叫び。
妹のメイがその言葉に含まれた警鐘を察するより先に、彼女の肉体は既に行動を終えてしまっていた。
「あ、え?」
調理場という名の壁の中から自分の足で抜け出したメイは、まず最初に調子の外れた声を漏らす。
彼女は、自身の瞳が視認している光景を即座に受け止められないでいた。
一秒、それよりも短く速い時の中で、メイはとにかく一番最初にルーフの姿を探した。
ルーフはこの店に入り、男性と諍いを起こした場所からそう大して離れていない所にしゃがみ込んでいた。
突然の爆風によって体のバランスを崩したのか、床に膝をつけている。膝からほのかに、赤色を帯びた体液が染みだしているのを見て、メイはそれだけでいても立ってもいられなかった。
しかしある一点の、巨大で強大な異物による緊張感が彼女の体をギリギリのところで引き留めていた。
ルーフの足元でタイヤの空気漏れみたいな呼吸音が響いてくる。彼の足元にはつい先程まで顔を真っ赤にしていたはずの男性が、打って変わって真っ白な表情で気絶していた。衝撃波によって強く頭を打ってしまったのだろうか。
じっと。
爆発によってそれぞれのアクションを起こしている人間たち、彼らを見つめ見下ろしている視線があった。
気絶によって意識を手放した男性以外、この場にいる全員がその存在が放つ存在感を、否応なく感覚させられていた。
ずるり。
生き物がだす、生き物らしい肉がこすれ合う音。その音がメイの背中の、背骨が埋まっている辺りの皮ふを這い登った。その音は彼女にとって聞き慣れていた音と、とてもよく似ていた。
兄弟たちは、大きな大きなその生き物を見ていて、生き物の方は兄妹達とは別の、二人の人間を見つめていた。
二人の人影、小さめなのと大きめなの。メイはそのどちらにも見覚えがある。判別する必要もなく、間違いなく自分たちより後に入店してきた、自らを魔法使いと称する二人組であった。
確か片方の小さい子供はキンシという名で、もう片方は……、なんて言う名だったかしら?
幼女はどうしても青年の名前が思い出せなかった。思い出す余裕すら作れなかった。
なぜならこの、[綿々]という名の飲食店の入り口付近には、
それはそれは、大きな怪物が体を突っ込ませていたからだった。
「あーあーあぁぁぁああ あ あ あぁ」
生き物らしくない粗雑な空気の流れ、しかしどうしようもなく生物らしい湿り気がたっぷり含まれた空気の音。
それは怪物の体から発せられている音だった。怪物は、どことなく苦しげに呼吸をしていた。
崩落によって元々の倍の大きさにこじ開けられた店の玄関。怪物の滑らかな体と壁の隙間、その向こうに見える外に怪物の細い尻尾が見えていた。
尻尾は力なくビチビチと、降りしきる雨に先っぽを浸している。
ルーフは怪物の姿かたちから、蛙になりかけのオタマジャクシを連想していた。
巨大オタマジャクシ、その前に若者と青年が立っている。
裾と袖の長い、作業着のようなものを上に羽織っている青年が、犬のように大きな耳を傾けながら若者に報告をする。
「確認しました、敵性生物である確率九九.九パーセント」
青年は少年にとって聞き慣れぬ、電子的な音声で状況を誰かに報告していた。
「活動に必要な核の数は一つ、倒すことは容易です」
青年は腰回りに提げていたポーチから、一冊の古い文庫本を取りだした。カバーのない量産型の安価そうな本、ページの真ん中あたりに栞の紐がのぞいている。
青年はその本を持ちながら、自分の右隣に立っている子供に報告を、語りを続けている。
「ですがしてはいけません、先生。油断をすることは」
「愚か者のすること、でしょ?」
青年に先生と呼ばれている子供が、場の空気にそぐわない穏やかさで笑みをこぼしていた。
笑っている、そうしていると子供の頭に生えている、子猫のような耳がピクリ、とかすかに動いていた。
「同じことを何回も言わなくたって、わかってますよ」
子供もまた青年と同じく、胸のあたりから何かを取りだそうとしている。
上着の胸ポケットのなか、そこを左手でまさぐっている。
ルーフは遠目から見て、若者の右手の中にある物が、一本のペンであることを理解した。
普通のペン、文房具屋に売っていそうなもの。
キンシはそれを左手に握りしめ、唇に寄せてジッと沈黙をたたえている。
「う、うわああ!」
カウンターの中から、ようやくこの状況に相応しい人の悲鳴が響いてきた。
ヒエオラ店長殿が、ようやく爆発のダメージから回復したところ、自らに降りかかろうとしている世にも恐ろしい事態に当然なる反応として叫び声をあげたのだ。
若い男性の声に、彼方が体をびくりと震わせる。
そして二人の魔法使いに、
「危ないよキンシ君! 逃げなきゃ!」
と叫んだ。
しかしキンシと呼ばれる若き魔法使いは、店長殿の助言を受け入れるわけにはいかなかった。
「怪物を目の前にして、逃げろだなんて」
キンシがカギを握る右手に力を込める。
「魔法使いに一番言ってはいけない言葉ですよ!」
キンシの体の肉が伸縮すると同時に、ペンが手の中でゴムのように伸びた。
手の平で掴めるほどのサイズしかなった筈のそれは、瞬く間にキンシの身長より長くなる。
伝説の猿妖怪が所持している武器のように、魔法使いは道具だった物を地面に打ち付けた。
どうやらそれが怪物に対抗するための武器らしく、確かに元々は持ち手だった部分が、今は人間の手ほどの大きさがある、切っ先が五つある槍の穂先に見えなくもない物体になっていた。
キンシは手慣れた手つきで武器を回し、色とりどりの意志で作られた穂先を彼方に対して構える。
ルーフの眼の前に槍の石突にあたる部分、鍵としての名残があるおうとつが向けられた。
キンシはやはり楽しげに呟く。
「やれやれですねトゥーさん、お昼ご飯を食べる前にとんでもない仕事が舞い込んできました」
青年が魔法使いの言葉に返事をする。
「先生そうですね、期待しましょう報酬に」
青年は背後の少年に意識を向けつつ、まだ武器を出さないでおこうと判断した。
このくらいの彼方、この程度の怪物ならば、隣にいる魔法使い一人でも対処できると思ったのだ。
彼方と人々に呼ばれる怪物が、人の発する戦いの匂いに反応する。
そして悲鳴をあげた。




